日常性9

 

ここ一か月くらい、あの人以外の全ての人がどうでもよくなり(割といつもそうかもしれない)、自分がどうでもよくなり、早く殺してくれとばかり祈っていた。仕事をしているとき、喫茶店で本を読んでいるとき、町を歩いているとき。感情は辛うじて言葉となるが、影のようにもう一つ、番いの言葉が現れる。影が邪魔をして食道で詰まる。胸と脳の中に滞留して鉛のようにのしかかる。言葉の吐き気。

 

相変わらず何もないが今日は一か月ぶりくらいに気分がいい。それがいいのかよくわからないが。私を殺してくれるほどの幸福が訪れるといい。とても気分がいい。

 音楽が届かない地点がある。今日は音楽が聴こえる。

 

 

youtu.be

 

youtu.be

 

youtu.be

 

 

私とは何か。つまり世界とは何か。

 

 ぼくが存在しているのは、何百万もの人々がぼくのまわりに存在し、かつて存在した―これからやって来ようとする者たちのことはさておき―からにすぎない。そのことは観念というようなものではない。現実の一片、現実の単なる一片なのだ。彼らにこそぼくはすべてを、文字通りすべてを負っている。ぼくの名、ぼくの住所、ぼくの鼻、ぼくの皮膚、ぼくの髪の色、ぼくの生命と最も秘かな思考、ぼくの夢、そしてぼくの死の場所と時間さえも。     

                                『物質的恍惚 』/ ル・クレジオ

 

 

全ては私とはなにか、あるいは世界とは何かということについて書かれたものであり、過去の小さな堆積物を集めたものである。結論を言えば、私とは完全に他者であり、全てはただあるだけである。それは再我有化した私、再我有化された私、どちらの私も他者であるという結論である。従って、私は厳密に存在しているが存在しているように錯覚しているだけにすぎない。例えば、我有化(すること/されること)における、それは母である、などは、究極的に素粒子のとある集合(これも脱構築化される契機はある)として立ち現れた意味としての母、ということにすぎない。母の実在は従って母ではなく、実在として名前を持たない。つまり、実在は本来的に名前を持たず、意味は存在しない。同様に私も同じである。どんなものも私にとっての意味、として立ち現れる。したがって、一般的に言われている現象学はそうせざるを得ないし、それ以外の方法は存在しないという意味で正しい。更に現象学は方法論などではない。従って、これから述べるものも全て現象学の上で為されたものであり、また、或る何かによって書かれたものと考えればよい。

 

<私>というとき既に、<私そのもの>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私そのもの>というような<存在しないもの>についての問へとすり替わる。 <我>を考えるということは常にこの<我>から分裂した<存在しないもの>を立てることになるのである。母親の胎内から産まれたこの<私>という存在者は、<私自身>に根源を持つものではない。<私自身>が選べず、また親からもどんな子をというように選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける<私>。人間は生まれたときに根源を失って生まれてくる。母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、母親を失い、つまり根源<必然性>を失ってこの世に生を受けるのである。そして根源を失った存在者はまたしても、関係に支配される。<私そのもの>は常に凡ゆるものとの関係の中に支配されている。 個人の道徳観念や感情、思考、意志はすべて、これらの巨大な文化の前に押さえつけられている。この<強いられてあること>、<私は私から疎外されているという>という状況、(つまりここでは最早〈存在者そのもの〉ですら〈類〉でしかない)から<存在>を立てる。この<存在しない私>を立てることができるのは、<存在者そのもの〉が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているに過ぎない。 それどころか、それら自身が融和したものを再度受け取るようにして私は私しているといってよい。このように思うのも同様に意識が芽生えた地点からであり言語を受け渡され、五感が受け渡されてあるときからである。さて、こんなものが人間が一般的に不用意に便宜上使っている私の本来である。 つまり私そのものでしかないような私というものは最早存在し得ない。それは〈類〉である。神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。人間は根源を失った状態で関係<偶然性のように見えるもの>にひきずられている。

 

 

