日常性5

時間が実在するとは思えないですね。

時間なんかただの錯覚ですよ。

日常性4

 

仕事は順調といえば順調。休み、先日某お手伝いをしましたが、あまり役に立てなかったような気がします。楽しかったことを幾つか伝えたけれど、何よりも会えたのが一番うれしかったのだ。それだけで。最近はあまり本を読んでいません。岩波文庫からフォイエルバッハの『将来の哲学の根本問題』が出ていたので買いました。時枝誠記の『国語学史』も出ていましたが、見送りました。今月はたくさん買い物をしました。机。焦げ茶色の。白い本のページが映えるので、とても気に入っています。黒でもよいのですが、やっぱり机は木製の焦げ茶色のものがよいです。黒は少しあたたかくないので。日の光で焼けたり、擦れて薄くならないようにコーティングのようなものを施した方がよさそうだな、という感じですがまだ検討中です。組み立てるのは結構大変でしたが、プラモデルを作っているみたいな感覚で楽しかったです。とてもよくできました。使っていた机の幅が80cmだったのですが、本を置いたりパソコンを置いたりするとすぐに沢山になってしまうので不便をしていました。新しい机は100cmあるので快適です。欲を言うと120cmくらいあると便利かもしれません。椅子も買いました。8年くらい使っていたのですが背もたれが壊れてしまったので。それとコートを買ったり、スーツを買ったり、リュックを買ったり。なんでこんなに買い物してるのか。寂しいのかもしれない。くだらない。僕は幸せになるべき人間でもないし、そうあってはいけないのだ。幸せも不幸もどうだっていい。全てはあるべきところに収斂する。ただそれだけ。友人がランダム性のつまり、偶然性の話を、カオスがあるというようなことを話してくれましたが、それは少し違うと思っています。実験のし過ぎ、精度が低いだけに過ぎないと僕は思います。僕の哲学的命題はとっくに終わっていたのだと思う。結論を覆すものは何もないと思っています。このことに気づいたときにはもう終わっていた。あとは都合のいいようにつぎはぎして自分の論を固めていくものに過ぎなかった。何もなかった。そんなのは4年も前からわかっていた。何を読んでも変わらないだろうという確信がある。久々に家にあったル・クレジオの『物質的恍惚』を開くと黄色い線が引かれていた。自分が4年前に引いた線。

 

 

ぼくが存在しているのは、何百万もの人々がぼくのまわりに存在し、かつて存在した―これからやって来ようとする者たちのことはさておき―からにすぎない。そのことは観念というようなものではない。現実の一片、現実の単なる一片なのだ。彼らにこそぼくはすべてを、文字通りすべてを負っている。ぼくの名、ぼくの住所、ぼくの鼻、ぼくの皮膚、ぼくの髪の色、ぼくの生命と最も秘かな思考、ぼくの夢、そしてぼくの死の場所と時間さえも。     

                                『物質的恍惚 』/ ル・クレジオ

 

 

何を感じ、どう思うか、楽しいと思ったり、悲しいと思ったり、どうだっていいと思うことすらも、何も思わないことすらも、これを今こう書くことも、正しかろうが正しくなかろうが、全てはこの現在がやってくる前に既に終わっている。人生なんかどうだっていい。ただ、僕以外の全ての人生が幸せであればよいと思っている。

 

日常性3

 

昨日からコップの一部とコップの周りの空間を合わせた共通部分の集合に名前がない(存在者)と呼べないのに不思議を感じている。あれを書いてから疲労が凄い。ここにアップロードしてから酷い腹痛がやってきて、「ああ、神、、、」になり、顔も真っ青になりながら、床に這いつくばったりして、狼狽えていました。あれくらいのものを書くにも僕には労力がいるのだ。情けないことに。気付いたら午前3時とっくにを回っており、朝起きたけど身体の怠さが限界を越えており無理だったので休みをいただくという、意味のわからなさでした。昨日のは何日か寝かせておいたものを修正したりなんなりしていたのですが、何か欠けているところがあり、少し過剰だったところがあったりしたので、先ほど少し修正しましたが、大意は変わりません。相当のあれをもって書いたのですが、如何せん自分でもあまり定まっていたものでもないので(とはいえ、ここ最近ではかなりの自身作です)、全く疲れてしまった。引用って難しい。引き剥がさずに引き剥がすこと。僕には出来なかったように思えます。ウサギのツノ。兎に角、仕事に行きたくない。ありとあらゆることは変わっていくのに仕事に行きたくないことだけは変わらないって、僕のそんな意志の固さよ、ほかのとこに使ってくれ。労働に向いていない(では、何かに向いているんですか)といわれると、何にも向いてないので僕は余裕で出来ることしかしたくない。僕はアスファルトの上ですらまともに歩くことが出来ないようです。そういえば、夜の空に対して、「晴れている」と、あまり言われないのは少し悲しいことのように思われます。開花した桜の樹だけが"桜"としてちやほやされているのを見るのに似ています。土曜、日曜に雨が多くて参っています。でも、毎日が楽しかったら、何曜日が雨だろうと、「雨が降っている」ことにイライラしたりすることもないのに。心に雨が降っているとき、世界が雨でも、

 

Hallelujah / THE NOVEMBERS

 

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Sortie de l’existence

神は予め世界から退去していなければならない。

 

