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Torus-Torus-Torus

回転する円環の中で。たとえ緩やかなメールシュトロームの底でも。

前-存在者性

哲学

 

 

ジャン=リュック・マリオン

 

『還元と贈与』

 

を読んだ。

 

私が読んだものの中で、自身が考えていた"存在者"の認識に、

"私"というものの"存在者"の認識に近いものだった。

予め言っておくと僕の圧倒的力不足により、マリオンの意図していることではないのであろうから、読んだ結果喚起された雑感ということで許されたい。

 

仮に未だ透徹した視線が存在するならば、あまりに直観的にすぎる判断を下すならば、どんな思想もこの"前-存在論"または"非-存在論"とも呼ぶべきものを基盤としてしか現れることがなく、今のところこれ以上に遡行することができないものだと思っている。

 

一般的な存在論はこの基盤の上での遊戯にすぎない。しかし、何かを悲観したり、何かを楽観する必要も、最早ない。なぜならば、すべての存在者はこの遊戯が遊戯であるということを知ったところで、この遊戯から逃れることがなく、また当然、ここに記す全てもこの遊戯場で起こる遊戯に過ぎないからである。もしかするとこの場は “知っている”ということが無力となる地点なのかもしれない。そしてともすれば存在論が世界論として現れるのかもしれない。だからこそ思想・哲学は、“これ以降“のという形で進展させようとするならば、形而下の出来事にすぎない。

 

 

過去に書いた記事を加筆修正する形ではあるが、

ここにもう一度、再記する。

 

※<私自身><前-存在者性>という概念は、<呼び求め>を発するもののことである。

還元と贈与の中で、<呼び求めるもの>ではな<呼び求め>としているのかについての感覚はここで掴めるものと思っている。また、なぜ、<前-存在者>ではなく<前-存在者”性”>なのかということについても同様である。

 

私が何処からやってくるのかということについて。

 

私という位相は、何故に特異な地点なのか。私が「私」というとき、名指すものがいつの間にか名指されているものになっているということであるだろうか。それは一方から他方へということが順番に行われているが故に、自己は分断し差異化するという意味で交わることがないということなのだろうか。これは言語のひいては思考の形式によるものの錯誤なのだろうか。または、自分の顔を直接に見ることが私にはできないというような意味なのだろうか。単に、分裂するという点で言えば、私といわずとも、テーブルだろうが、友人だろうが、常に現実存在そのものとして、事物そのものへ、という意味ではいつでも捉え損ねており、また過剰でもあるという点でこれらには差異がない。私が<私>というとき既に、<私自身>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私>というような対象化された<存在しないもの>についての問へとすり替わる。いつの間にか対象と化した私は、前-私的な存在者が作り上げた-私、なのだろうか。ともかく、何よりもまず、私自身というものが、<呼び求め>、である場合、その呼び求めを唯一聞きうるものとして、呼び求め、つまり私自身に、私は優位を保っているのである。

 

呼び求めは、なおも対象ならざる対象として存している。それはゴーレムやペガサスやケンタウロスよりもなお、対象ならざる対象として存在している。そういう意味で、私自身という存在は全き他性であるようなところのものである。

 

“私が私を名指し得ない特異な場所に私自身が存在していることを直感しうるところの存在者“

 

存在者の権能は他者に対するよりも無力であり、他者よりも全く他者だという点にある。私という存在者はまずもって、私自身に、存在に、呼び声に、明け渡され任じられ、全うする以外の道がないということである。したがって、どこまで行っても世界的に存在者は受動性に塗れている。存在者の能動性はそれを十全に感知し得ない点にのみ担保されているに過ぎない。

 

ここでの課題は、名指し得ぬ存在者を前-存在論的に存在者の前に引きずり出し、召喚することにある。

そして、この<私自身>を<前-存在者性>と名付ける。

 

どんな存在者も自分の生を私は選べず、また親からもどんな子をというようには選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける。

