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数か月前にまぁまぁ意気込んでTwitter辞めましたが思考のスピードが低迷しており対象も定まらず滞って仕方ないので我ながら誠に遺憾ではありますが新たに作り直しました。よろしければよろしくお願いします。

 

堕落論 /坂口安吾

 

4.5年前くらいに書いた堕落論についての所感が発掘されたので微妙に修正して載せておこうと思う。

 

坂口安吾堕落論を貫いているものは「それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。」ということであり、社会的秩序、伝統、流行といったある種の固定概念的な枠の押しつけがましさに対する、坂口安吾の抵抗であると考える。そういった枠が我々に降りかかるときにどう生きるべきか、ということがこの堕落論ということになるだろうと思われる。
秩序や伝統というものの枠に収まるとき、人間の進歩はないと考える。さて伝統という枠が今現在の状況に耐え得るかということである。それは太宰治が戯作者であるときに、優れた作品が生み出されたと考え、宮本武蔵が勝つために(つまり生きるか死ぬかに於いて生を選び貫く為に)は、現在まで殆ど形を変えずに受け継がれてきた伝統という枠がいつまでも社会に生きる上で適用できるか、または現在に於いてもそれが有効か、ということである。その既存の枠を常に疑い、坂口安吾堕落論というまた別の枠を作り上げる。坂口安吾の“堕落“という言葉には世間一般の常識から見れば堕落であろう、というある種の皮肉が含まれていると思われる。人間は堕落する生き物であるがそれを社会や政治に向け、その所為にするのではなく「自分自身を発見し、救わなければならない。」ということである。坂口安吾の眼には、社会が個人の上に乗っかっているものとすれば、余りにも個人が社会の考え方に飲み込まれ人間本来の自我が消え去っているように見えていたのかもしれない。そして、社会と自己の間に家族という共同体が存在する。つまり共同幻想から、自己への堕落の過程として、坂口安吾は家庭を持つことで一つの足場を獲得したのだと思われる。坂口安吾は家庭を持つということが「実際は美徳よりも悪徳にちかいものではないかという気が、私にはしてならなかった。」と言っている。しかし、坂口安吾はその後結婚し子供を授かる。彼が嫌悪していたものは社会的な道徳的秩序であり一般的な常識である。それを守り通すことが美徳という古来よりの伝統を嫌悪していた。彼にとって結婚するということは、制度上で測られるような問題ではなく、そういったものを規定されることを拒んでいただけのように思う。制度によってその愛という感情を量或いは質化することを拒んでいたのだと思われる。何故なら、「私は決して家庭が悪いと断言しない。断言できないのだ。」と言っていることからも明らかであり、そして「もし、家庭というものに安眠しうる自分を予想することができるなら、どんなに幸福であろうか。」、「スタンダールの墓碑銘の『生き、書き、愛せり』ということが改めてハッキリ僕の生活になったのだ。だが、愛せり、は蛇足かもしれぬ。生きることのシノニイムだ。もっとも、生きることが愛することのシノニイムだと言っていい。」という文面からも推察できる。そして結婚しようがしまいが「絶対だの永遠の幸福などというものがあるはずはない。」ということを知っていたからである。故に、彼自身が結婚したということはそこに幸せがあるだの不幸があるだのどちらをも全て引き受ける力、覚悟の現れが見える。「実際の生活が根を下ろしているかぎり」美徳なのである。美徳は幸不幸を超えている。「僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるがゆえに、また、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのである。この孤独は、あに独身者のみならんや。魂のあるところ、常に共にあるものは、ただ、孤独のみ。」独身状態の心境は彼自身が一番よく知っていたであろう。結局はどちらにしても孤独なのだ。坂口安吾は孤独の先、孤独の根底にあるものの話をしている。