ブランショの『終わりなき対話Ⅱ』において、語られるシモーヌ・ヴェイユは『重力と恩寵』からの引用は殆どなく、『カイエ4』、『神を待ち望む』が大半を占めている。ブランショヴェイユを語るのは、この『終わりなき対話II』の『4.断片(欲望・不幸)』にあるように、キリスト教的解釈、または宗教的解釈から、神秘的なものから、引きはがすことを目的としている。つまり、宗教でもなく思想でもない、世界そのもの、存在そのもの様相が語られていると考えてよい。それはこの二人(ブランショヴェイユ)がどんなに神の名、または宗教的用語を使って語ろうともそれはそうなのである。

 

「この瞬間から神はもう何もする必要がない。私たちも同じだ。ただ待つこと以外に。」というヴェイユのこの言葉について、ブランショは「ここですら、シモーヌ・ヴェイユが可能なかぎり神の特別な介入をなくすようにしていることが見て取れる。神への不可能な接近を可能にするために、神の影響をなしで済ませようとしていた。それは人間の力に過度の信頼を寄せていたからではない。正反対である。」といっている。ブランショは続けて「機械的必然性が支配し絶対的に神を欠いている世界が、この空虚自体の純粋さによって神の本質にもっとも近いものであるのと同じように、私たちのなかで自然であるものは、私たちがその重みに耐えることに同意するかぎり、超自然に反転する準備がいつでもできている。」ここでブランショが用いている”機械的必然性”という言葉は、ヴェイユに沿って、"神の介入なしで”世界の様相、存在者の様相つまり存在それ自身を語ること、因果性について語っている。ここで私は『重力と恩寵』における、冒頭を引用したいと思う。

 

たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外されている。

 【重力と恩寵 / シモーヌ・ヴェイユ

 

”恩寵だけが、そこから除外される”と言っているときのヴェイユは多分存在者の側から話している。その上の「たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている」は世界そのものの既決定性から話されている。この重力の既決定性の上でなお、恩寵があり得るのは、というのも変な言い方ではあるが、未だ到来していないという、予持の現在の未達・誤配、予持がいつまでも作動し続けるためである。また、ブランショが『13.時代の変化について』の中で、ニーチェを引用し、「私は未来についての”不確実性”を愛する。」「私は未来についての無知を愛する。」「最高度の欠如の力へと差し出された来たるべきもの《l’à-venir》があるのだから。」の現在における非到来性に見ることもできる。次の現在への予感が存在者に既にある。それは、「無知へのこうした欲望にとって、無知は自らを欲望とする。この欲望は忘却が迎え入れる期待であり、期待がそのなかに入り込むところの忘却である。永遠の円環[annulus æternitatis]「<すべて>が回帰する」ことへの欲望は、それだけで、始まりも終わりもなしに、欲望を回帰させる。」

『6.ニヒリズムについての考察』の中で、”不確実性”を正しく解釈しなければならない。「偶然に左右される予測不可能なもの[alétoire](ただし、偶発的なもの[fortuit]ではないもの)」の[alétoire]として読むべきである。重力の上でなお存在者は未だ恩寵の到来[alétoire]がある。この世界にあるものは [alétoire]であり、[fortuit]ではない。ヴェイユの「重力 ― 一般的に言って、わたしたちが他人に期待するものは、わたしたちの中に動く重力の借用によって決められる。また、わたしたちが他人から受けるのは、他人の中に働く重力の作用によって決められる。ときにはこれが(偶然に)一致することがあるが、多くの場合一致しない。」における”偶然”は、[alétoire]の意味においてある。9.限界-経験において、ブランショバタイユを参照し、終わっていることの”可能性”が論じられるのは[alétoire]のうちでの出来事である。粒子への解体とでもいうべきバタイユの存在者の棄却。バタイユが限界に向かって思考するとき、ヴェイユと出会うのはこの点である。このときヴェイユのなかで何によって駆動しているのか。”多くの場合一致しない”によってである。バタイユが非-知によって駆動するのと同じくヴェイユも同様に、この欠如によって駆動する。何故この欠如があるのか。

 

 

神は神としてのその全能を放棄したし、自らを空にした。私たち人間のささやかな力を放棄することによって、私たちは空虚のなかで神と等しくなる。

 

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

神は一個の存在者であることを放棄したのである。ここでヴェイユの神の概念について、ヴェイユを引用しつつ、イツハク・ルリア(イサク・ルリア)の神の世界からの退去を語っているとブランショは言う。「事実、十六世紀の聖人かつ深遠な思想家であるイツハク・ルリア(その影響は大であったと誰もが知っている)こそが、昔のカバラの考え(「ツィムツーム」)を解釈しながら、創造に神の捨て去る行為を認めたのである。…神は創造しながら何かよけいなものを置くのではなく、まずは何かを不足させるのだ。無限の<存在>は必然的に全体である。世界が存在するためには、無限の<存在>は全体であることをやめて、世界に場所をあけなければならない。それは後退や退却の動きを通してであり、「いわば自身の内側のひとつの領域、一種の神秘的な空間を捨て去ることによってである。」言いかえれば、創造の本質的問題は、無の問題なのだ。…..それは犠牲、収縮、制限によるものであり、自分である全体から退去すること、消失するとは言わないまでも自分を消し去り、不在のものとすることについての、神秘的な同意によるものなのだ。(まるで世界の創造や世界の存在が神から神を立ち退かせ、神を神の欠如にし、それゆえ派生したものとして一種の存在論的な無神論が生じるかのようである。この無神論は世界それ自体とともにしか廃棄されることはできないであろう。世界があるところでは、痛ましくも神の欠如があるのだ。)」