母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、根源である母親を失いこの世に生を受けるのである。これは一般的にいって、私が違う国、時代で生を受けていれば、ここにいる私とは全く異なる性格を有していることと同様である。さらに、現在も未だ私を選ぶことが出来ないように外部を選ぶことができないように。そして<私自身>というものは<私>という窓と共に変更を被っている。存在者は絶えず世界からの影響を受けて生きている。

 

それでもなお、存在者に優位があるのは、ジャンケレヴィッチの用語を借りれば、半開的存在者としてあるということにある。これは端的にいうとして、世界に対して半分開いており、半分は自己に閉じこもっているという単純な意味で、そのようにして私というものが存在しているからに他ならない。これはどんなに先のことを予知(そのときの感情さえも)できていたとしても、実際にその瞬間になるまでは(体験するまでは)それを良い意味でも悪い意味でも、知ってはいても、了解していない、ということにある。さらに、どんな存在者も知っていることと知らないことを合わせれば総体量は同じ(比率が違うだけ)ということからも半開的なのである。また、その瞬間に知覚していること、知覚していないこと、という意味でも半開的である。こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。前-存在者は一人称単数ではなく、むしろ、変容し続ける三人称複数として存在しているが、存在者はこれを捉えることが出来ない。

これをこそ存在者の基盤の上に重くのしかかかる<前-存在者性>というべきものである。

この<前-存在者性>は純粋に私と呼べるようなものではない。更に、私以外の誰それというわけでもない。マリオンは、端的に、<存在の問い>を、「蝶番のように存在している。」と記しているが、しかしこれは、この<呼び求め>、<前-存在者性>すらも、蝶番のように存在している。そこにつながれているのが対象化された<私>である。

対象化された私というのは、つまり、この<呼び求め>、<前-存在者性>に対象化されているところのものである。マリオンのいう、<呼び求め>つまり、この<前-存在者性>が私に<呼び声(呼び声の不在でさえ)>を送付する。私はこの送付に対してどのような態度を取るかということを強いられている。私はここでもっとも思い切った形でこれを言わなければならない。この呼び声を送付された私の態度決定、回答は、既にして終わっているといってもよい。世界があることの知覚は既にして、物理的にいって、世界の客観的、超越的にはすでに終わっているものを人間存在は知覚している。これは世界に対して存在者が遅れを取っているということと同じである。

 

それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。

 

しかし、この私はこの関係性の前に於いて、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。それは半開の無知によって成し得ている。この様相は以下のような構成になっている。

 

この<強いられ>という状況、<呼び求め>から<存在者>が生起する。"呼び声を聞かざるを得ない者"として生起する。

 

この<存在しない私>を立てることができるのは、<私自身>が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているからに過ぎない。ここで類といったのは、私そのものは単独者として、純粋に"私"ということが、できないくらいに、世界との関係に強いられているからである。

 

つまり<私自身>でしかないような、純粋自我などのような存在者というものは最早存在し得ない。

 

私は一人称単数であっても、<前-存在者性>は変容し続ける三人称複数によって存在している。”に対して”存在している、ということはもはやここでは意味を逸失しているだろうか。

 

<前-存在者性>を存在者は捉えることが出来ない。それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。

 

<私自身(前-存在者性)>は便宜上、1人称単数の形をとっているが、この箱の蓋を開ければ、<三人称複数> なのである。それは非人称的な〈類〉である。恐らく、存在者が神のような絶対者を必要とするのは存在者が根源的に<類>だからである。

ジュリアン・ジェインズのいうように、神からの声は、この前-存在者性から発せられていたものに過ぎない。

 

神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。全時空間的に存在しており、全てが成し遂げ終えているようなところのものである。故に神が存在するということは人間には認識し得ない。それどころか、神は存在者ではない。神はすべてを完了してしまっているが故に、全時空間的にあるが故に、何がしかの存在者ではない。神は驚異の念を抱くことができない。