■偶然性と可能性の問題

人間が何故、偶然性を信ずることが、或いは自由を信ずることができるのか、或いは現象に対して何らかの意味を付与できるのか、と考えるならば、私はラプラスと同じように答えるだろう。それは知らないからである。もっと言えば、知っていたとしてもその瞬間がまだやって来ていない、という状態にあるからである。つまり、絶えず予期していることを裏切られる可能性を信ずることが可能だからである。と答えるだろう。このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。または半開的存在者。またの名を<私>という。

さて、こうして自己を否定していくことで行き着く先が死であるように、それと同じだけ世界の否定(対象のなさ)へ向かっている。死による存在の拒絶は存在”自身”の意味解除を果たすが、世界の側はその存在の意味を解除することができない。たしかに「彼はあった」と第三者は語るのである。存在の悲劇は自己の意思で生まれてきたのでないにも関わらず、死ですら正しくないということにある。死ですら全てを解除することにはならない。後悔は死後にはない、この後悔は死の直前、最後の一呼吸、それよりも短い最期の瞬間まで訪れる。しかし死そのものは決して私の存在の中”のみ”存在しない。誕生と死は世界の側にある。存在は世界と関わってしまった瞬間から、意味を互いに持ち始める。存在が重いのではなく、関係だけがブクブクと膨れあがる。「あの人はああいう人でした」(死者がどういう人間だったか)という回想がいよいよ畏まった形でなされる事態が葬式の際に発生するのは、自分を語るということに自分は出席できない、自分の終わりに間に合わない故にどうしようもなく世界の側から他者が語るのである。

存在は存在と世界の結果、変化し続ける"状態"のことである。従って、存在には既に始まりも終わりもない。意識だけが、存在と存在者を分離しうるにすぎない。果たして眼の前にある数秒前のコップは存在だろうか、存在者だろうか。

 

鞄の重さは筋力との関係の中で決定される。長い時間持ち歩き、鞄を手から離したときに起こる疲労、手の軽さ、震え。この手の震え(終わった結果発見される起こったこと)によってしか私は「重い鞄を疲労するまでに持ち続けていた。」ということを終わりの地点から発見するのである。私は重い鞄を現在持っているという時ですら、存在は現在から事象を発見することはできない。通りを走る車の現在位置から1メートル先、或いは数センチ、数ミリ等々、それは過去からアクセルを踏み続けている現在からほぼ決定されている。過去から、現在を素通りして、常に終わった現在から、現在を発見しているに過ぎない。私という存在者はいつも私に対して遅い。それはまた知らないことを常に残しながら勘違いしながら知ってしまっていくということである。これが存在者に残された可能性ということであり、延長ということである。「~をしている」、「~をする」というとき、観測者は(例え自分が今それを行っているとしても)その動詞つまり行為や意思そのものに対して遅れている。これは言語的に遅れているというより、もっといえば、そもそも人間というものが世界に対して遅れている。何処で誰のもとに産まれてそしていつ死ぬかということを決定することができない。そしてこの生きている現在、意思の存在は疑わしいものである。いつからか、何かを考えて実行することが出来るのだ、という認識にすり替わっている。人間が思考したり実行したりするということは、本来選ばれたあとに選んでいるに過ぎないのではないか。それを訓練によって或いは習慣化することで逆転しているように見せているだけではないのか。本来人間というものは、選択などしておらず、純粋な意味で人間に意思や感情など存在しないのではないか。あるのは”状態”、”行状”だけなのではないだろうか。人間の発見とは過去を、再認という形で発見し続けているにすぎない。そこにある些細なズレである最も重要な事象は、他性であり、常に理性を超えている。"全的に知ることなく経験しかできない人間"と、"経験することなく既に知っている神"は、永遠に交わることがない。故に恐らく両者ともに何かを自らの力のみで選んだことは一度もない。世界の他性。世界が他性であるならば、この世界のうちにある、この自己自身という存在者も他性であるに違いないのである。そこでむしろこの「”始原の喪失”から始まっているような形で存在している存在者」。このことにしか希望はない。”全的に知ることがなく、未だその時がやってこないというこの”半開状態”であるというこのこと。存在は他性の到来するそのときをただ待てば良いというのだろうか。仮に未だ透徹した視線が存在するならば、あまりに直観的にすぎる判断を下すならば、どんな思想もこの"前-存在論"または"非-存在論"とも呼ぶべきものを基盤としてしか現れることがなく、今のところこれ以上に遡行することができないものだと考えられる。一般的な存在論はこの基盤の上での遊戯にすぎない。しかし、何かを悲観したり、何かを楽観する必要も、最早ない。なぜならば、すべての存在者はこの遊戯が遊戯であるということを知ったところで、この遊戯から逃れることがなく、また当然、ここに記す全てもこの遊戯場で起こる遊戯に過ぎないからである。そしてともすれば存在論が世界論として現れるのかもしれない。だからこそ思想・哲学は、“これ以降“のという形で進展させようとするならば、形而下の出来事にすぎない。