 

仮に”この世界”に神があるとすれば、それは存在の全体性<必然>にしかないだろうと思われる。これはアリストテレスのいう”不動の動者”に近い。歴史の中で”不動の動者”は”存在”という語に置き換えられた。神の外としての”外立”、”実存”(エクゼステンティア)を成すものとしての”存在”として。よってそれはただ”ある”のである。この地点で存在それ自身は最早肯定するとか否定するとかいう次元にあるのではない。ブランショが13.時代の変化について-回帰の要請-で語ったことは、このような存在者の状況になおも「唯一のひび割れである。”けっして”」に既に投じられ続けているという状況にある。この切断。無が射し込むこと、時間の切断、としての幻影が現れる。そして存在者はこの幻影から出ることがない。例えば、それが幻影だと知ったところで、その幻影を排除することができないように。病気の原因がわかっても病気が完治することとは遠く隔たっているように。神は不動の動者として世界として臨在しているのであって、神自らの退去によってもたらされた空間を埋める。神はなんらかの存在者であること、一個の人格を断念したが故に神なのである。その神の欠如は人間における神の不可視性によって保たれる、あるいは神と人間の断絶において、存在者の未だ到来しないものとしての来るべきものとして、神が現象するのである。ここで私はマリオンが存在に先行するものとしての「呼び求め」を提出したときと殆ど同じものを見ているだろうか。声を聴くもの、「不意を突かれる者」として。私はすでに呼び求めによって私を”「“私を”の地位に任命されている者」としての存在者である。存在を可能にするものとしての「呼び求め」を聞く者。存在者とは存在の出口(Sortie de l’existence)に召喚されたものに他ならない。つまり、出口の途中に介入できないもの。声の中に戻ることを禁止されているものとして人間とは非力なのである。そしてこの存在と存在者の隔たりの中に意味が介入するのである。なぜか。存在とは”無“ではない。存在の上に”無”というベールが被さっているがゆえに”不可視に既に在るもの”はつまり、欠如として既に到来している。

 

【問い】

 

存在者と存在を自明のように区別しているが一体何が自明なのだろうか。これは長い間、「存在論的差異」と呼ばれるているものである。そしてこれらは一貫して現在に至るまで「存在の問い」から放たれている矢である。何かがある。であれば、何かがあることの原因がなければならない。それが”存在”というただ一言で受け継がれてきたことである。存在者。これは現在において、何かがあるというときそれは名指しによって存在者として任命される。しかし、名指される前からそれは在るのである。例えば、眼の前にあるコップがある。このコップは3秒前もコップである。無論、このコップが作られたときから変わらずに(傷などの損傷はおいておくとして)コップである。さらに3秒前のコップ(存在者)は、現在のコップにとっての存在の一要素であるだろう。であるならば、コップは存在者でありつつ、存在でなければならない。コップでありつつ、既にコップであるにも関わらず、コップにならなければいけないもの。つまり、時間概念の導入によって、というよりは認識によってのみ、存在と存在者とは区別され得るだけである。「"コップ(存在者)"が"ある(存在)"」の”ある”が存在であるならばそれは名指すこと(留めること)で、つまり名指すことが存在から存在者を区別するのではないだろうか。物体だからわかりやすいという意味でそうしているだけであり、コップからそれを区別するものなどそもそも存在しないのではないのか。“存在”が、それがそうであるようにしている全てのこと、であるならば、その全てを”存在者”、ということも可能であるはずである。しかし、我々はそれを一個の何かとして保存することが出来ない。というよりは挙げるときりがない存在の存在性たちは、現在においてすら、その存在者と、何は関係があって、何が関係がないのか、の判断(裁断)は殆ど不可能であり、そうしたその都度の命名(すべてを命名すること)はすべてを差異化することで、全くの非-意味的な記号にすぎないからである。つまり存在者の前に存在があるということを一旦おいておくとしても、存在/存在者の区分というものが在り得るのは現存在の規定によるものではないのだろうか。つまり認識が現在に依存せざるを得ないのと同様に、認識とは存在者を任命するための亀裂を入れるための道具であるように。従って、全てはどちらかである。存在しかこの世界に存在しないか、それとも存在者しか存在しないのか、である。そしてこれはどちらも同じことを指しているに過ぎない。おそらく断言しなければならない。世界にあるものは、時間と空間による生成変化だけであり、それをその都度捉えて、何らかの意味を介入させ、なんらかの法則を見出し、愛という言葉で語られるそれらは、全て、存在なき存在の戯れであると。そして人間だけがそこに何等かの意味を見出す(してしまう)のだと。神が消し去ったものがあるとするならば、人間において、病にでもかからないかぎり、意味が消えうせることが絶対にないということである。それは死はこの生の中にない。という意味で、死が特権的な地位をもたないものである。我々は終わりなき駆動する記憶である。

 