 

人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。

 

関係<必然>としなかったのは存在者から見て、何事もその瞬間まで<偶然>に過ぎないからである。偶然と必然の遊戯は存在者の位相を取るか、世界の位相を取るかということであるだろう。世界は超越論的には必然であるが、その時が未だや来ていないという点で存在者の認識はすべて偶然的に映るに過ぎない。過去現在未来の時制は、存在者が世界を知覚する地点にしか存在しない。過去→現在→未来のようには時間は過ぎ去っていない。存在者の優位性はすべてを現下に引きずり出す性格によって、存在者は存在している。超越的に見て、世界は何らの時制をもってはない。存在者の過去・現在・未来は次のような様態で存在している。

過去が未来から現在に招来する形で現在に存在している。過去の過去性は厳密に完了していることであるが、世界は、なんら完了していないように見える形で存在者に送付されているが、すべてが完了している。ゆえに完了しているのは過去だけではなく、現在、未来、も既に完了している。これは存在者の意志ですら逃れることがない。存在者にはそうは映らないという点でのみ(未だ訪れていないという点でのみ)存在者の優位性は保証されている。

このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。

または半開的存在者。

またの名を<私>という。

 

しかし、<前-存在者性>と<私>の区別は一体何によって成り立っているのだろうか。これは意識が区別させるものなのだろうか。この区別に何らかの意味があるのだろうか。この区別は<私>を<前-存在者性>に対するようにして存在者が存在していることの謂われであろうか。仮にこの遮蔽幕を取り払い、<前-存在者性>を<私>と同一のものと見なすならば、我々は何かを得るのだろうか。それは、私を含めて、<世界>が<状態>としてあり何の差異も存在しないということと同じであろうか。<私>が現在も尚、この<前-存在者性>より生み出されたものだとして、<私>が、<私>と言うことの権利は残っているのだろうか。反応ではなく抵抗であるという点でのみ、私は私なのだろうか。前-存在者性と私の間に存するものが私なのだろうか。それは現存在と何が違うのだろうか。そこではもはや大した区別ではないのではないだろうか。人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。しかし、確かに存在の声、呼び求められるものとして、なお依然として、存在者としてあるというこの事態。

映画 「エヴォリューション」

映画

 

これから書くことは、まだこの映画を見ていない人、今後見る予定がある人、または、見る予定がないとも言い切れない人は見る必要がない。更に実際にこれがネタバレなのかどうなのかは私の知ったことではない。

 

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この映画は海の中の視点から開始することで、

観客をイノセントへと引きずり戻すことから始める。

 

ヒトデは種類によって食事の方法が異なる。

一つは口を使って多くの種がそうするように、捕食するもの。

もう一つは口から反転させた胃袋を出して、捕食物を多いかぶせるようにして捕食するもの。

 

あの赤いヒトデはどちらの種に属すのかは知らないが、

この映画はまさに後述のヒトデのような映画である。

反転したイノセント。

反転したイノセントというのはグロテスクである。

イノセントということとグロテスクであるということは同じところに根を持つものであるように思う。

主人公が見た海の中の死体が彼をイノセントへと、グロテスクへと引き戻す。

 

人間の暴力性の発露は自分より非力な生き物を殺す快楽によく見られる。

この暴力性は大人や友人よりも自分が非力である存在であることを隠すために現れる。

守られていると感ずるときむしろ人はそれなりにそれに対して反逆したくなるものなのだ。

 

人は何故ヒトデから受けるグロテスクな死の見た目が反射し、自分も同じように肉が抉れることを想像をできるようになるのか。グロテスクは、自分の肉体もグロテスクであるということを知るのは虫や動物を殺してみることでわかる。そして自分の肉体がグロテスクであると知るのはいつどのようにして知るのか。

