詩片004

 

誰の声

何処から 生きた

何時から 死んだ

誰の声

 

春へと傾斜する

おまえは坂をのぼるのか

 

夜を下る

赤い血が色を変える時に

間に合ってしまうのか

 

血の中に言葉が流れていたら

その声は聞こえるだろうか

 

呑み込まれた言葉たちは

何処へ行くのか

誰も知らなかった

 

あの時刻を手のひらに握りしめた君がかつて

この世界にはあったのか

祈りの外で 河床の太陽が

頭上に朝が落る

 

何処から 生きた

何時から 死んだ

誰の声

 

 

 

自閉せよ

 

自閉せよ。

 

全ての気晴らしに憎悪を。

 

現代は殆ど自閉することが不可能になってしまったが故に、

完全な自閉へと追い込まれた。

 

画面の中にある顔は最早顔として機能せず非人称の顔が増殖する。

よって、画面の中の顔をすべて消去した。(lineを消した)

私が他者と直接かかわるのは良くないと思う。今まで殆ど私から誰かに連絡をとることはなかったが。他者のために私は自閉する。

 

今までありがとう。何よりも、幸福を祈っている。

 

自閉せよ。

 

喫茶店でベラスケスの『侍女たち』の話をしている老夫婦。

ぺルスペクティーヴェの所為で私の思考はすぐさま、フーコーの『言葉と物』を参照する。

 

自閉せよ。

 

柄谷の1985-1988講演集成を一周した。哲学に思想を結びつけるのは全く意味がない、ということだけは言っておきたい。とはいえ、柄谷が擁護する意味でのデカルトは、つまり共同存在に堕とすことなく、擁護して語ろうとするもの(自己は既に滅却されているという意味でのハイデガーポストモダン哲学(人間の死の発見という意味での)批判)は、結局のところ、ただの単純な主観性であり、柄谷が世界に回収される自己では"よくない"、ただの独我論では"よくない"というような思想を持ち込んで社会を語ることには、それこそ意味がないのである。それは柄谷が解釈しきる手前にいるデカルト、つまり擁護しようとするデカルトに背いていることに柄谷は気付いていない。柄谷の意味で超越論的主体を持ってこようとも、結局のところそれは端的に言って、純粋自我的な純粋自由意志的な主体でしかなく、主-客体の二元論を超えていることにはならない。外に立つことを批判する意識が、端的に内的な主観性でないという理由は何処にも書かれていないといってよい。また柄谷は同じ口で、外に立つべきである、というのである。そういった外に立つべきである、外に立つことを批判する意識を持つべきである、というものはただの精神論に過ぎない。仮に残されているとすればそれを「自覚すること」であるが、それを自覚する以前からこのシステムは作動しているのであって、そこに介入の余地はないのである。全てはシステムの内での出来事に過ぎないといいきらない柄谷が最後に持ってくる坂口安吾論も最早なんの意味もなしていない。柄谷は最初から哲学に向いていないのであって、彼はもともと思想者だからであり、哲学者ではないからである。故に、スピノザを語るときも、なお、そこに"この"性を見出す主体を持ってくるのも結局のところ、同じ轍を踏んでいる。柄谷が批判した"人間"はそもそも最初から「ヨーガの行者」「植物人間」なのであって、フーコーやバルトが言った、人称の死は依然、ゾンビになったわけですらない。初期フィヒテに到達することもなく、後期フィヒテに到達することもなかったそれは、「敷衍されたフッサール」に戻ることをしか意味しない。人間とは、自らが死んでいるところの幻視であるということから眼をそむけるものである。"私"が特権的な地位にいるから思想を始めるのである。

 

自閉せよ。

 

職場が4月から変わる。とはいえ、都内。寧ろ家から少しだけ近くなったのでよい。

仕事はつまらない。縦横無尽に理解できたら面白いと感ずるのだろうが、私には無理だ。もう何もしたくない。

 

自閉せよ。

 

 

『哲学はどこへ――現象学の展開』に行った。

美濃部さんのフィヒテ論がとてもよかった。

それ以外は不毛だった。

 

思考が纏まらない。

筆と紙の葛藤する空間に定位せよ。

 

自閉せよ。

 

ここ数か月ページをめくられていた本。

意味がない。

 