「存在の出口(Sortie de l’existence)に召喚されたもの」としての存在者は一体誰に、召喚されたのか。先ほどのコップの例を取るならば、その都度召喚しているのはこの私に他ならない。そして、現存在は誰によって、呼び出されているのか。これも同様に私、ということになるだろうか。そうではない。私は私自身、何ものかによって呼び出されているのである。全てはそう名指すように既に呼び出されているのである。その時この呼び求めは最も高貴な神性として現れる。この声は一体誰の声か。

マリオンが存在/存在者に先行するものを見たものと同じものを見たと言ってもよいだろうか。贈与。愛。存在に先行する「呼び求め」。或いは、

 

ヴェイユに戻ることにしよう。 

ブランショが引用した、ヴェイユの言葉とその先の少し。

 

 

「完全に神を欠いたものとしての世界は、神自身である」

 

重力と恩寵 /シモーヌ・ヴェイユ

 

 

「捨て去ることで神は私たちと別れるのだが、この捨て去りは私たちを愛撫する神のやり方である。私たちの唯一の悲惨である時間は、神の手からなる接触そのものである。それは神が私たちを存在させる放棄である。」

 

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

 

神はわたしを存在の外見をまとった非存在として創造した。自分の存在だと思いこんでいるものを愛によって放棄し、わたしが虚無から抜けでることができるためである。

そのとき、もはや「わたし」はない。「わたし」は虚無に属している。しかしそのことを知る権利はわたしにはない。もしわたしが知っているなら、放棄する意味すらなくなるだろうからだ。わたしはついぞ知ることはないだろう。

他のひとびともまたかれら自身にとっては存在の幻影でしかない。

このように考えることは、人びとの存在の実在性を損なうどころか強めるのである。なぜなら、かれらを彼ら自身とのかかわりでみているのであって、わたしとのかかわりでみているのではないからである。

 

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

日常性2

 

サルトルの『存在と無』をパラパラとめくる。これを前にして、なお何か言うべきことなどあるだろうか。僕の考察はこの本の手前で座礁するのではないかという恐れ。これを読んだあとに何が残るというのだろうか。この感覚はマリオンの『還元と贈与』を読んだ時の感覚と同じだ。もうそれ以上先を読みたくないほどの鮮明さを持って、僕の前に立ちはだかった。これらの敗北を感じているというこのことは、ただ僕が哲学に詳しい人、哲学の学をやる人、博物学的な平易さであることを拒絶していることの証左になる。でなければ敗北など感じるはずがない。初めから無謀な賭けだったことはわかっていたし、わかっていたつもりだった。言葉が消え去ろうとしている。なおこの後に語るべきことがあるだろうか。誰かが、あなたは正しかったと言ってくれるまでは、私は語り続けなければならない。どのようにかして終わらせなければならない。だからもっと大きな問を呼び込まなければならない。僕には現状それが何なのか、わからない。それは一つの無知を呼び込むこと。でなければ書くことなど可能であるはずがない。しかし、およそどちらも思い上がりであり、欺瞞ではないか。わかったと思うこともわからないと思うことも。幸福であると思うこと不幸であると思うことも。すべては連続性の一断面にすぎない。だが、サルトルのいうように、連続性に無が射しこんでいる。「自由の刑に処せられている」とはそういう意味である。処刑の中にしか自由はない。つまり、結局のところそれすらも連続性の中の出来事に過ぎない。ただ知らないのだ。現存在は世界に解消され得ないとはこういう意味なのだろうか?未だ僕は決定論の中にいる。読解の才能の問題なのかもしれない。僕にはその才能がない。僕はこの円環から出ることはないだろうという確信がある。誰一人として、この連続性の中で純粋に孤独である人間など存在しない。故に人間に純粋な優劣などありはしない。誰一人として純粋意志を持っている人間など存在しない。わからない。すべてはどうでもいい。欺瞞だ。初めから言うべきことなどありはしない。この射し込む無が消えてくれたならどんなによいだろうか。

 

ひとまずの課題として、昨日の件を解消すること。マリオンのいうフッサールの論理学研究におけるデリダハイデガーの視線の差異。つまり、第一研究と第六研究との差異を精読すること。ひとまず、論理学研究の1~4はすべて手元に揃った。そして『存在と無』を。

 

ブランショが"光"に対し、こんな視線を投げかけている。

 

おそらく光そのもののうちにこそニヒリズムは身を隠しているからだ。光は照明する、ということはつまり光は自らを隠すという意味であり、そこにこそ光の皮肉めいた特徴がある。光は照明する。照明されるものはひとつの直接的=無媒介的な現前性のうちに提示されるのだが、そういう直接的現前性は自分を明白に表示する(マニフェステ)するものを[覆いを取って]あらわにすることなしに、自らをあらわにすることなしに、自らをあらわにする。光は自らの痕跡を消してしまう。見えないものである光は、見えるようにする。光はダイレクトな認識を保証し、充満した現前性を確かなものとするのだが、その一方で、光は自信をダイレクトならざるもののうちへと引き下げ、自分を現前性としては廃棄してしまう。それゆえ光の行う欺瞞は、ある種の不在、つまり輝きを放つ不在のうちへと隠れることだろう。この輝きを放つ不在はどんな暗さよりもはるかにいっそう暗いものである。

 

光が見えることなどありはしない。存在とは光であり、不可視であるという意味で無であるところの全連続性である。

題未定_状況_10_29_2017

 