これは自分が怪我を受けるときその外傷を見てグロテスクであることを知る。

つまりグロテスクが現れるのは自分の肉体がグロテスクであるという前提を得てグロテスクは作動する。

 恐らく、自分の外傷を観るのでなければ、つまり内部にある血肉を見るのでなければ、人はいくらでも暴力性やグロテスクを平気で眺めることが出来る。つまりグロテスクはそこでは作動しないのではないか。そこではイノセントとして現れる。

 

ここでヒトデの話に戻れば、ヒトデというのは血液を持たない。ヒトデは栄養を運ぶのに外部世界である海水を利用している。更に、ヒトデは身体が切断されると一匹のヒトデが分離し二匹のヒトデとなる種が存在する。この分裂したヒトデは元のヒトデから分裂したヒトデであり、生殖を介さずにこの世に現れ生きている。

 

したがって、主人公の腹の中に眠っていた子、そしてまさに主人公本人も含め、

あの島の子供はヒトデの再生能力、分裂から生まれた親を持たない子である。

つまり何かの分裂体でありコピーである。

 

失われた父性。

それなしで済まされるなら、そうしたい全て。

恐らく複製とグロテスクとは似ている。

アンディ・ウォーホルが行った複製によるグロテスク、表と裏の反転はそういった類のものである。 

根源があるという幻想と根源がないという幻想は、世界は連続的であるか非連続的であるかというものと同じである。

 

エヴォリューションの語源はラテン語の"evolve"「外に開く」であり、この「開く」はこの映画に多く現れる。開かれる腹、開かれる主人公の眼、眼前に開かれる文明世界。

 

開くというのは無論閉じられていなければ開かれない。

開かれていなければ閉じることができない。

あの島は閉じられているように映り、あの文明世界が開かれているように見えるのであれば、我々の眼はすでに閉じられているに等しい。

 

我々観客は主人公と同じように海の上のボートから眺めるのように、

閉じられた映画館の中で彼岸であるこの映画を観ることしかできない。

しかしもう間もなくこのボートは彼岸であるこの島に到達してしまうのではないだろうか。視点が違うだけで主人公と同じボートに乗っていることに変わりはない。

 

ヒトデと同じようにこの血液も世界を通して私の血として今も流れている。

どれだけの人の血が混じっているのだろうか。

このうようにどちらの世界がグロテスクでどちらの世界がイノセントかという問いは意味をなさない。あらゆる過剰の中で根源を失い、内部は外部となってすべてが晒されたとき、まさにこのことによって形成された内部は、恐らくもう何も愛すことなどできない。まるで反転性裂体のようだ。

サルバドール・ダリ

絵画

 

昨日はダリ展に行ってきた。

ダリは1926年にダリになる。

 

最初に断っておくと僕は美術について、絵画について、何かの知識を持っているわけでも、絵を描くこともできない。

 

 ダリがダリになった。

僕がそう感じたのは「巻き髪の少女」というタイトルの絵を見たときだった。

1926年に描かれたこの絵からダリの絵は明らかに立体的になる。

今回のダリ展で壁に掛けられた絵を順番に追っていく。

すると、この絵が突如現れた。

極端に背景と物体が切り離されている。

背景と物体が似つかわしくない、溶け合っていないというわけではないのであるが。

 

ダリがダリらしいのは背景と対象物である物体との境界線、物体と物体の境界線にあると思う。

はっきりとそれらが切り離されている。

別々に書かれた絵をうまく切り貼りしているように見える。

 

ダリは「一つの絵」という印象よりも対象物をそれぞれに配置しなおし、それをそれとしてそのままにしておく。そしてそれらを結合した時に「一つの絵」となっている。

 

