意味2

 労働に                 核

よ                          海岸

って

                笑う 

                          法

        パラダイス

得                         

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る                        統率のとれた

           時計

不                  ミルク            

幸はあ

                      三人

ま                           便利な

りに          警察官

 

も質が

 

 

低                                                      株式会社

              

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いそれ

                  先端に

は不                  

幸                

                       太陽

ではな

いス                 目頭の

                              ドレミ

 

トレスで

                     ハイヒール

         窓に映 る           

あ                         永遠に

                         

る         悲しくない     

                            

 

             階段

              階段

                 階段

                  階段

                    階段

                       階段

                         階段

意味1

テクストそれ自身は時間を持っているといえるだろうか。それはそれとして、例えば、こんな文章にもすでに時間がながれているのだろうか。分かりやすくいえば、小説や映画のフィルムは再生されるとき時間が現れるような意味での時間。これら小説やフィルムは、読まれずに、誰にも見られずに、すでに時間が内包されているのであるのだろうか。こうして書いているうちに既に私は時間が経過するのを感ずるし、この文章が読まれることにしても、順序を追って話すことによって、文そのものの中に時間の流れができあがってゆくとでもいうのだろうか。世界の到るところで起きている全ての出来事に思いを馳せるならば、私なしでその時間は体験されている。いろいろな時間がある、といった場合、端的にいって、独立したたくさんあり、時間が世界に散らばっているということではない、というようにとらえられている。つまりそれはベルグソンのいう意味で時間を空間化(事象化/体験化)したときにおこるということに過ぎない。さて、文章は上から下へ、左から右へあるいは左から右へというように順に読まれていくことによって時間が顕在化しているのは確かである。意味が流れるとき時間は流れうる。作品とは、普通の意味で世界に流れている時間とは別の時間を、人間の内部に表象するもののことである。作品は反復されうる。つまり読み返したり、思い出したりして、反復される。つまりそれは間違っているか正しいかということを抜きにして。そうであれば、作品と言わずとも、われわれは、各々さまざまな体験をし、それが思い出し得る限りで記憶となり、反復しうることがある。ところで今というものが今現在という点だとすると、われわれは現在を意識することなく現在している。われわれは間断なく(少なくとも私が認識しうる限りで)未来へ移行している。しかし何らかのある認識は、現在が切り落とされた地点で、過去と未来へ接続し、ある幅をもって現れる。通常「ある」ということに限るならば、点のような現在以外は常に世界から消え去り、世界から脱落している。われわれの認識は絶対的に世界の事象から遅れている。何かが「ある」という場合、若干の過去と未来を連接し「ある」だろうものを、「ある」といっている。ところで点のような今現在をこうして被っているのではあるが、人間が抵抗しうるのはこのような働きのためではあるといえるだろうか。人間の自由意志を認めるというのはこの現在のやり直しに対して認めている自由意志論者と、やりなおしそのものが自由に変更できる(つまり、思考がそれに自力で逆らうことができるという意味での自由意志論者がいる。)ところで後者に対し、あまりにも短絡過ぎると昔から言っているのである。まぁ現在に対してはあまりにも無力なので言葉もないのだが。ところで時間があるとはいったいどういうことなのだろうか。時間それ自身に対して私には何もわからない。何かが分かる、何かを知っている、というのは事象の周辺知識のことでしかない。まぁ知識がそもそもそのものの周辺のことを指しているのではあるが。

ロラン・バルトへ

 