 

 

■ジャン=リュック・マリオンと共に

※<私自身><前-存在者性>という概念は、<呼び求め>を発するもののことである。

ジャン=リュック・マリオンの『還元と贈与』の中で、<呼び求めるもの>ではな<呼び求め>としているのかについての感覚はここで掴めるものと思っている。また、なぜ、<前-存在者>ではなく<前-存在者”性”>なのかということについても同様である。私が何処からやってくるのかということについて。私という位相は、何故に特異な地点なのか。私が「私」というとき、名指すものがいつの間にか名指されているものになっているということであるだろうか。それは一方から他方へということが順番に行われているが故に、自己は分断し差異化するという意味で交わることがないということなのだろうか。これは言語のひいては思考の形式によるものの錯誤なのだろうか。または、自分の顔を直接に見ることが私にはできないというような意味なのだろうか。単に、分裂するという点で言えば、私といわずとも、テーブルだろうが、友人だろうが、常に現実存在そのものとして、事物そのものへ、という意味ではいつでも捉え損ねており、また過剰でもあるという点でこれらには差異がない。私が<私>というとき既に、<私自身>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私>というような対象化された<存在しないもの>についての問へとすり替わる。いつの間にか対象と化した私は、前-私的な存在者が作り上げた-私、なのだろうか。ともかく、何よりもまず、私自身というものが、<呼び求め>、である場合、その呼び求めを唯一聞きうるものとして、呼び求め、つまり私自身に、私は優位を保っているのである。呼び求めは、なおも対象ならざる対象として存している。それはゴーレムやペガサスやケンタウロスよりもなお、対象ならざる対象として存在している。そういう意味で、私自身という存在は全き他性であるようなところのものである。
“私が私を名指し得ない特異な場所に私自身が存在していることを直感しうるところの存在者“。存在者の権能は他者に対するよりも無力であり、他者よりも全く他者だという点にある。私という存在者はまずもって、私自身に、存在に、呼び声に、明け渡され任じられ、全うする以外の道がないということである。したがって、どこまで行っても世界的に存在者は受動性に塗れている。存在者の能動性は世界を十全に感知し得ない点にのみ担保されているに過ぎない。ここでの課題は、名指し得ぬ存在者を前-存在論的に存在者の前に引きずり出し、召喚することにある。そして、この<私自身>を<前-存在者性>と名付ける。どんな存在者も自分の生を私は選べず、また親からもどんな子をというようには選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける。母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、根源である母親を失いこの世に生を受けるのである。これは一般的にいって、私が違う国、時代で生を受けていれば、ここにいる私とは全く異なる性格を有していることと同様である。さらに、現在も未だ私を選ぶことが出来ないように外部を選ぶことができないように。そして<私自身>というものは<私>という窓と共に変更を被っている。存在者は絶えず世界からの影響を受けて生きている。それでもなお、存在者に優位があるのは、ジャンケレヴィッチの用語を借りれば、半開的存在者としてあるということにある。これは端的にいうとして、世界に対して半分開いており、半分は自己に閉じこもっているという単純な意味で、そのようにして私というものが存在しているからに他ならない。これはどんなに先のことを予知(そのときの感情さえも)できていたとしても、実際にその瞬間になるまでは(体験するまでは)それを良い意味でも悪い意味でも、知ってはいても、了解していない、ということにある。さらに、どんな存在者も知っていることと知らないことを合わせれば総体量は同じ(比率が違うだけ)ということからも半開的なのである。また、その瞬間に知覚していること、知覚していないこと、という意味でも半開的である。こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。前-存在者は一人称単数ではなく、むしろ、変容し続ける三人称複数として存在しているが、存在者はこれを捉えることが出来ない。これをこそ存在者の基盤の上に重くのしかかかる<前-存在者性>というべきものである。この<前-存在者性>は純粋に私と呼べるようなものではない。更に、私以外の誰それというわけでもない。マリオンは、端的に、<存在の問い>を、「蝶番のように存在している。」と記しているが、しかしこれは、この<呼び求め>、<前-存在者性>すらも、蝶番のように存在している。そこにつながれているのが対象化された<私>である。対象化された私というのは、つまり、この<呼び求め>、<前-存在者性>に対象化されているところのものである。マリオンのいう、<呼び求め>つまり、この<前-存在者性>が私に<呼び声(呼び声の不在でさえ)>を送付する。