アンリ・ベルクソンは我々は何かを認識するとき、その何のある部分を順番に認識することしかできないということに苛立っていた。つまり、全体としてそれをそれとして、そのままに認識することができないということに。ベルクソンは分割不可能なものとして音楽のメロディーというものを参照する。分割不可能なものとして。音楽のメロディーというものはそれを分解してみても音としてあるだけで、メロディーの意味を取り出すことができない。何かのメロディーを思い浮かべるとき、時間の力を借りなければ、つまり順番にメロディーを辿るのでなければメロディーを認識することはできない。メロディーはある部分から部分の流れとして、認識するのでなければそれはただの音に過ぎない。

音楽家というのはよくこの落とし穴にはまってしまう。

 

そういった意味で言えば、ダリはメロディーとは真逆の絵を描く人である。

ダリは対象を一つとして捕らえることを人間ができないということをよく知っている。

ダリの絵は他の絵画よりも絵を分解している。ダリの絵を視るとき、全体を捉えるというよりも、それを一つ一つ細かな部分を別々に視ることを要求する。

ダリの絵を「一つの絵」として、つまり全体として捕らえることはとても難しい。

何かがあって何かがあるからこれがある。というような論理的作用を常に解除する。

 

1923年の「キュピズム風の自画像」なども確かにシュールレアリスムとしての機能を十分に果たしているとても素晴らしい絵である。音楽で言えば「ノイズ音楽」として君臨している。しかし、それは抽象の域をでることがない。

 

「巻き髪少女」についてもう少し、述べるならば、巻き髪の少女の郷愁である。

あの絵を見たとき、旅に出る少女が最後に故郷を振り返った瞬間だろうか。

ある種の故郷との決別。連結の解除。そういった意味でもこの絵は、ダリがダリである境界線となっていると思う。

 

もう一つ、ダリ展で感じたことは、澄んだ青空のことである。

ダリはよく青空を描く。

あの青空だけを見ればとてもきれいで純粋な印象を受ける。

しかし、ダリはそこに奇妙な連結の失敗のような対象物をそこに配置することによって、一挙に不気味さに変わる。不気味なほどに住んでいる青空。

あの青空と対象物は乖離し、その乖離が僕らにより不気味な印象を与える。

一種の葛藤として現れる。その時、あらゆる物体を繋ぎ止めていたものが解除され、分離されてゆく。しかしこれらを尚も「一つの絵」として繋ぎ止めているのは、絵の色調である。ダリは色調のみで、これらをぎりぎりで繋ぎ止めている。”不気味”というのはなにも暗い色、暗いイメージだけからなるのではない。一般的に不気味さやホラーというものは暗がりの中から現るのではあるが、それは一つの一般的イメージにすぎない。これが多数である。しかし、それとは反対に白からなる不気味さ、というものがある。なかなかそういったものに出くわすくとがないので、僕らはよくそれを忘れている。それだけにダリの絵はより一層不気味なものとして目の前に立ちはだかる。

 

僕が思う優れている作品というのは、圧倒的な絶望のなかで、崖の淵で、追い込まれていることをわかっているのに、それでもなお笑っているような作者が見えたときである。

 

ダリは明らかに「連結への解除」を欲している。

「繋がっていること」を拒絶している。

しかし、本当はどんな分離も我々に一つの意味として、そこに確かにあらざるを得ない。

ダリはそういった連鎖の解除をしても、どうしても連鎖するこの現実に、

絶望の中で笑っているのである。

 

そういえば、Cocteau Twinsの「Bluebeard」という曲はダリの描く青空に似ている。

タイトルBluebeard、青い口髭。

 

 

www.youtube.com

2016-8-29

哲学

 

存在者は忘却<埋葬-再生>を根源に生きている。生きることは皮膚を垢で隠し皮膚に亀裂を入れ、日々自己を埋葬-再生することでしかない。再生は埋葬のエネルゲイアとして、埋葬は再生のデュナミスとして、或いは埋葬は再生のエネルゲイアとして、再生は埋葬のデュナミスとして。

忘却の埋葬性は能動的受動的を超えて常に存在者に纏わり付いている。エネルゲイアは引き受けがたいこのデュナミスをなお引き受けざるを得ない。

 