「私は生きているのだぜ。さっきも言うとおり、人生五十年、タカがしれてらァ。そう言うのがあんまりやさしいから、そう言いたくないと言っているじゃないか。幼稚でも青くさくても、泥くさくても、なんとか生きているアカシを立てようと心がけているのだ。年中酔い通すぐらいなら、死んでらい。」という言葉に坂口安吾の太宰に対しての思いが含まれている。太宰治はこれを酔わずに言うことができなかった。言えたとしても赤面逆上するのだと。この上記の文体は坂口安吾の言う戯作者としての、また立派なMCとしての遊び心的なものであると思われる。そして、「私は年中酔い通すぐらいなら、死んでらい。」というのは忘れたい過去や不幸というものを背負ってでも虚弱に負けず生きて欲しかったという孤独な人間にしかわからない、坂口安吾のメッセージであり、それは我々に対するものでもあるのだと思われる。つまり、孤独から来る(虚無主義‐フツカヨイのMC‐救われぬ)に溺れるのではなく、それでも必死に踠き続けなければならない。それが坂口安吾の言う“強靭なMC”である。酒の力を借りずに自分自身の眼で見続けるということだ。決して小林秀雄的なものではない(とはいえ小林秀雄とはここで書かれているような人ではないように思うが)。

自己と世界の関係について坂口安吾は「終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、みずからの不可解な限定とその不自由さに気付くであろう。」「政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。天皇制というカラクリを打破して新たな制度をつくっても、それも所詮カラクリの一つの進化にすぎないこともまぬがれがたい運命なのだ。人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される。」そして自己と世界のあるべき関係に於いては、次のように述べている。「我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何者かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。」それはどうしても自己のみでは生きては行けず、意識的にも無意識的にも人間は個々の人間の関係にも制度を見出してしまう。それらの”関係”が常に私に付き纏っているのがそもそも人間なのであるということである。制度が存在し、それを堕落という審美眼でもって破壊し、そして再び制度という母胎を再生し続ける。現在の私という主体が”堕落し続ける“(常に人間自身に還り続ける)ことが必要である、というのがこの堕落の意味だと考える。それは力強い底なしの堕落であり、”関係の回復”の唯一の道である。堕落とは愛による”関係の回復”なのかもしれない。

Le 9 septembre 2017

 

アーレント研究会 第16回大会

シンポジウム 哲学と政治

   -フランス・イタリア思想におけるアーレント

Le 9  septembre 2017

慶應義塾大学 三田キャンパス 西校舎519教室

  

 

ハンナ・アーレントについて殆ど知識がない。

学者でも元学徒でも何でもない一般人の雑感故、「間違っている死ね。」と言われればこの記事を消去します。

 

3者と聴講者から発せられたものについて、あるいは空間による、雑記。

 

s氏が引っ掛かったといっていたリクールの留保。活動の「多数性」の免れなさ。

 

 

ある人々が活動し、別の人々がそれを被る(que les uns font l'action et que les autres la subissent)ということを含意している 。人間とは、行為者であると同時に犠牲者でもあるのだ(Les hommes sont à la fois des agents et des victimes)

 

k氏がナンシーを引用するように

 

アーレントが「人間の複数性[pluralité humaine]」についての考察によって行った、特異な寄与を思い起こさなければならない」……

 

※考えるという行為の複数性...

「人間の多数性(human plurality)は活動(action)と言論(speech/parole)がともに成り立つ基本的条件であるが、平等(equality)と差異(distinction)という二重の性格をもっている[……]人間の多数性とは、唯一存在の逆説的な多数性である」

 

権力(power/pouvoir)ではないものとして、非-暴力(non violence)としての、善としての活動(action)を称揚することにすべてを乗せることは、善そのものが問われない以上は、難しい。善はつまり真理としての絶対性を認めていることにはならないだろうか。期しくも、アーレントが嫌った意味での哲学的な真理の絶対性と何か異なるだろうか。活動(action)は解体され続ける。日常の対話以外のそもそもの人間が複数いるということ、誰かに差し向けつつ、差し向けられているという”人間の複数性”(アーレント)状況、もっと言ってしまえば一人の人間が現実に存在しているということだけですでに暴力である。さらに加えて暴力存在も同様に暴力に要請されている。という二重の構造になっているといってよいと思われる。それは存在者の構造上、つまり存在の根源としてそういった構造を持っていると言わざるを得ないように思われる。