『論理学研究Ⅰ-Ⅳ』

『切りとれ、あの祈る手を』

柄谷行人講演集成  1985-1988 言葉と悲劇』

フッサール哲学における発生の問題』

『還元と贈与』

現象学形而上学

『存在なき神』

シュルレアリスム宣言・溶ける魚』

北園克衛全詩集』

『主体の後に誰が来るのか』

『声と現象』

論理哲学論考

『パリュウド』

『マチウ書試論・転向論』

『ムッシューテスト』

『半自叙伝』

『異境の現象学

『真理・存在・意識 フッサール『論理学研究』を読む』

『現代現象学―経験から始める哲学入門 』

 

自閉せよ。

 

 

あの子はあの頃のつもりか

僕たちを結びつける何にでも

 

纏めていく 彼も自分も

纏めていく 人も自分も

纏めていく 山も自分も

纏めていく 川も自分も

 

【ロープ / OGRE YOU ASSHOLE

 

www.youtube.com

 

自閉せよ。

 

友人が『対話とは何だろうね』と尋ねた。

私は『モノローグだよ』とこたえた。伝わっているか知る由もないが、あらゆる内省も含めたコミュニケーションと呼ばれるものは文学空間のうちで非人称のまま非人称で行われている。内在的に他性が他性としゃべっているだけである。そして、全てはその空間のうちに非人称ですべては完了している。我々は何もしていないのだよ。すべて錯覚だ。ただの存在の遊戯。存在のモノローグ。

 

初めから全ては自閉している。

 

受動的発生/能動的発生

 

例えばデリダが『フッサール哲学における発生の問題』で提出したこのことは、

つまりデリダがいうように「フッサールを不安にさせるもの」は、いわば”発生の起源”という問題はどんなところにも及んでおり、未だ人間は"発生"というこのことがどこからやってくるのか、"それ"はいつ発生し、その発生がなんなのか、ということについて全人類が未だ解答を提出できずにいることを、再提出したのである。しかしながら、あらゆるものの再提出が悲観的に再提出ではないということだけは言っておかなければならない。デリダが提出したこの『フッサール哲学における発生の問題』というデリダ修士論文は、当然デリダの内で始まっているのではあるが、当然フッサールからこの問は始まっており、かつフッサールよりも前に幾らでもさかのぼることができる、という意味で、この論文が提出された年月を、例えば何年何月何日というように示すことには何の意味もない。例えば、桜は一般的に春に花を開くが、当然、花を開くためには既に桜の樹が植えられていなければならない。そして、悲しいことに人が"桜を見る"のは春以外にはないのだ。そして春を除く桜の樹は、美しくないと言われないまでも、誰の眼にも映らないような仕方で尚そこに常にある。更に言えば、桜の樹があるためには既に桜が存在していなければならない。これはありとあらゆる物に関していつからそれがあるのかということは、”今の姿であるのは”、というに留まる。桜が桜としてあるには、人間の意識なしにはあり得ない。人間の意識なしに存在するものは、桜として、存在していないのである。純粋世界とも呼ぶべきものは、我々が認識しているようにそれはそれとして存在しない。ただ全てがあるのである。何かがそれとしてあるには、それは絶対的に受動的発生、観念連合においてなされていなければならない。従って、全ては失敗する。意味が限定の前にしか現れないということにおいて。現象が、「現象と非現象の現象」でしかないことにおいて。『フッサール哲学における発生の問題』はすべての存在のアルケ―を巡る問いである。

 

端的に言って発生の根拠を純粋自我に落とすようなことはしない、という意味で叢書の編集長であったマリオンがデリダのこの論文を書物として刊行することを薦めた理由もがわかる気がするのだ。それはこの二人の偉大な哲学的到達において、殆ど一致している。例えば、ごく素朴なこれら本文の外に両者の相に現れていると思う。

このそれぞれの文の中に同じように相反するものがある。

 

何が巡っているのか。哲学と思想である。

 

最終的に私は説得に従うことになってしまったのだ、そのことが間違っていようが正しかろうが、冒された危険の責任のすべてを担うのは私一人であること、このことは変わらないし、これは当然のことである。

 

フッサール哲学における発生の問題』/ジャック・デリダ

 

 