果たしてデュナミスとエネルゲイアはどう区別するのか。何が区別するのか。

 

存在者の自由は予測があくまでもデュナミス-エネルゲイアに留まることにしかない。それは死をもってしても同じことである。神に予測は存在しない。予測すらエンテレケイアとして常に充足している。神は常にエンテレケイアとしてしか在ることが出来ない。

 

メモ

極限的に作家の野望は作品から作家自身を消し去ること。更に意味以前のものとして、巨大な地図のようにいかようにも取れる可能性を露出させること、無限の情報として読者の目の前に提示したとき、もう一つの現実として読者は読解作業を始める。或いは世界の横に世界を置くこと。現実的というのはある意味では無限の情報(現実的意味以前)を世界の傍らに置くこと。

 

デュナミス-エネルゲイアの境界は消え去る。

 

さりとて、またしても再生される。

鞄 / 安部公房

短編

安部公房の「鞄」という作品がある。

 

僕が当時高校生の頃に授業で触れ、今も心の中にその鞄は置かれている。もしかすると僕は鞄の中にいるのかもしれない。

僕はこの作品に出会うまで、まるで本というものに興味を持つことができず、感想というものを持つことができないでいた。何よりも朝の読書習慣というものが苦手で、何を読んでも次から次へと頭から出ていき、内容を理解できず、苦痛でしかなかった。

けれども読書というのは、読み飛ばしてもよくて、目で追うだけでも実は構わないのだ。感想なんて無理して抱くものでもない。

校長先生の長い話と同じように読み飛ばしても、届かなくても構わない。

それは校長先生の経験と学生の経験との差異だ。差異がなければ苦悩も感動もない。

人はそれぞれそれなりに、何かに感動できない代わりに何かに感動できる。

 

新潮文庫にて「笑う月」という短編集の中にこれから取り上げる「鞄」という作品が収められているので、是非とも手に取って触れていただければと思う。

500円ほど出せば買えるものです。

 

あらすじについてはここで触れるつもりはありませんが、

僕なりにこの作品について少しばかりの回答を。

 

安部公房 「鞄」

鞄は、環境であり、世界であり、自己自身である。そして鞄の中身は外から、つまり自分の目線が届かないところにある。それを持って歩くという無意識的な習慣や癖のようなものが、鞄から意識を遠ざけている。己の習慣や癖を意識するあまり、世界と関わっているということから意識が遠ざかっている。己の癖や習慣に気を取られると歩くことが不自然に感じたり難しくなることに似ている。癖や習慣は選択の前に存在している最も近いものだ。無意識の内に発揮できる存在者の力量といってもよい。

癖や習慣は現在の自分の限界であり、ある意味で世界の限界である。

人間は他者と対峙することでしか、己の筋力の限界と向き合うことがない。他者との対峙をなくして、自分の鞄の中身(癖・習慣)が自らの意識に開かれることはない。そもそも鞄を持って歩くということは、外へ外出するときである。これは他者と対峙するために無意識に自らの限界と世界の限界を鞄の中に押し込めている。

自らの限界と世界の限界は、自らの筋力の限界と同じことを示している。

何を持たなければいけないのか、何を持たなくてよいのか、という習慣や癖の見直し(世界の再考と自らの再考)は、どちらにしても自らの筋力と世界の限界を前にして、再考を迫れられる。

だいたいの人はどこへ行くにも毎日同じものを鞄の中に詰めて外に出る。

筋力の限界は鞄の中身に決定されており、鞄を持って歩くということはその限界内で世界を歩くということである。歩ける範囲というものも鞄に決定されている。

 

 

自分でももはや何を書いているのかわからなくなってきたというのが正直なところである。しかし何かしらの鞄(手ぶらでも同じことです)を持って、世界を歩いている。

 