<前>

 

未だ書いたときの時系列ではあるが、さっと眼を通し、不要であると思われた部分を81番目の備忘録から削った。

 

同じものへ向かって書いたつもりである。私が述べたいことは一つしかない。それが要請であり、限界だった。存在者の消滅に向かって書かれた。というより、"私"は既に消滅していることの証明に向かって。もっといえば、全ては既に終わっていると。ただ、全ては未だ到来しないに過ぎないというだけのために。これがどのように閉じられるのかはわからない。なによりもこの円環はすでに既に閉じられているのだ。これは 恐らく一つの流行でしかない。私が考えてきたことであると同時にそれはつまり私以外の存在が考えたことである。飽く迄もこれは備忘録に過ぎないということを断っておく。書いた時期がバラバラなので論理的整合性などというものは一切ないと思ってもらってよい。すべての私の哲学的考察に関しては、最終的にこの論考に収斂することになる。いつこのタイトルを付した論考が、終わるのかは私自身にもわからない。誰かがこれを終わらせてくれることを祈っている。 いずれにせよすべては自由意志と決定論の問いの狭間で書かれたものである。ある意味で実存を元の本来の位置に戻す試みになるかもしれない。

 

<本>

何らかの意志とは、環境世界つまり客体によって、存在者に到来し、自己に回帰する形で漸く意思することが可能となるある意識である。意志はひとりでに歩き出し、意志するというところのものではない。意志は環境世界に絶えず揺るがされている。意志の反復は自己が意識的に反復することだけでは、意志はその時の力を持続すること、或は意志を増大し続けることはできない。私は決断することをそして覚悟することを放棄する。尤も決断や覚悟を放棄するのではない。私はこれらをすることを放棄する。私はこれらをするまでもなく既に備えている。そしてこれらを終えているのだ。私は事象に対して覚悟するまでもなく、覚悟するような形で既に覚悟している。何かをするというこのことは、この覚悟によるものでしかあり得ない。或る事象に於ける覚悟について、”覚悟”というのは形成物(過去完了)であり、瞬間的現在の手に負えるものではない。このある事象への覚悟が発見されるのは事象のあとにある。現在または事象とは過去の堆積として未来から将来する形で現前する。事象は事象する前から既に事象へのエネルゲイアを備えている。 過去及び未来が“表象=代理”として、意識にルプレザンタシオン(再=現前化)する。つまり、現在はルプレザンタシオンとしての現在でしかないのではないか。事象の経験は"私"は"私"を一度貫通することで”私”は経験する。※後者の”私”はルプレザンタシオン=表象=代理としての”私”のことではない※前者の”私”は世界(環境世界)を含んでいる。後者は主語としての”私”である。※”私”は環境世界を完全に度外視することはできない。意識において純粋な自由(矛盾)がないのと同じように。つまり、どちらにせよ、"私"はむしろ環境世界に従属している。安部公房の言った「他者との関係の回復はあり得るのか。」これは別に他者との仲直りというような話ではなく、他者という概念或いは他者一般との和解、または世界との和解と言っても差し支えない。球体への修復の意志である。他者とは私の中に形成されてゆく他者である。 待つということは或る完了、其の地点までの不明瞭な時間であり、同時に待つということは期待するという事を含んでいるように思われる。その完了までには幾つかの可能性が存在している。可能性其のものが、未だ完了していないものが、確かに存在している。非存在の存在である。或は未存在と云ってもよいのかもしれない。私はこの非存在の存在を私の中に既に構築しているのである。欠如体。私は十全な意味でのあなた(最早そんなものはありはしないのではないか)、または主語としての他者と会話することは不可能である。客体的存在を解体し、再構築したものと会話しているのである。つまり話せば話すほど私は再構築したものと話すことになる。最早原型を留めていない他者である。他者との交流とは本来的他者から遠ざかるものでしかないのではないか。これは存在と存在の「凝結体=関係」の構築である。結局のところ現在のみが私の意志の通用する範囲であるが、先程述べたようにこの私の意志というのは、私が過去に受けてきたすべての経験と遺伝子を含む環世界、現在または未来の非到来、非知によるものでしかない。厳密に私は突如、意志することなどできない。環境世界であり過去という既に終わったものがそれを決定しているに過ぎない。人間の意志とはそういう様相なのである。世界は可能性が現在に可能し続け終えている。可能が進行している。この可能性というのは過去が未来から将来する形で現在している。これを私は世界のルプレザンタシオン性と呼ぶことにする。この世界の森羅万象は準現前化としての世界でしかない。過去が将来する形で現在するとはどういうことか。車が走っているということは既にその前方の空間を占拠するというエネルギーを備えつつ走行している。その前方の空間は車が通過するということを既に許している。これが開示体である。車とこの空間、そして時間は常にお互いを許し、開示し存在している。超自然、超現実は、全く自然なものが一切ない、或いは現実的なものが一切ないということでは決してない、それは自然的や現実的な要素を必ず含んでいる。我々の意思というのは既に経験している環境世界という範囲の中で思考することしかできない。何かに対する志は、実際にそれを行動する或いは、それを持続させるには今までの経験に大きく左右されている。この経験を世界といってもよい。私が一つの集合地点として意思しているに過ぎない。0と1の間には無限が横たわっているというこのことは認識がそこに刃を入れるごとに現れる。