以下の書物を私は単独で書いたが、一人で書いたわけではない。これらのテキストはすべて、依頼や討論会、講演の結果である。すべてその折々のものなので(de circonstance)(文字通り、他の人びとに取り囲まれていたので)、それらの統一性や客観性、そして望むらくはそれらの厳密さを周囲の人びとに負っているのである。それゆえ私は ― 依頼という仕方で ― 私に与えられたものを ― 執筆は別として ― ここで返すのだということをはっきりと自覚している。ここでもまた贈与/賜物は、存在するという事実に先立っていたのだ。.....(中略)彼らなしにはこの書物が―そしてまた他の多くのものも―日の目を見ることができなかったであろう二人の友人、ジャン・デュシェーヌとロベール・トゥッサンに敬意を表した。レミ・ブラーグは、その文献学的な誠実さのゆえに、あまりにも多くの間違いを見つけることに耐えるよりもむしろわれわれの校正刷りを直すことを選んでくれたが、その事情をわきまえた上で彼に感謝したい。至らない点についてはすべて私の責任であり、私はそのことを他の誰にもまして知っている。

 

『存在なき神』/ジャン=リュック・マリオン

 

 

la chose même / les choses même

マリオンは『存在者と現象』において、ハイデガーを引用してこう述べている。

 

われわれは現象学に専心しているのではない。現象学そのものが専心しているものに、専心しているのである。(ハイデガー

 

現象学の対象とは現象学ではない。それは諸事象そのもの<les choses même>である。(マリオン)

 

 

最終的には存在のみが還元を施す。あらゆる源領域(Urregion)を越えて、そして現存在をも越えて。(マリオン)

 

まさにこうした限りにおいて、そしてこうした限りにおいてのみ、われわれはなお、1927年のハイデガーのように、次のように、述べることが可能であろう。

すなわち現象学にとって「本質的なことは、哲学的な"方向"として現実的になるという点にあるのではない。なぜなら、現実性よりも、もっと高次のところに可能性はあるからだ。」

 

 

この可能性とはなんだろうか。何故、全てを越えて支配してる"存在"において、なお、"可能性"が出てくるのだろうか。ここでの可能性とは全てを凌駕した不可能性のことだと考えてよい。現象学の形式に拘わっており、それは、すべての知覚は現象学的でしかない、というこのことを免れえないことに、つまり、現実性というある客観性などというものはそれこそ存在しないのであって、客観性はむしろなんら現前に遅れており、従って客観性は遅延しているものにすぎず、すべてのあらゆる定義は人間の知覚の限界線でありなんら明瞭ではないというこのことに。そして全ては既に完了している。

 

 

小林秀雄が「美しい花がある、花の美しさというものはない」というのですら正しくない。人間の知覚の限界が世界に名前を与え、それがある、とか、それがない、とか言っているに過ぎない。従って、顕微鏡を使わなければ見えないものなども同様に、それは最終審級が人間の知覚である限り、それがそれとしてあるのである。概念も同様である。私は眼の前に見える花が概念であるかどうか判別することができない。従って実在/概念はなんら自明ではない。

 

人間において徹頭徹尾この最終審級から、最終審級としてしか問題とならないのである。つまり我々はこういわなければならない。

美しい花などない、花の美しさもない。美しい花と思ったり、美しさがあると思ったり、花がある、と思ったりすることがあるだけである。そしてこの思っているということも。

 

「問題であるものは、いつもただ、前もって与えられた対象の存在、実在的対象の存在のみである。すなわち結局はただ、考察にとっての対象存在という意味での、対象性としての存在のみが問題なのだ。(ハイデガー)」

 

 

それこそが、「まさにこうした限りにおいて、そしてこうした限りにおいてのみ、われわれはなお、」の意味である。

 

あえてマリオンの前に召喚するまでもないが、現代思想の中にオブジェクト指向存在論というものがある。これは当然のように現象学の問いであり、現象学を超えるものではない。マイノングの対象論からその弟子マリー、ブレンターノ、フッサールに引き継がれ連綿と続いてきたことを読まずに繰り返しているだけに過ぎない。というよりはスピノザで終わっている。

 

現象学-存在論の地平の踏破は全く別のところにあるか、あるいはすでにここにおいて終結している。

 