つまり、ナンシーのいうような「またひとはけっして共同でしか「一つの声」(一つのエクリチュール」)たりえない。

 

特異性のなかで、共同体の文学的体験 -つまり与えられ、賭けられ、誓われ、捧げられ、分有され、放棄された、エクリチュールの、声の、ことばの、「共産主義的」体験- が生起する。ことばというものは、その特異性に応じて共同体的なのであり、共同体というおのれの真理に応じて特異なのである。    

            無為の共同体 / ジャン=リュック・ナンシー  以文社  p134

 

 

従って、それぞれの存在者の最大の"コナトゥス"を"共現前"させることでようやく世界に耳が付けられるだろう。仮にそこから、どんな手や足が付けられるかは、そしてそれらがどのように駆動するのか、何を話し何を聞くのかはやはり同様にわからないと言わざるを得ないが、それでもなお、またk氏と同様に、kk氏のいうような各存在者のなかでの自己欺瞞、自己自身への嘘を辞めること。哲学者としての内在性、two in oneとしての”1”を各人が徹底する以外にないのではないか。

そこにようやく<意見-真理>の"-(空間)"、2(dual)としての1が、世界として現れるのではないだろうか。という以外には。それは決して、全体主義-内在主義に回収されないような場としての。ともかくとして、この3名の登壇者は各々の"外の中"で一致していると思われる。というのは、存在者の暴力性つまり、複数性(一者における”根源的”な”人間の複数性”)を経て、ではどうするかという点である。ナンシーのいう(複数単数存在)として、それからどのような救済の技法がありうるか、或いは3(Trinity)として思考することの可能性。生成される場そのものとして。

 

k氏のいうように「問題は存在(être)の前置詞」である。

 

ともかく、”存在者の根源性(形而上学)”と”政治における決断"の間で振動しているように思われる。それは死に臨む一者の存在と変わりがない。変わりがないとすれば待機・留保でさえも決断であるような決断が下されざるを得ない。複数性を分有する決断。ここを掻い潜るための、実際の、実践の、となるとたちまち、存在者の根源性へと回収されざるを得ないような複雑な構造をなしているが故に、この問題はいつまでも一層困難であるように思われる。

 

そうするとサルトルが出てきてもよいのではないかと思ったが、サルトルは出てこなかった。アーレントサルトルを嫌っていたらしい。しかしなお、この問題はサルトルを引き出す必要があるように思われる。あるいはハイデガーのいうsorgenとしての。

 

Torus-Torus-Torus

 

 このブログの中に「81番目の備忘録」というものがある。

 

 これに限らず、ここに書いてあることは無学、無知、無教養の人間が書いたもの故、

 なんの価値もないだけでなく、一つの正しさも保証されていない。

 第一に害悪である。

 

torus-torus.hatenadiary.jp

 

これは、哲学ないし形而上学について、書かれたものを貼り付け、都度、足していくというものである。故にカテゴリーとして"哲学"と付されているそれぞれのエントリーの全てはこの中にある。何れ編集したいと思っているが膨大になるにつれ、編集の機会は遠ざかる。誤字も多ければ、文章的におかしな部分、今はそう思わない部分、考察的におかしな部分、そういったものがそのまま残っている。

そのため、これは原本として残し、かつそのまま続けたうえで、これとは別にこれをまとめたものを、新たにつくりなおす必要があるとずっと考えているが、それは遠い。

 

いずれにせよこれらは、同じものへ向かって書いたつもりである。

それが要請であり、限界だった。

存在者の消滅に向かって書かれた。

というより、"私"は既に消滅していることの証明に向かって。

あるいは、生成の消滅の証明に向かって。

もっといえば、全ては既に終わっていると。

ただ、全ては未だ到来しないに過ぎないというだけのために。

 