ここでこの意思の力を持続させるためには、2つの外部性を必要とする。幼児の段階では、認識は全体としての認識でしかなく、類似するということは複雑な構造の上での高位の認識である。差異がなければ類は在り得ない。しかし、一体どこから認識の差異は始まるのだろうか。我々はただ川の流れに身を委ねることしかできないのならば、決定されているように見える(これは偶然性であって必然性ではない)背景を捻じ曲げることによって別のところへ辿り着く、或いは着いてしまうことを目的としている。この行為こそ別の構築である。この構築とは自己を別の環境に投企することによって成し遂げることができる。故にこれは人それぞれという無限な多様性とはなんの関係もない。人それぞれというものは、究極的に素基体がいつでも一個人へと還元されるという形をとるが、人間はそもそもそのように存在することはできない。ここでは無限は無限として存在せず、無限にほぼ近いが確かに存在する、或る一つの外部の存在が常に存在している。知と死。ラプラスの悪魔。裁きうるものが存在するとすればそれは神であるが、その裁かれるものとは神自身である。全知全能は誕生した瞬間に死ぬ。完了する瞬間までは無限が横たわっているが、完了した瞬間にはその無限が収束を迎え現在するからである。ラプラスの悪魔は誕生した瞬間に死ぬ。これは無限であり全知全能な存在でもってしても、ある瞬間に到達するまでにあらゆるものを常に同時に選択することはできず、常に無限の非選択の決定が行われ完了するからである。人間は知らないということによって、欠如体であるがために、生きていることができる。 つまり空虚な主体は三段階存在する。我々はその間に存する、第三項の概念を形成しなければならない。人生とは光源への到達過程である。光源の到達という必然性または死。或る一つの可能性という私へと逆照射される蓋然性でなければならない。強力な自己の形成とは”光源への浮力”に関わっている。浮力とは絶対的他者に常に依存する。弱力な自己は段々とゆっくりと光源(死)へと近づくのではなく一挙に到達してしまう。(時間のなさ)。幼児の段階というのは光源から最も遠い地点に存在している。あらゆる可能性→或る一つの可能性へ。犯罪者或いは自殺者はその犯罪者を行う地点までその存在が思考しうることを思考した結果である。つまり、その存在はその地点での全自己を思考に投入した結果である。故に悲劇的強者である。不特定の人間を殺す人間は世界を愛していたがゆえに誰でもない誰かという世界の一人を殺すのであり、この場合最も愛していた世界に裏切られたと考えたからである。故にある憎い人間を殺すということと対局に存在するわけではない。知るということは死ぬということである。その知が例え誤解という形であろうと、知るということは死へ向かっている。知るということは死へ近づくということだ。この知が例え誤解であろうとそれは死へ近づくということである。生→死という流れは無知→全知という流れと関係している。象徴(シンボル)とは関係のことである。関係の絶対性。わたしは一つの関係を目指す。我々の思考は常に他者或いはこの他者との関係の中に決定づけられているようにして存在している。或いは私は既に一つの関係である。両親との関係存在の元に生まれ出る。つまり子とは、この両親の偶然性の関係のことである。故に子は偶然性としてこの世に生を受けるのである。「現代科学の考究する現象は、どれをとっても機械的な寄せ集めでとしてでなく構造的全体として扱われており、そこでの基本的な仕事は、静能的であれ動能的であれ、当の関係の内部法則を明らかにすることである」。関係の内部法則はほぼ無限に近いものが横たわっているので、これらを汲み取ろうとすると手からこぼれ落ちる。結局、関係の内部は人間にとって完全な意味での必然として扱うことはできない。関係はつねに十全である。内部・外部合わせた全てを人は神と呼んでそれに祈っていたのである。これは触れてはいけないものであった。今人類が行使していることは神からその座を奪うということである。仮に人間が必然へ至ったとしても、停止せざるを得ない。内部は外部に規定され続けている。自己は既に他者であり、他者と既に自己である。内部ができることは外と内の境界を内部から見つめ区別することだけである。つまり自己形成或いは強化の唯一の方法が、この外部と内部の反転であり、「外部によって内面の為の窪みを抉り取ること」というのが安部の解釈だ。つまりこの境界は既に外部との接触、この時点で完全な未知ではない、つまり出会った時点で区別され分断されてしまう。ここから関係の理想、未知状態への逆照射が始まる。だから常に問題は関係を作るということではなく、既に関係してしまったものとの関係の回復である。だから球体なのだ。外部と内部による常に完結し続けてしまう全体としての柔軟な一つの球体だ。関係の理想は関係しないということと等しい。この境界の発見は既に外部との接触であり、この時点で完全な未知ではなくなる。これに出会った時点で区別され分断されてしまうからだ。ここから関係の理想、未知状態への逆照射が始まる。だから常に問題は関係を作るということではなく、既に関係してしまったものとの関係の回復である。そして、もう一つの問題は内部が外部を規定するのではなくいつでも外部が内部を規定しているという事実である。外部は既に関係であり自己は関係である。それは自己すらも他者なのである。故に外部を強化することでしか内部を規定し強化することはできない。だから球体なのだ。外部と内部による常に完結し続けてしまう全体としての柔和な一つの球体だ。関係の理想は関係しなかったときに戻る、ということとほぼ変わらない。さて関係は偶然の不完全性から完全性という必然への回復なのだろうか。”私”。私の唯一の所有物であろう私が何処からやってきたのかということについて。ここで<私>は崩壊しているかのように見える。