例えば現象学が扱うものが、捉ええぬもの、つまりあまりにも巨大な複数の対象、つまりありとあらゆる現在までのすべてによって、我々がようやく存在しているのであるならば、それはつまり"存在"というこの一言によってすべてを担われてきたのであるが、われわれは、それを名指すことができない。例えば世界が現象することの根源に名前が付けられたならばそれはそうであるが、しかしながら、それは"存在"となんらかわりがない。我々はこの名指すことができないものによってなりたっており、その限界として存在者/存在を分かつもの、つまり現前することがここで起っているというこのことをマリオンが指摘するように、「神、存在、他者、自己触発、そして差異のありとあらゆる形態を呼び起こしてみても、困難を名指しうるにとどまり、困難を解決することにはならない。」としたうえで、<起源の呼び声>によって<da-そこ>に召喚されるものとしての<私>を提示するが、しかしそれは結局のところ、上でマリオン自身が列挙した、「神、存在、他者、自己触発、差異」と「起源の呼び声」を対置したところで、なお依然としてかわりがない。だが、『存在者と現象』におけるマリオンはそれを越えている。何故ならばマリオン自身、"存在"を現存在すら超えた原領域を侵犯するものとして、存在者として召喚する"存在"としての"存在"を想定しているのだから。<私>はまさに徹頭徹尾与えられ(贈与)され、既に常に還元されたところにおいて現れ続けるところのものである。それはどんなときも所与として現れている状態に過ぎないと述べればいいのである。つまり現前を解体すればいいのである。我々は何もする必要がないばかりか既にすべてを終えているものの名だということだ。そのことを<私はすでに知っている>といえばいいのである。それでも現前するじゃないかという議論はばかげている。ただの作用にすぎない。

従って現象学とはそれが現象しているにも拘わらず、当のそのものを名指し得ないということ、および、すでにエンテレケイアである現前が時間と知覚により絶えずエンテレケイアとエネルゲイア(人間にはそう見えるが、おそらく世界は既に常にエンテレケイアである、それどころか誕生からすでにエンテレケイアである)であることが反復しつつ並走するように見えるという事態によって、私や他者やその他すべてのものは還元の還元という永久機関に巻き込まれているということを明かした点にこそ重点は置かれるべきであり、方法論とは何の関係もなく存在者の根本形式の限界なのであり、それこそが正しいのである。これを証明することはほとんど不可能であるが、自由意志や主体や主観や他者や意志や思考や客観や世界などのような思想をなんの疑いもなく信ずるよりはまともである。

 

la chose même / les choses mêmeという、ハイデガー/フッサールの差異は結局のところ、そういった差異に過ぎない。そこに一つの名前がつくのか、現在までのすべての諸事象の列挙なのかというその差異でしかない。それはつまり"存在"に複数形の"s"が 付くのか、というそのような問題にすぎない。それは差異ではない。

 

客観や主体などを信じている人々の方がいっそう神秘家であり幻想主義者である。

だがこれも同様に現象学の内部でのある出来事に過ぎない。すべては存在による存在の戯れである。

 

最早私は、「花がある、と思ったりすることがある。」ということも疑わしく思う。

全てが。

 

詩片3

 

珈琲のカップにミルクを注ぐ 

円錐の底面の縁の上に

内側に向かって座っている少年の顔に覗く空漠の笑顔の中で

白い正四面体は完成する

 

頭上から鋭い鉄の棒が貫く

輪郭は解けて液体となって零れる

 

夜空を剥がせば

青空に放たれた粒子に反射したる光が見せるのは

幼き頃の庭に埋めた小鳥の鳴き声に似ている

 

滝が落ちる破れた水面は円錐の少年に似ている

 

砂漠の駱駝たちの瘤に溜まった水は

あの溶けた正四面体の液体で

 

小鳥の鳴き声はもう見当たらない

小さき顔よ

声はもう青空に鈍く

 

紫煙の中の夢の外側で

駱駝の瘤に似た小麦粉を咽喉に詰める

小さき声の破片が泥色の液体と混ざる

 

 

詩片2

 

コンクリート

黄色い

線上の

忙しなく

些細な

歩く

情報に

 

まだら模様の

白い

剣先に

鈍い