私はこの送付に対してどのような態度を取るかということを強いられている。私はここでもっとも思い切った形でこれを言わなければならない。この呼び声を送付された私の態度決定、回答は、既にして終わっているといってもよい。世界があることの知覚は既にして、物理的にいって、世界の客観的、超越的にはすでに終わっているものを人間存在は知覚している。これは世界に対して存在者が遅れを取っているということと同じである。それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。しかし、この私はこの関係性の前に於いて、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。それは半開の無知によって成し得ている。この様相は以下のような構成になっている。この<強いられ>という状況、<呼び求め>から<存在者>が生起する。"呼び声を聞かざるを得ない者"として生起する。この<存在しない私>を立てることができるのは、<私自身>が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているからに過ぎない。ここで類といったのは、私そのものは単独者として、純粋に"私"ということが、できないくらいに、世界との関係に強いられているからである。つまり<私自身>でしかないような、純粋自我などのような存在者というものは最早存在し得ない。私は一人称単数であっても、<前-存在者性>は変容し続ける三人称複数によって存在している。”に対して”存在している、ということはもはやここでは意味を逸失しているだろうか。<前-存在者性>を存在者は捉えることが出来ない。それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。<私自身(前-存在者性)>は便宜上、1人称単数の形をとっているが、この箱の蓋を開ければ、<三人称複数> なのである。それは非人称的な〈類〉である。恐らく、存在者が神のような絶対者を必要とするのは存在者が根源的に<類>だからである。神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。全時空間的に存在しており、全てが成し遂げ終えているようなところのものである。故に神が存在するということは人間には認識し得ない。それどころか、神は存在者ではない。神はすべてを完了してしまっているが故に、全時空間的にあるが故に、何がしかの存在者ではない。神は驚異の念を抱くことができない。人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。関係<必然>としなかったのは存在者から見て、何事もその瞬間まで<偶然>に過ぎないからである。偶然と必然の遊戯は存在者の位相を取るか、世界の位相を取るかということであるだろう。世界は超越論的には必然であるが、その時が未だや来ていないという点で存在者の認識はすべて偶然的に映るに過ぎない。過去現在未来の時制は、存在者が世界を知覚する地点にしか存在しない。過去→現在→未来のようには時間は過ぎ去っていない。存在者の優位性はすべてを現下に引きずり出す性格によって、存在者は存在している。超越的に見て、世界は何らの時制をもってはない。存在者の過去・現在・未来は次のような様態で存在している。過去が未来から現在に招来する形で現在に存在している。過去の過去性は厳密に完了していることであるが、世界は、なんら完了していないように見える形で存在者に送付されているが、すべてが完了している。ゆえに完了しているのは過去だけではなく、現在、未来、も既に完了している。これは存在者の意志ですら逃れることがない。存在者にはそうは映らないという点でのみ(未だ訪れていないという点でのみ)存在者の優位性は保証されている。このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。または半開的存在者。またの名を<私>という。しかし、<前-存在者性>と<私>の区別は一体何によって成り立っているのだろうか。これは意識が区別させるものなのだろうか。この区別に何らかの意味があるのだろうか。この区別は<私>を<前-存在者性>に対するようにして存在者が存在していることの謂われであろうか。仮にこの遮蔽幕を取り払い、<前-存在者性>を<私>と同一のものと見なすならば、我々は何かを得るのだろうか。それは、私を含めて、<世界>が<状態>としてあり何の差異も存在しないということと同じであろうか。<私>が現在も尚、この<前-存在者性>より生み出されたものだとして、<私>が、<私>と言うことの権利は残っているのだろうか。反応ではなく抵抗であるという点でのみ、私は私なのだろうか。前-存在者性と私の間に存するものが私なのだろうか。それは現存在と何が違うのだろうか。そこではもはや大した区別ではないのではないだろうか。人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。しかし、確かに存在の声、呼び求められるものとして、なお依然として、存在者としてあるというこの事態。