<私>というとき既に、<私そのもの>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私そのもの>というような<存在しないもの>についての問へとすり替わる。 <我>を考えるということは常にこの<我>から分裂した<存在しないもの>を立てることになるのである。母親の胎内から産まれたこの<私>という存在者は、<私自身>に根源を持つものではない。<私自身>が選べず、また親からもどんな子をというように選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける<私>。人間は生まれたときに根源を失って生まれてくる。母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、母親を失い、つまり根源<必然性>を失ってこの世に生を受けるのである。そして根源を失った存在者はまたしても、関係に支配される。<私そのもの>は常に凡ゆるものとの関係の中に支配されている。 個人の道徳観念や感情、意思はすべて、この文化の前に押さえつけられている。このように思うのも同様に意識が芽生えた地点からである。こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。しかし、この私はこの関係性の前に於いてこそ、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。 この<強いられ>、<疎外>という状況、(つまりここでは最早〈存在者そのもの〉ですら〈類〉でしかない)から<存在>を立てる。この<存在しない私>を立てることができるのは、<存在者そのもの〉が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているに過ぎない。 つまり私そのものでしかないような私というものは最早存在し得ない。それは〈類〉である。神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。または半開的存在者。またの名を<私>という。人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。自己を否定していくことで行き着く先が死であるように、それと同じだけ世界の否定(対象のなさ)は自己の否定へ向かっている。死による存在の拒絶は存在”自身”の意味解除を果たすが、世界の側はその存在の意味を解除することができない。たしかに「彼はあった」と第三者は語るのである。存在の悲劇は自己の意思で生まれてきたのでないにも関わらず、死ですら正しくないということにある。死ですら全てを解除することにはならない。後悔は死後にはない、この後悔は死の直前、最後の一呼吸、、それよりも短い最期の瞬間まで訪れる。しかし死そのものは決して存在の中”のみ”にはない。誕生と死は世界の側にある。存在は世界と関わってしまった瞬間から、意味を互いに持ち始める。存在が重いのではなく、関係だけがブクブクと膨れあがるのだ。存在は存在と世界の結果、変化し続ける"状態"のことである。変更可能性という時、私は私を変えることができるということではなく、変更を受ける、受動的な可能性ということだ。「あの人はああいう人でした」(死者がどういう人間だったか)という回想がいよいよ畏まった形でなされる事態が葬式の際に発生するのは、自分を語るということに自分は出席できない、自分の終わりに間に合わない故にどうしようもなく世界の側から他者が語るのである。鞄の重さは筋力との関係の中で決定される。長い時間持ち歩き、鞄を手から離したときに起こる疲労、手の軽さ、震え。この手の震え(終わった結果発見される起こったこと)によってしか私は「重い鞄を疲労するまでに持っていたのだ。」ということを終わりから発見するのである。私は重い鞄を現在持っているという時ですら、存在は現在から事象を発見することはできない。通りを走る車の現在位置から1メートル先、或いは数センチ、数ミリ等々、それは過去からアクセルを踏み続けている現在からほぼ決定されている。過去から、現在を素通りして、常に終わった現在から、現在を発見しているに過ぎない。おそらく私というのはいつも私に対して遅いのだ。それはまた知らないことを常に残しながら知ってしまっていくということである。恐らくこれが存在に残された可能性ということであり、延長ということである。「~をしている」、「~をする」というとき、観測者は(例え自分が今それを行っているとしても)その動詞つまり行為や意思そのものに対して遅れている。これは言語的に遅れているというより、もっといえば、そもそも人間というものが世界に対して遅れている。何処で誰のもとに産まれてそしていつ死ぬかということを決定することができない。そしてこの生きている現在、意思の存在は疑わしいものである。いつからか、何かを考えて実行することが出来るのだ、という認識にすり替わったのではないか。人間が思考したり実行したりするということは、本来選ばれたあとに選んでいるに過ぎないのではないか。それを訓練によって或いは習慣化することで逆転しているように見せているだけではないのか。本来人間というものは、選択などしておらず、人間に意思など存在しないのではないか。あるのは”状態”、”行状”だけなのではないだろうか。人間の発見とは過去を、再認という形で発見し続けているにすぎない。だがそこにある些細なズレである最も重要な事象は、他性であり、常に理性を超えている。"全的に知ることなく経験しかできない人間"と、"経験することなく既に知っている神"は、永遠に交わることがない。故に恐らく両者ともに何かを自らの力のみで選んだことは一度もない。世界の他性。世界が他性であるならば、この世界のうちにある、この自己自身という存在者も他性であるに違いないのである。そこでむしろこの「”始原の喪失”から始まっているような形で存在している存在者」。このことにしか希望はないのではないか。”全的に知ることがないというこの”半開状態”このこと。存在は他性の到来するそのときをただ待てば良いというのだろうか。仮に未だ透徹した視線が存在するならば、あまりに直観的にすぎる判断を下すならば、どんな思想もこの"前-存在論"または"非-存在論"とも呼ぶべきものを基盤としてしか現れることがなく、今のところこれ以上に遡行することができないものだと思っている。