この「鞄」を読んで最初に思ったことを話すと、非選択の選択の強度とでもいえばよいのだろうか。僕は当時から選ぶことにとても疲れ果てていたように思う。というよりも鞄の中に何かを詰めるのを恐れていた。選ぶことを。また選ぶ偏向性、つまり癖や習慣を晒すことを恐れていた。

しかし、恐れるも何もそんなことの以前に存在者は世界に在るということによって晒されている。鞄の中身は鞄を持つ私によって世界に既に開かれている。しかし、私にはそれを持っている意味がわかることがない。他者との関係を生まれた時から獲得している、あるいは獲得してしまっている。この獲得してしまっているというのは、在ることの前提条件でもある。私の生誕は私が何一つ選んでないところに根源を有している。しかし既に獲得してしまっているがゆえに何がしかを受け取ることができるのも事実なのである。存在者の自由は先ず、既にして在ることが与えられているということにある。

人間の自由はこんなところにあったのだろうか、僕はこの鞄の主がうらやましかったのだ。そして何か救われたような気がしたのだ。僕らは少し先のことが想定したように実際に起こるかということが、どちらに転ぶにせよ常に隠されている。限りなく0%だろうと。限りなく100%だろうと。そういった意味で僕らは神と異なっている。

 

 

この番組の中で、アナウンサーが「自分と他との関係、、」といったとき安部公房は「ですね」と言った後に「自分とというか、他者というのは何かということ」と訂正した。安部公房がここで意識していたのは何なのか、ということを暫くの間、僕は考えていた。何故、”自分”という言葉を外したのか。環境世界によっていわば作られたのが自分という存在者なのであれば、私が私という存在者にこだわることに何の意味もないのかもしれない。それは私が作り出した私である前に、環境世界が作り出した、私なのだから。私の存在はまずもって、私が世界にあるからこそ私はようやく在る。それは現在も他者(世界)との”関係”に引きずり続けられている。それでも我々はこの存在者を他者と区別して”私”と呼んでいる。しかし、私と呼ぶという必要があるということは呼びかけに「応える”私”」を想定している。

他者の中で他者を見出した時、僕という存在者がようやく姿を現すのかもしれない。それも私の中に現れるのではなく、他者の中にしか現れないようなある何か。鞄を持つ者は自分の鞄の中身を見ることで己を理解するのではない。むしろそんなことは邪魔でしかなく、「他者との通路の回復」は、他性から他性へ送り返すことによってしかなしえないのかもしれない。むしろそういうった風にしか本来は存在していない。自分という存在者は自分の意識の中に十分な私が存在しないことによってどこまでも変化の可能性を持っているのかもしれない。未だにやってこないという意味で。他者へ他者として送り返すこと。倫理。没我の地平。

 

このように25年間生きても当然のようにわからないこの安部公房の「鞄」という「無限の情報」は、当時と変わることなく僕の中で重大な事件として在る。

安部公房自身も自身の作品の大意はわからないように、意味よりも前に”在る”というこのことは、”無限の地図”として目の前に今も変わらず横たわっている。

 

「私は嫌になるほど自由だった。」としか言いようがない。

POPミュージック

音楽

明らかに素晴らしい。

この曲の何が素晴らしいかというと、跳躍だ。

跳ねる。水面を壊さないように力いっぱい跳ねる。

なぜ跳躍はこんなにも哀しいのか。

 

ショパン英雄ポロネーズ

 

 

POPミュージックという概念。

大衆音楽はまさに大衆の面前に立つ前に壮絶な孤独を有しているからこそ、大衆に届くという意味で、大衆音楽であると僕は信じている。

僕はそれをPOPと呼ぶ。

ただ水面を壊して跳ねているだけの音楽は大衆の前に言葉を持たない。

そんなものは少し聞けばわかることだと思うのであるが。

現状を鑑みると案外そうでもないらしい。

しかし、確実にそれを反転させるような音楽は常に生まれている。

耳を傾けなければならない。