 

 

■或る問(形而上学入門/ハイデガー

 "Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?"「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」というハイデガーの問いがあり、「形而上学入門」で取り上げられている。いずれにせよ 無いことに困るのは、ある時を、既に知ってしまっているからである。そして、それが何れ、帰って来るのではないか、或いは、何れその時がやって来るのではないか、というすべての期待(予持)の中に、今まさにその問に対峙しているからである。

 

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」.....たとえば深い絶望の中にあって、ものごとからすべての重みが消えうせようとし、あらゆる意味がぼやけてしまうとき、この問いが立ち現れる。

 

この問いが及ぶ領域は最も広範である。この問いはどんな種類の存在者に達しても停止することがない。この問いはすべての存在者を、すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する。

 

われわれはわれわれの問うことの経過の現在の段階から、さらにもう一つの別のことを見渡すことができる。われれわれはさきに、「存在」という語は、普通の考えに反して、一つの全く限界づけられた意味を持つということを明らかにした。すなわち、存在そのものは一つの特定な仕方で理解されているということである。そのように理解されたものとして、存在はわれわれにとって開けて明らかである。しかしどんな理解も、開示の根本様式の一つとして、一つの特定な視線の中で動いているはずである。この物、たとえば時計は、われわれがあらかじめ既に時間とか、時間の計算とか、時間測定とかいうようなことを知っているのでないかぎり、われわれに対してはそれがあるところのものという点では閉ざされたままである。有様の視線はあらかじめ既に敷設されていなければならない。われわれはこれを先行-視線、「ペルスペクティーヴェ」と名付ける。

 

 ここでおそらく重要と思われるのは、「すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する」

ということと、「先行-視線(ぺルスペクティーヴェ)」であろう。過去にあった、未来に必ずそうなる、というようなことはどんなことがあっても現存在に十全に正しく通達されることは在り得ない。従って、「この問いはどんな種類の存在者に達しても停止することがない」のである。なんらかの余剰と不足、あるいは次の瞬間が消し去る。同じように眼の前にあるものを見やるとき、存在者を見るとき同じように、十全に正しく通達されることは在り得ない。この十全に正しく通達されないことが存在者に残された唯一の可能性である。現存在は現在という時間に貼り付けられている。全く目が離せないでいる。過去や未来を想像しているときですら、それは現在というその瞬間においてそうしている。ただし、規定されていることを知らずにそうしている。存在者はは"存在"によってすべてが支えられている。この存在は現存在の根拠である。何かがあることの根拠としての。無が"ある"の前で(根拠)、"無"は"ある"。存在とは殆ど無である。ニーチェが言った存在とは幻であるというのはそういったことではないだろうか。意志の手前の意志や、環世界というものが、あるいは現在欠損している全て。これらがニーチェハイデガーが言っている"存在"という言葉ではないかと思われる。

 

 存在はどうなっているのか?存在を見ることができるだろうか?われわれは存在者を、この白墨を見る。しかし、われわれは色や光や闇を見るように存在を見るだろうか?あるいは、われわれは存在を聞き、嗅ぎ、味わい、触れるだろうか?われわれはオートバイを聞く、それが大きな音をたてて通りを疾走するのを聞く。われわれは大雷鳥を、それがそびえる森をすべるように飛び越えていくのを聞く。しかしほんとうは、われわれはただモーターのバタバタという物音や、大雷鳥がたてる物音を聞くだけである。純粋な物音を記述するなどということは大変むずかしく、われわれには不慣れである。というのは、それはわれわれが普通聞いているものではないからである。われわれは〔単なる物音に比べるならば〕いつでもそれより以上を聞いている。

 

 

 

 

ファン・ゴッホの描いたあの絵、無骨な百姓靴一足のほかには何もない。この絵は本来何ものも呈示していない。にもかかわらず、これを見るや直ちに、われわれ自身が晩秋のたそがれ、じゃがいもの茎を燃やし終えて鍬を肩に野から疲れた足で家路をたどっているかのようにわれわれはこの絵にあるものとひとりで対面する。何がそこで存在的であるのか?画布か?筆触か?色彩か?