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内側から見てドアが開いているとき、外から見たドアは閉まっていると見せかけて、普通に開いているものである。ところで何かを考えるには遮断する必要がある。遮断するとき人は襲撃される。なぜなら遮断されている場こそ襲撃には都合がよいからである。思考が開始するのは襲撃されるからである。したがって意思することを意識しても開始しない。cultureには斜線が引かれる。cult/ture。従ってカルトは開始される。人は宗教的なものを嫌うというよりは神秘的なものを排除する傾向にある。なぜならばかばかしいからであり、裏切られるからである。しかし、人間が神秘的なものを信ずるのも無理はないのである。なぜなら人間にとっての世界は、現在以外のすべてが世界から脱落するからである。従って、最早ほとんど何もない地点に立ち続けることを強いられている。
過去を呼び出すのも、未来を想起するのも、既に/未だないもの、"不在があること"に向かっているのである。従ってほとんどは信仰によるものである。信仰を廃棄する方法は幾つかあるだろうが、しかし、現在が現在である限り、つまりは意識が切断である限りは、信仰は存在し、人間はそのために生きているのである。信ずるには直視しないことである。我々は存在を忘却することができる。それはただ、思考しているとき、もっといえばそれに没頭しているとき、頭がない無頭人(アセファル)である。いや、法がないのだ。それはとても大事なことなのだ。何故ならば、没頭しているとき、それは憑りつかれることであり、そのとき人間は最も遠くまで歩いており、振り返ってみれば存在が消え去っていたことに気づくのだ。現代に足りないのは憑依であり信ずることによる、common senseの忘却である。ところで供儀は人目につかぬところ(遮断)された場所で行われる。

 

そんなことはさておき、


バルトについてもう少し書きたくなってきたので、もう一度書こうと思う。
『彼自身によるロラン・バルト』、原題は『Roland Barthes par Roland Barthes』である。さてこの原題を〈”彼自身”による>としたことを評価したい。最近読んでいる書物から幾つかを引用して留めておくこととする。二つだけ、言っておきたいことがある。
一つは彼の引用にある、”君”や”彼”などの人称代名詞はバルト自身を示す(厳密にはこれはもっと入り組んだ問題なのだが)、ということであり、もう一つはこの書物は精神分析的な意味での父(法)との対決であり、彼はこの書物において自らを殺人するつまり、主体の消去を目指いているのである。創造された主体の破壊。したがって、ないものを破壊する行為となる。しかし、これは循環する。つきまとう主体。生成され続ける主体の消去。当然これはロラン・バルトが生涯においてそうしてきたのである。
私はただただこれを畏敬の念で讃えたいのだ。優れた書物を読んだという感慨を受けるとき、最早存在には書くべき言葉などほとんど残されていない。

 

私は長いあいだ引き出しのなかに、この私自身の一片、料理の子羊のあばら骨に似た、ペニス状の骨を、しまっておいた。それをどうすればいいのかわからないし、私自身という人物に対する権利の侵害になりそうで気おくれし、厄介払いをするように捨て去る気にもなれなかったのだが、だからといって、そんな風にして私自身を机の中に、古い鍵、学校の成績表、真珠のような光沢のダンス・カード、私の祖母Bのばら色のタフタの名刺入れといった「貴重品」類とごたごた一緒に閉じ込めておくのも、かなり無益なことではあった。そのうちに、ある日、すべての引き出しの機能は、さまざまの品物が無用となった後それらを一種の敬虔な場所、ほこりっぽい教会堂の一種へ移して、それらの死をやわらげ、なじませてやることにあるのだと気づいた。そういう場所に置いて、それらを生きたまましまっておくという口実のもとに、それらに対してさびしく静かな死期という気高い時間を用意してやるものが引き出しなのだ、と気づいたものの、その私自身の断片を、建物の住人共用のごみ入れに捨ててしまおうとまではさすがに思い切れず、私はそのあばら骨とそのガーゼをバルコニーの上からほうり投げた。ちょうど、ロマンティックにも私自身の死骸の灰を、セルヴァンドーニ街の通り、どこかの犬が嗅ぎつけてやってくるに相違ないところへ、撒き散らしたのだとでもいうように。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

ロラン・バルト自身が、肺結核の治療の末、スイス人の医師に肋骨の一片を持ち帰らされた話である。バルトはこのことを「私の身体は私の所有に属する」と宣告されたようなものだと振り返っている。しかし、彼はこのとおり、外に投げ捨てるのである。バルトのタナトスが見えないだろうか。”死をやわらげ、なじませてやることにあるのだと気づいた。”への拒否。ここでドゥルーズを引用しよう。(孫引きだが)