これがどのように閉じられるのかはわからない。

なんせ、これは既に閉じられているのだ。

 

 

このブログ に「Torus-Torus-Torus」という名前を付けた。

トーラス。円環。

という意味で。

何故3つのTorusなのかということについては直観としか言いようがない。

 

Torus-Torus-Torus

 

主体-関係-客体

 

恐らく一つの流行でしかない。

 

 

 

内的体験

バタイユの内的体験について、もう少し沈黙されなければならないような気がされたため、エントリーは取り下げられた。いかんせんここに書かれた不十分なある問いが発せられた地点は、読まれたのがそこに差し掛かったところであったためである、ということが赦されるかは別として。兎に角、今漠然と去来されたのは、恐るべきエネルギーでこれが書かれたであろうということである。これが読まれたとき、人称を破壊するために書かれた書物のように思われた。

ここでこの文章からなんらかの違和感を感じとられたならば、それはこの書物を読まれた結果だと思っていただければそれは概ね正しく、また、常々の思考が考えられたことと符合された結果でもある。繰り返されるならば、これが読まれたとき、存在を破壊するために書かれた書物のように思われたということである。

 

 

敢えてここでデリダを参照されたが、デリダは殆どそれに達している。

微妙なニュアンスの中でなお、それは”すでに”到達されているといってよい。

「天国は地下 真冬の夜の底」

 

踊ってばかりの国 / 2017_8_31

 

何年前か、代官山UNITで観た踊ってばかりの国

初めて観たときの彼は金色に染められた長い髪を揺らしながら、殆ど啓示にも似た唄でまるでキリストのようだった。衝撃的だった。今日、この場所で、あの時と同じように、違うように、林さんは居なくなって編成は変わっても、彼はより生に近く、全てに寄り添うように力強く存在の全てを賭けて、「生きるぞ!」と言わんばかりに、光を唄っていた。それは去年のキネマ倶楽部で観たときも同じことを感じた。何より数年前のあの時よりも彼は生きている。多分数えきれない哀しみがあったように見える、その前からただでさえそうだっただろうと彼を見ていて思う。それでも彼が楽しそうに唄っているのを見ていると全ての怒りや哀しみは癒えて気が付くと僕も殆ど泣きそうになりながら笑顔になっていた。思えば彼らのライブはいつもそうだ。哀しみの底から救い出したような言葉やメロディを描ける人が、普通あんなに楽しそうに嬉しそうに唄えるはずがない。それでも殆ど存在の燐光の中で、彼は本当に音楽を信じているのだと思う。何より彼自身が多分観客の誰よりも一番にステージの上で音楽を楽しんでいる。どんな景色も楽しんでやろうと。「夏に勝ったぞ!」とか「ここにいる俺たちの勝利だ!」とか叫んだり。彼はずっと良い意味でのイノセントであり続けていた。普通の人が諦めて道に捨てて行くものを彼は絶対に離さなかった。最後に「それで幸せ」「言葉も出ない」を唄える尊さ。「evergreen」「唄の命」「Boy」「バケツの中でも」を聴けて嬉しかった。

 

 

みんなが求めた自由の唄に形がないのなら

ときめく心は大切に 心を大切に

メランコリックワールドにおいでよ evergreen night

天国は地下 真冬の夜の底

 

 

涙と笑顔のその間で人知れず揺れて笑うあなたと

 

 

それを見てつい数日前ほとんど絶望にあった僕はまだ生きたいと思ったし、強くならなければならないと思い出した。

 

ロシア語と白黒の写真でデザインされたブックカバーとナボコフの「青白い炎」に今日のチケットを折って栞みたいに挟んで、誕生日プレゼント、なんて馬鹿みたいに洒落た友人に感謝している。キネマ倶楽部絶対行くぞ。