いまわれわれが列挙したもののすべての中で、一体、存在者の存在とは何なのか?こんなことさえわからないとは、一体、われわれはなんという愚かなうぬぼれと賢さとをもって、この世界の中であちこち走ったり立ち止まったりしているというのか?

 

 

端的にいって、すべてがペルスペクティーベそれ自体の駆動によって、世界は既に完了しているとしたらどうだろうか。たとえばそれは、現存在を必要としないペルスペクティーベといってもよいのではあるが。それはちょうど、今私がこのキーボードを打っている、打鍵している意志の手前の意志によって、または世界によって既に終わっていなければ可能ではないことなのである。更に例を挙げるならば、物を動かすエネルギーによってどれだけの距離を移動するかということが、世界と共に規定されている。実際に物がその距離を移動し終える前に、エネルギーを加えた瞬間に決まっている。そのようにして人間の意志を含むすべての物理法則によって動く前からすでに動いている、ちょうどピンボールのように弾き出されている。そうやってはじまりのはじまりのはじまりの...というように無限に退行してゆく。広く言われている決定論が責任の概念を回避し得るという理論はこれである。ラプラスの魔物もここに属している。これに乗っ取るのならば始まりは既に終わっている。それでもなお、現存在の自由というものがあるとすれば、未だその瞬間がまだ実際に結果していない、という現在地点においてのみ、終わっていないという地点においてのみ、担保されているのである。故に現在という時間は、現存在にとってのみ全く何者にも規定されていないのである。いや規定されているが、現存在はそれを知り得ないということに規定されている。では、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」に対する、私のこの記述に対する同意は、同じように現存在の観測者の憶測の域をでない。世界は等の昔に終わっているが故に、何も始まっていない。何かが始まっているのは勝手に存在者が誤解の上で始まっているに過ぎない。現存在は何処までも非-知、非到来性によって守られているに過ぎない。人はそれを可能性と呼んでいるに過ぎない。どんな人間もこの同じ状態にある状況で何故私は「に過ぎない」というのだろうか。  Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?ということしかできない現存在の全体性において。この全体性は現-存在として発することしかできないという地点において。つまり、(世界-内-存在)の全体性において。

 

 

■神話・共同体・虚構において

 

残念ながらジャン=リュック・ナンシーをこの眼で見ることは叶いませんでした。

ですが、この来日のために、書かかれたテクストをナンシーの妻である、エリーヌ・ナンシーが、読み上げました。日本語で書かれたテクストをスクリーンに投影し、それはまさに詩のような文章で書かれており、また、エリーヌ・ナンシーによって、彼のテクストが朗読され、我々の眼前にありありと、ジャン=リュック・ナンシーを蘇生させました。ナンシーの不在を埋めるような、愛のような祈りでした。

 

パロールは発話者が居なければ聞くことがない。また、聴くものがいなければ、話すこともない。そういった意味でエクリチュールよりも、パロールのほうが、限定性が高いと言える。エクリチュールは、特定のある人に宛てるでもなく、宛先なく、宛先の受領なしに、在ることができる。(parole adressée à-.)でもおそらく、一人ではないという複数性をもって書いている。今私は誰かに向かって書いている、いくつかの想定し得る人を思って書いている。さらに無名の名指し得る、未だ出会ったことのない誰かに向かって、いつでも僕は有る何か、に向かって書いている。決して、無に書くことはできない。無の有としてしか存在しない。おそらく独白は、純粋に独白として存在することができない。

 

教授が言っていたように、同じテクストをジャン・リュック=ナンシー本人がここで読み上げることと、エリーヌ・ナンシーが読み上げることの何が違うのか。また、そういった意味で、ナンシー本人がいないにも関わらず、ナンシーの言葉が語られているというこの事態は一体なんなのかというこの問いは、奇しくもこの公演のタイトルである、『神話・共同体・虚構』と符合してしまった。