 

欲望は死でさえも欲望する。なぜならば死の充実身体は欲望の不動の動者だからだ。ちょうど欲望が、生の諸器官が作動中の機械(working machine)であるゆえに生を欲望するように。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』

 

ナルシズム的自我と死の本能とのこの関係は、フロイトが次のように言う時に深く強調するものだ。彼は、リビドーは脱性化し、本質的にタナトスに従属しうる移動可能な中立的エネルギーを形成しない限りは、自我へと逆流しないと言う。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』


さて、これを含めたうえで、先ほどのバルトの行為は、自我への逆流の結果かということはここでは置いておくとしても、タナトス、死の欲望は死を通過する欲望である。つまりナルシズム的とは当然自我への逆流の現象であり、死の欲望と対象的であるように思われるが、全ての対象的といわれるものは自ずと増大すれば増大するほどに両者は近接し融合するものである。ところでラカン想像界を超えるもの、あなた/わたしを超えるもの、鏡像段階の契機を第三のもの、父という法に見ていたのであったのだが。
自我を流通回路へ再度返還するという動きがある。

・価値から理論への変換 Conversion de la valeur en théorie

"価値"から”理論”への変換(うっかり、私は自分のカードに記されている変換[コンヴェルシオン]を
「痙攣[コンヴュルシオン]」と読んでしまったが、それも結構)。チョムスキーをもじって言ってみようか、
すべての”価値”は≪書き換えられる≫(→)”理論”へ。この変換ーこの痙攣ーは、一種のエネルギー(≪エネルゴン≫)である。
すなわち言述は、この翻訳、この想像的転移、アリバイ創作によって産出されるのだ。価値から身をおこした理論が
(だからその理論の根拠が薄弱だということではなく)ひとつの知的対象となり、それからその対象は、
いっそう大型の流通回路に取り入れられる(それは、読者による別の≪想像界≫にめぐり会う)。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト 

 

ここにはひとつの困難がある、価値から理論への転換。それは何らかの理由付けである。理由をつけることとは一体それがどのようにあるのかを連結することである。
しかし、それは他者にわかるようにしなければならないということであるが、バルトは書き換えられるといっている。価値から理論へという流れは同時に、私にとっての価値でもあるのだからそれはある種の自我への逆流と呼んでもよい。ずらしながら"流通回路"へ再度返還するというこの"アリバイ創作"。

 

自我は同一化の堆積であり、いわば玉ねぎの皮のようなものである。ラカンの自我は、外部からやってくる。他者のイメージとしての自我。しかしその外部からやってきたイメージを受け取る能力は人間に備わっているとする。ラカンはそれをゲシュタルトという。フロイト/ユングではそれをイマーゴという。

 

ラカン入門 / 向井雅明』

 

人間は自らの外部に位置する像に自分を同一化し、疎外的に自分自身を作りあげていく。鏡はその一つの媒介にすぎない。

 

ラカン入門 / 向井雅明』

 

鏡の中のイメージは「私のものか、お前のものか」という双極的(dual)な競合の中に投げられる。そこで象徴的なもの(Le Symbolique、象徴界)に移行することが必要となる。

 

ラカン入門 / 向井雅明』

 
ところでこれらのテクストからバルトが行っているのは法の破棄である。
玉ねぎの皮としての自我の堆積は無限運動する流通回路となる。
無限に羅列を重ねることは歴史学ではなく、むしろ博物学に属する。
それは最終審級を他者に譲る供儀でもある。

・異なる弁証法


どこから見ても、彼の言述は、二項形式の一種の弁証法にもとづいて進行しているように思われる。
その両項とは、たとえば、世間の通念とその反対のもの、≪ドクサ[一般的な意見]≫とそれに対するパラドクサ[反対意見 逆説]、ステレオタイプと革新、疲れと新鮮さ、好みと嫌悪すなわち≪私は愛する≫/≪私は愛さない≫。この二分制の弁証法こそ、意味の弁証法そのもの(≪マークあり≫[有標]/≪マークなし≫[無標])であり、フロイトの遊びのそれ(≪いない≫/≪いる≫[フロイト『快楽原理の彼岸』])そのものである。つまり価値の弁証法である。しかし、本当にそうなのだろうか。彼の場合は、もうひとつ、別の弁証法が輪郭をあらわし、次第に言表されようとしている。彼の目から見ると、両項の矛盾はやがて発見される第三の項に席を譲るのではあるが、その第三項は綜合ではなく、≪方向をそらすこと[的はずれ]≫なのだ。あらゆるものは回帰する。が、"虚構"として、すなわち螺旋の上の次の周へ回帰するのである。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

かくして、一義性は存在と意味、<一>と多という二つの面を備えた「存在論的命題」ということになる。したがって「である(est)」に対するドゥルーズの批判、すなわち、「である」は形而上学の第一原理であり、これがあらゆる形而上学を塞いでしまうという批判によって、存在論の必要性が改めて疑問視されると考えてはならないだろう。確かに、一方では、多のただなかで諸関係の理論を優遇するとき、「である」[存在論]は消失してしまう。諸関係は結びついた項たちに絶えず外在するゆえに、多様体は純粋な外在性における諸関係の相対以外の何ものでもないと言えるからだ。ドゥルーズはヒュームの経験論のうちにこうした考えを求めようとする。諸原理に代えて、観念と状況の諸関係を用いること、「「である」を「と」で置きかえること」。これこそが、本当の意味での「諸原理に対する生の抗議」である。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』

 

ところで「est〔である〕」から”s”を取ると、斜線を引くとどうなるか。
「et〔と〕」である。偶然か、意図しているのかは知らないが。
これはラカンに似ているではないか。”S”とは主体である。
さて玉ねぎの皮である主体は消去されるが、しかし”と”である”の無限運動は免れない。
Sは消えては現象することを繰り返す。注意しなければならないのは主体は消去されうるとか、主体は消すべきだ。といっているのではない。なぜなら主体は鏡に反射する幻視だからである。世界無しで思考が発動することはありえない。哲学はただ単に思考から、思考においてのみ生起する。モンテベロはハイデガーに倣ってこういう。

 

しかしながら、思考とは、存在の思考のことである。言いかえれば、思考が生起するのではなく、存在が現生するかぎりで、思考が存在するということなのだ。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』 

 

 

 ・断章がかたちづくる円環 Le cercle des fragments

 

断章によって書く。そうすると、断章の群は円周状に並ぶ小石となる。
私は、円を描きながら自分を繰りひろげて見せる、私のささやかな宇宙を粉々にくだいて。真中には、いったい何が?

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

この玉ねぎの皮の中心は一体なんだろうか。無論何もないのである。バルトはその透徹した目でディドロを引用しつつ、その中心を見る。

 

・分割された人格 La personne divisée


古典的形而上学にとって、人格を「分割する」ことには何の不都合もなかった(ラシーヌ、「私は私の中にふたりの人間をもっている」)。それどころか、ふたつの対立項をそなえたまま人格は、一個の上出来のパラディグマ(≪高い/低い≫、≪肉体/精神≫、≪天/地≫)としてまかりとおっていた。争い合う部分同士は、ある一個の意味、すなわち”人間”という意味を設立するに当たっては互いに手を組むのであった。だからこそ、今日私たちが主体の分割について語るとき、それは決して、それらの単純な矛盾やそれらの二重の公準系などを検出するためではない。目標は≪回折効果≫にあり、散乱であり、その散乱のあとにはもはや主要な核も意味構造も残らぬようにすることである。私は矛盾しているのではない、分散しているのだ。そういう矛盾の群を、君はどう説明するのか、どういうわけでそれらを許容するのか。哲学的には、君は唯物論者であるように見える(もしこの用語があまりにも古ぼけて聞こえるのでなければだが)、倫理的には、君は自分を分割している。すなわち身体に関しては君は快楽主義者で、暴力に関しては、むしろ仏教徒ということになるだろう! 君は信仰を好まない、が、儀礼についていささかのノスタルジーを抱いている、という具合だ。君はさまざまの反応[反作用]を集めた寄せ木細工だ。君の中に、いくらかでも≪独自の、最初の≫ものがあるか。