 

この三つはどれも人称性を欠いているのです。"宛先のない"ものであり、”発話者が存在していない"地点でもあるわけです。

つまり、これらは誰が書いてもよかったものでもあるわけです。さらに、誰が読んでもよかったものでもある、そういう風にあったわけです。

神話とは師から弟子へという伝承とは違う方法で、語り継がれている。

神話とは、ある特定の誰かに宛てられたものでは最早ない。神話自体、誰が書いてもよかったわけです。そういった神話の複数性が問題にあるわけです。ですから、神話は誤配の誤配でもあるのです。にもかかわらず、神話それ自体は、無傷のまま存在している。神話が語り継がれるのに失敗するという事態はもうとっくに終わっている。神話が記録された時点で、神話の誤配はオリジンの神話の派生としてしか存在することができない。それは別の神話にすぎないわけです。故に神話は永久に無傷のまま留まる。

 

ジョルジュ・バタイユ氏だろうか、否、ニーチェ氏に関してバタイユ自身がそう言っているように、バタイユ氏はそっとしておこう。

こと心臓に関わる限り「なになに氏」はそこにそっとしておかなければならない。

 

 

作品とは、ドゥルーズが書くことについて語った言葉を借りれば、「人は知っていることと知らないことの先端でしか書かない。」ということになるだろうか。最早可能性として、"祈り"として書く。これは書くことに留まることではないのです。人間の生そのものが、知っていることと知らないことの狭間で問いに付されている。もっといえば、というより寧ろ、知識ではなく、体験していない。未だやってこないということの方が本質的な事態であるように思われます。

 

このシンポジウムは、ある種の神話としてあったのだろうか。

宛先なしに、存在していたのだろうか。私は大学生であったことが一度もない。

にもかかわらず、この場は、無名の私、一般人である私に対しても開かれていた。

そうした意味でも確かにこの知は閉ざされておらず、開かれていた。当たり前のことだが、僕が居なくてもこのシンポジウムは開催されている。登壇者である教授が一人欠けようとも、開催される。何しろ、今回の主役である、ジャン=リュック・ナンシーが不在であるという事態でさえ、このシンポジウムは止まることがない。誰が居てもよかったにも関わらず。ある名指し得ぬある何かに向かって。語りつくし得ぬ不可能性の可能性へ向かって。

 

複数性。何も神話だけではないように思える。それはナンシー自身が1991年に心臓移植を受けたこの物理的な問題を待つまでもなく、「他人の心臓が私の心臓の内で...」という様相の許にある存在。

今もなおその他者の心臓で自己が作動している主体。心臓が入れ替わってなお、駆動する私という存在者。その中で主体とは何かを問われ問い続けている。一個の存在者に関してすら。僕の中に無限の存在者が流れている。他の存在者もそうなのであるならば、存在者があるということは一体、どういった相貌なのか。世界があるとは何なのか。一体、誰が語っており、誰が話しているのだろうか。世界と存在を隔てるものは果たしてなんなのか。外皮は剥がれ、むき出しの肉も剥がれ、灰となった骨、自己を差し出した先にある、複数性の呼び声、複数性の応答。誰もが産まれ終わっており、死も生の外にある、始点と終点を逸している存在者。存在。

 

あの空間にナンシーは不在の有として存在していたように思います。

確かに他者を通して、ナンシー自身が語り、他者を通して、ナンシー自身を聴いていた。それはむしろ、はっきりとした形で現れた。ナンシーの強大なエネルゲイアとして。

 

このシンポジウムのナンシーの最後のスライドは確かに普通の意味で時間軸として終わりの言葉です。しかし尚、終わり得ぬと言わんばかりに、言葉の意味はむしろスライドの最後であるという通常の時間軸に逆らうように、開かれた神話のように。

また、Adorashion(祈り)のように。

 

 

これはあの日の最後のスライドの言葉である。

何故最後にナンシーがこう言うに至ったのか、残念ながら記憶にないため、私にはわからない。

 

技術者たちは世界を変容させただけだ。

いまや不可能なものを世界に輝かせなければならないのである。

     ジャン=リュック・ナンシー

 

 

 