何か分類法を見ると、君は、それがどんなものであろうと、とにかくその分類表の中に自分を当てはめてみたくなる。君の位置はどこか、というわけだ。はなのうち、君はその位置を見つけたような気でいる。が、徐々に、彫像が風化するように、起伏が侵食され、平たくなり、その形をくずすように、ああるいはさらに適切な例としてハーポ・マルクスが、自分の飲んだ水の効果によってそのつけひげを失っていくように、やがて君は、もはや分類不可能なものとなる。しかもそれは、パースナリティーの過剰によるのではなく、逆に、君がスペクトルのあらゆる辺境部を遍歴するせいなのだ。すなわち君は、弁別的と称する特徴を自分の中にいっぱい集めながら、いざ集めてみるとそれらの特徴は、すでに何ひとつ識別させてはくれない。君が発見するのは、君が同時に(あるいは順ぐりに)強迫神経症的で、ヒステリー的で、偏執病的で、その上倒錯的だということ(色情的精神病には言及しないとしても)。あるいは、君がありとあらゆる頽廃的哲学、たとえばエピクロス主義、幸福主義、[誇張的でくどい]アジアニスム、[すべてを善と悪の二分制で割り切ってしまう]マニケイスム、ピュロン主義を加え合わせているということだ。

 

「≪すべては私たちの中で生成した。というのも、私たちが私たちであり、つねに私たちでありながら、しかも一刻たりとも同一ではないからだ。≫」(ディドロ『エルヴェシウスへの反駁』)

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

中央には何者でもないものが残る。残滓、"私たち"という残像である。
また、殺人現場に流れる血、痕跡としての乾いた血、それは彼だったものの血であると同時に、私たちの血にほかならない。
つまりロラン・バルトは”彼”なのだろうかそれとも”私たち”なのだろうか。
そして、これは当然ハイデガーフッサールの諸事象なのか事象なのか la chose même/les choses mêmeに回帰する。
血は痕跡を残しつつ空間に流れている。


ところで最初に殺人といった理由(アリバイ)は以下である。

 

・私ですか、私は[自我と私] Moi,je


人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私[je]は想像界を発動し、「君[vous]」「彼[il]」は偏執病を発動する。しかしそれと同時に、読み取り手によっては、ひそかに、モアレ[微妙に反映して見える波形模様]の反射のように、すべてが逆転させられる可能性もある。「私ですか、私は」と言うとき、「私は」は「私ですか」ではない、ということがありうる。つまり「私[私は]」が「自我[私ですか]」を、いわばカーニヴァルの喧騒のうちにこわしてしまうのだ。私は、サドがやっていたように、私に向かって「君」と言うことができる。それは、私自身の内部で、エクリチュールの労働者、製作者、産出者を、作品の主体("著者")から切り離すためだ。他方では、次のような現象もある。すなわち、自身について語らないことは、≪私は、自分について語らない"者"です≫という意味になりうる。そして、「彼」と呼んで自身について語ることは、私は私の自我について≪あたかもいくぶんか死んでいるもののように≫、偏執病的強調という薄い霧の中にとらわれているものであるかのように語っている、という意味になりうるし、それはさらにまた、私は自分の演ずる登場人物に対して距離設定[異化]をしなければならないブレヒトの役者の流儀によって私の自我について語っている、という意味にもなりうる。その流儀とはつまり、登場人物を「示す」のであって、それに化身するのではなく、また、せりふの言いかたにいわば爪ではじき飛ばすような効果を与えることであり、それは、代名詞をそれが代理している名詞から、映像をその支持体から、想像界をその鏡から、引きはがす効果のためである(ブレヒトは役者に、自分の役をいっさい第三人称で考えるようにすすめていた)。偏執病と距離設定法との間には、ものがたり性という仲立ちを経ての親近性がありうる。すなわち、「彼」という語は叙事的なのだ。つまり「彼」は意地が悪いということである。それは言語の中でもっとも意地の悪い語である。それは無=人称の代名詞であり、みずからの指向対象を無力化し、おとしめる。自分の愛する人に対して、うしろめたさを感じないでこの語を適用することはできない。誰かについて「彼」と言うとき、きまって私は、ことばづかいによる一種の殺人を目のあたりに見る。そのときには豪奢に、儀式めくこともある殺人の場面は、全体≪うわさ話≫なのだ。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