 

ブランショ

広告を非表示にする

日常性8

 

珈琲のカップにミルクを注ぐ 

円錐の底面の縁の上に

内側に向かって座っている少年の顔に覗く空漠の笑顔の中に

白い正四面体は完成する

頭上から鋭い鉄の棒が正四面体を貫き

輪郭は解けて液体となり零れる

 

夜空を剥がせば

青空に放たれた粒子に反射したる光が見せるのは

幼き頃の庭に埋めた小鳥の鳴き声に似ている

 

滝が落ちる破れた水面は円錐の少年に似ている

 

砂漠の駱駝たちの瘤に溜まった水は

あの溶けた正四面体の液体であるそうだ

 

今はもう小鳥の鳴き声だけが見当たらない

ああ、小さき顔よ

君の声はもう青空に鳴らなくなってしまったのか

 

紫煙の中の夢のようだ

駱駝の瘤に似た小麦粉を咽喉に詰める

小さき声の破片が泥色の液体と混ざる

 

日常性7

 

東京では久々に雪が降っている。今年はもう降らないかな、とここ数日呑気なことを思っていたら、帰宅命令が出るくらいには降った。ビルの窓から見える外の雪は斜線を引くように流れ、過剰からくる諧謔のように見えて笑うしかない。そうやって一先ず笑っていられたのも一つの路線を乗り換えるときまでが限界で、その線を超えてしまったと気付いたのは、私が車両に乗っている列車が輸送に手をこまねいていたときだった。情報が実感となった。つり革をあと何十分捕まっていればよいのだろうか。車内放送とインターネットによれば僕の向かっている先では、ホームで人が溢れているという。溢れているから到着できないという。当然、到着しても溢れるからだ。一駅、一駅、着いては数十分止まる。おそらく乗るタイミングが一番悪かった時間帯だった。幾つかある帰宅経路の中で最悪なものを選んでしまったと思った。今更乗り換えるのもなんだか癪で、ただ耐える。漸く噂の溢れたホームに到着してみると、線路に投げ出されてはいないものの、ホームへの階段は人が沢山。駅が地上なものだから、今日の風は屋根などお構いなし。僕らの頭上に雪を運んでくる。身体は冷え切りこんなに人がいても、いやそれゆえに、なんとも侘しい風景だった。とろとろと人を運ぶ、列車を二本見送り、ようやく乗れると思った頃にはもう、心身ともに草臥れていた。車内に詰め込まれると、草臥れた、なんて言っている暇もなく、我こそは、と押し合いへし合い、片手をつり革に掴んだまま、バランスゲームさながら、身体がよじれる。駅に着くたびに一度しまったドアが開き、また閉じて、また開く。酷いときには5回繰り返された。最寄り駅に着く手前でもう限界、腰が横に曲がった状態を維持しているものだから痛くてしょうがない。あと一駅が無限のように感じる。疲労だ。駅について一息つきたいと思って喫茶店に入ったが店員さんが言う。今日は閉店とのこと。気が付かなかった。どこもかしこもおかしい。本当に疲れているときは誰もが僕だけが一番疲れていると思ってしまう。何故なら本当に疲れているからだ。東京に住んでもう20年、残りの6年も東京ではないまでも都会であることには変わりがない。そろそろ都会を出たいとも思うが、これも同様に自分が一番疲れていると感じてしまうことと同じことならば、もうどこにも住む場所はないのかもしれない。今日も仕事。そんなことはお構いなし。西部邁が死んだという。吉本の時もそうだったが、いつでも一人の思想家が死んだということはなんだか寂しいことのように感じる。こんな時間に家の窓の外から見えるのは、ビルの外から眺めていたものとは全く違ったもののように見える。僕にとって今日の雪はそんな感じだった。それは虚しくもあり羨ましくもあった。

 

kokowa

 

余りにも書くことがないため、kokowaで作成したものを貼り付ける作業をします。

 

f:id:torus-torus:20180111204321j:plain

 

 

 

f:id:torus-torus:20180111204256j:plain

 

 

 

f:id:torus-torus:20180111204307j:plain

 

 

 

f:id:torus-torus:20180111204228p:plain

 

 

 

f:id:torus-torus:20180111204216j:plain