バルトが一歳のときにはすでに亡くなっている彼の父(法)は、おそらく、父がいる人間とは異なる法を生成する。この書物、 『彼自身によるロラン・バルト』、原題『Roland Barthes par Roland Barthes』は、この「彼自身による」 "par lui-même"のことである。彼は独自(彼自身)の法で彼を殺すのである。主体へと逆流する自我aに斜線を引くこと。S(a)、しかしそれでは十分ではない。Sへ斜線が引かれている。斜線を引かれた主体。欲望は死をも欲望する。欲望とは他者の欲望である。そういった意味で主体は「私のいない”私たち”」なのであって、Sに斜線が引かれているのである。そのときそれはもっとも神聖に彼(il)と言わざるをえない。無垢なAutreだけがある。誰もいない殺人の場がある。彼が彼として彼する場、最早、私たちではない(彼たち)。ただただ彼を畏敬の念で讃えたいのだ。

受動的発生/能動的発生

 

例えばデリダが『フッサール哲学における発生の問題』で提出したこのことは、

つまりデリダがいうように「フッサールを不安にさせるもの」は、いわば”発生の起源”という問題はどんなところにも及んでおり、未だ人間は"発生"というこのことがどこからやってくるのか、"それ"はいつ発生し、その発生がなんなのか、ということについて全人類が未だ解答を提出できずにいることを、再提出したのである。しかしながら、あらゆるものの再提出が悲観的に再提出ではないということだけは言っておかなければならない。デリダが提出したこの『フッサール哲学における発生の問題』というデリダ修士論文は、当然デリダの内で始まっているのではあるが、当然フッサールからこの問は始まっており、かつフッサールよりも前に幾らでもさかのぼることができる、という意味で、この論文が提出された年月を、例えば何年何月何日というように示すことには何の意味もない。例えば、桜は一般的に春に花を開くが、当然、花を開くためには既に桜の樹が植えられていなければならない。そして、悲しいことに人が"桜を見る"のは春以外にはないのだ。そして春を除く桜の樹は、美しくないと言われないまでも、誰の眼にも映らないような仕方で尚そこに常にある。更に言えば、桜の樹があるためには既に桜が存在していなければならない。これはありとあらゆる物に関していつからそれがあるのかということは、”今の姿であるのは”、というに留まる。桜が桜としてあるには、人間の意識なしにはあり得ない。人間の意識なしに存在するものは、桜として、存在していないのである。純粋世界とも呼ぶべきものは、我々が認識しているようにそれはそれとして存在しない。ただ全てがあるのである。何かがそれとしてあるには、それは絶対的に受動的発生、観念連合においてなされていなければならない。従って、全ては失敗する。意味が限定の前にしか現れないということにおいて。現象が、「現象と非現象の現象」でしかないことにおいて。『フッサール哲学における発生の問題』はすべての存在のアルケ―を巡る問いである。

 

端的に言って発生の根拠を純粋自我に落とすようなことはしない、という意味で叢書の編集長であったマリオンがデリダのこの論文を書物として刊行することを薦めた理由もがわかる気がするのだ。それはこの二人の偉大な哲学的到達において、殆ど一致している。例えば、ごく素朴なこれら本文の外に両者の相に現れていると思う。

このそれぞれの文の中に同じように相反するものがある。

 

何が巡っているのか。哲学と思想である。

 

最終的に私は説得に従うことになってしまったのだ、そのことが間違っていようが正しかろうが、冒された危険の責任のすべてを担うのは私一人であること、このことは変わらないし、これは当然のことである。

 

フッサール哲学における発生の問題』/ジャック・デリダ

 

 

以下の書物を私は単独で書いたが、一人で書いたわけではない。これらのテキストはすべて、依頼や討論会、講演の結果である。すべてその折々のものなので(de circonstance)(文字通り、他の人びとに取り囲まれていたので)、それらの統一性や客観性、そして望むらくはそれらの厳密さを周囲の人びとに負っているのである。それゆえ私は ― 依頼という仕方で ― 私に与えられたものを ― 執筆は別として ― ここで返すのだということをはっきりと自覚している。ここでもまた贈与/賜物は、存在するという事実に先立っていたのだ。.....(中略)彼らなしにはこの書物が―そしてまた他の多くのものも―日の目を見ることができなかったであろう二人の友人、ジャン・デュシェーヌとロベール・トゥッサンに敬意を表した。レミ・ブラーグは、その文献学的な誠実さのゆえに、あまりにも多くの間違いを見つけることに耐えるよりもむしろわれわれの校正刷りを直すことを選んでくれたが、その事情をわきまえた上で彼に感謝したい。至らない点についてはすべて私の責任であり、私はそのことを他の誰にもまして知っている。

 

『存在なき神』/ジャン=リュック・マリオン

 

 

la chose même / les choses même

マリオンは『存在者と現象』において、ハイデガーを引用してこう述べている。

 

われわれは現象学に専心しているのではない。現象学そのものが専心しているものに、専心しているのである。(ハイデガー

 

現象学の対象とは現象学ではない。それは諸事象そのもの<les choses même>である。(マリオン)

 

 

最終的には存在のみが還元を施す。あらゆる源領域(Urregion)を越えて、そして現存在をも越えて。(マリオン)

 

まさにこうした限りにおいて、そしてこうした限りにおいてのみ、われわれはなお、1927年のハイデガーのように、次のように、述べることが可能であろう。

すなわち現象学にとって「本質的なことは、哲学的な"方向"として現実的になるという点にあるのではない。なぜなら、現実性よりも、もっと高次のところに可能性はあるからだ。」

 

 

この可能性とはなんだろうか。何故、全てを越えて支配してる"存在"において、なお、"可能性"が出てくるのだろうか。ここでの可能性とは全てを凌駕した不可能性のことだと考えてよい。現象学の形式に拘わっており、それは、すべての知覚は現象学的でしかない、というこのことを免れえないことに、つまり、現実性というある客観性などというものはそれこそ存在しないのであって、客観性はむしろなんら現前に遅れており、従って客観性は遅延しているものにすぎず、すべてのあらゆる定義は人間の知覚の限界線でありなんら明瞭ではないというこのことに。そして全ては既に完了している。

 

 

小林秀雄が「美しい花がある、花の美しさというものはない」というのですら正しくない。人間の知覚の限界が世界に名前を与え、それがある、とか、それがない、とか言っているに過ぎない。従って、顕微鏡を使わなければ見えないものなども同様に、それは最終審級が人間の知覚である限り、それがそれとしてあるのである。概念も同様である。私は眼の前に見える花が概念であるかどうか判別することができない。従って実在/概念はなんら自明ではない。

 

人間において徹頭徹尾この最終審級から、最終審級としてしか問題とならないのである。つまり我々はこういわなければならない。

美しい花などない、花の美しさもない。美しい花と思ったり、美しさがあると思ったり、花がある、と思ったりすることがあるだけである。そしてこの思っているということも。

 

「問題であるものは、いつもただ、前もって与えられた対象の存在、実在的対象の存在のみである。すなわち結局はただ、考察にとっての対象存在という意味での、対象性としての存在のみが問題なのだ。(ハイデガー)」

 

 

それこそが、「まさにこうした限りにおいて、そしてこうした限りにおいてのみ、われわれはなお、」の意味である。

 

あえてマリオンの前に召喚するまでもないが、現代思想の中にオブジェクト指向存在論というものがある。これは当然のように現象学の問いであり、現象学を超えるものではない。マイノングの対象論からその弟子マリー、ブレンターノ、フッサールに引き継がれ連綿と続いてきたことを読まずに繰り返しているだけに過ぎない。というよりはスピノザで終わっている。

 

現象学-存在論の地平の踏破は全く別のところにあるか、あるいはすでにここにおいて終結している。

 

例えば現象学が扱うものが、捉ええぬもの、つまりあまりにも巨大な複数の対象、つまりありとあらゆる現在までのすべてによって、我々がようやく存在しているのであるならば、それはつまり"存在"というこの一言によってすべてを担われてきたのであるが、われわれは、それを名指すことができない。例えば世界が現象することの根源に名前が付けられたならばそれはそうであるが、しかしながら、それは"存在"となんらかわりがない。我々はこの名指すことができないものによってなりたっており、その限界として存在者/存在を分かつもの、つまり現前することがここで起っているというこのことをマリオンが指摘するように、「神、存在、他者、自己触発、そして差異のありとあらゆる形態を呼び起こしてみても、困難を名指しうるにとどまり、困難を解決することにはならない。」としたうえで、<起源の呼び声>によって<da-そこ>に召喚されるものとしての<私>を提示するが、しかしそれは結局のところ、上でマリオン自身が列挙した、「神、存在、他者、自己触発、差異」と「起源の呼び声」を対置したところで、なお依然としてかわりがない。だが、『存在者と現象』におけるマリオンはそれを越えている。何故ならばマリオン自身、"存在"を現存在すら超えた原領域を侵犯するものとして、存在者として召喚する"存在"としての"存在"を想定しているのだから。<私>はまさに徹頭徹尾与えられ(贈与)され、既に常に還元されたところにおいて現れ続けるところのものである。それはどんなときも所与として現れている状態に過ぎないと述べればいいのである。つまり現前を解体すればいいのである。我々は何もする必要がないばかりか既にすべてを終えているものの名だということだ。そのことを<私はすでに知っている>といえばいいのである。それでも現前するじゃないかという議論はばかげている。ただの作用にすぎない。

従って現象学とはそれが現象しているにも拘わらず、当のそのものを名指し得ないということ、および、すでにエンテレケイアである現前が時間と知覚により絶えずエンテレケイアとエネルゲイア(人間にはそう見えるが、おそらく世界は既に常にエンテレケイアである、それどころか誕生からすでにエンテレケイアである)であることが反復しつつ並走するように見えるという事態によって、私や他者やその他すべてのものは還元の還元という永久機関に巻き込まれているということを明かした点にこそ重点は置かれるべきであり、方法論とは何の関係もなく存在者の根本形式の限界なのであり、それこそが正しいのである。これを証明することはほとんど不可能であるが、自由意志や主体や主観や他者や意志や思考や客観や世界などのような思想をなんの疑いもなく信ずるよりはまともである。

 

la chose même / les choses mêmeという、ハイデガー/フッサールの差異は結局のところ、そういった差異に過ぎない。そこに一つの名前がつくのか、現在までのすべての諸事象の列挙なのかというその差異でしかない。それはつまり"存在"に複数形の"s"が 付くのか、というそのような問題にすぎない。それは差異ではない。

 

客観や主体などを信じている人々の方がいっそう神秘家であり幻想主義者である。

だがこれも同様に現象学の内部でのある出来事に過ぎない。すべては存在による存在の戯れである。

 

最早私は、「花がある、と思ったりすることがある。」ということも疑わしく思う。

全てが。