一般的な存在論はこの基盤の上での遊戯にすぎない。しかし、何かを悲観したり、何かを楽観する必要も、最早ない。なぜならば、すべての存在者はこの遊戯が遊戯であるということを知ったところで、この遊戯から逃れることがなく、また当然、ここに記す全てもこの遊戯場で起こる遊戯に過ぎないからである。もしかするとこの場は “知っている”ということが無力となる地点なのかもしれない。そしてともすれば存在論が世界論として現れるのかもしれない。だからこそ思想・哲学は、“これ以降“のという形で進展させようとするならば、形而下の出来事にすぎない。※<私自身><前-存在者性>という概念は、<呼び求め>を発するもののことである。ジャン=リュック・マリオンの『還元と贈与』の中で、<呼び求めるもの>ではな<呼び求め>としているのかについての感覚はここで掴めるものと思っている。また、なぜ、<前-存在者>ではなく<前-存在者”性”>なのかということについても同様である。私が何処からやってくるのかということについて。私という位相は、何故に特異な地点なのか。私が「私」というとき、名指すものがいつの間にか名指されているものになっているということであるだろうか。それは一方から他方へということが順番に行われているが故に、自己は分断し差異化するという意味で交わることがないということなのだろうか。これは言語のひいては思考の形式によるものの錯誤なのだろうか。または、自分の顔を直接に見ることが私にはできないというような意味なのだろうか。単に、分裂するという点で言えば、私といわずとも、テーブルだろうが、友人だろうが、常に現実存在そのものとして、事物そのものへ、という意味ではいつでも捉え損ねており、また過剰でもあるという点でこれらには差異がない。私が<私>というとき既に、<私自身>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私>というような対象化された<存在しないもの>についての問へとすり替わる。いつの間にか対象と化した私は、前-私的な存在者が作り上げた-私、なのだろうか。ともかく、何よりもまず、私自身というものが、<呼び求め>、である場合、その呼び求めを唯一聞きうるものとして、呼び求め、つまり私自身に、私は優位を保っているのである。呼び求めは、なおも対象ならざる対象として存している。それはゴーレムやペガサスやケンタウロスよりもなお、対象ならざる対象として存在している。そういう意味で、私自身という存在は全き他性であるようなところのものである。
“私が私を名指し得ない特異な場所に私自身が存在していることを直感しうるところの存在者“
存在者の権能は他者に対するよりも無力であり、他者よりも全く他者だという点にある。私という存在者はまずもって、私自身に、存在に、呼び声に、明け渡され任じられ、全うする以外の道がないということである。したがって、どこまで行っても世界的に存在者は受動性に塗れている。存在者の能動性はそれを十全に感知し得ない点にのみ担保されているに過ぎない。ここでの課題は、名指し得ぬ存在者を前-存在論的に存在者の前に引きずり出し、召喚することにある。そして、この<私自身>を<前-存在者性>と名付ける。どんな存在者も自分の生を私は選べず、また親からもどんな子をというようには選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける。母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、根源である母親を失いこの世に生を受けるのである。これは一般的にいって、私が違う国、時代で生を受けていれば、ここにいる私とは全く異なる性格を有していることと同様である。さらに、現在も未だ私を選ぶことが出来ないように外部を選ぶことができないように。そして<私自身>というものは<私>という窓と共に変更を被っている。存在者は絶えず世界からの影響を受けて生きている。それでもなお、存在者に優位があるのは、ジャンケレヴィッチの用語を借りれば、半開的存在者としてあるということにある。これは端的にいうとして、世界に対して半分開いており、半分は自己に閉じこもっているという単純な意味で、そのようにして私というものが存在しているからに他ならない。これはどんなに先のことを予知(そのときの感情さえも)できていたとしても、実際にその瞬間になるまでは(体験するまでは)それを良い意味でも悪い意味でも、知ってはいても、了解していない、ということにある。さらに、どんな存在者も知っていることと知らないことを合わせれば総体量は同じ(比率が違うだけ)ということからも半開的なのである。また、その瞬間に知覚していること、知覚していないこと、という意味でも半開的である。こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。前-存在者は一人称単数ではなく、むしろ、変容し続ける三人称複数として存在しているが、存在者はこれを捉えることが出来ない。これをこそ存在者の基盤の上に重くのしかかかる<前-存在者性>というべきものである。この<前-存在者性>は純粋に私と呼べるようなものではない。更に、私以外の誰それというわけでもない。マリオンは、端的に、<存在の問い>を、「蝶番のように存在している。」と記しているが、しかしこれは、この<呼び求め>、<前-存在者性>すらも、蝶番のように存在している。そこにつながれているのが対象化された<私>である。対象化された私というのは、つまり、この<呼び求め>、<前-存在者性>に対象化されているところのものである。マリオンのいう、<呼び求め>つまり、この<前-存在者性>が私に<呼び声(呼び声の不在でさえ)>を送付する。私はこの送付に対してどのような態度を取るかということを強いられている。私はここでもっとも思い切った形でこれを言わなければならない。この呼び声を送付された私の態度決定、回答は、既にして終わっているといってもよい。世界があることの知覚は既にして、物理的にいって、世界の客観的、超越的にはすでに終わっているものを人間存在は知覚している。これは世界に対して存在者が遅れを取っているということと同じである。それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。しかし、この私はこの関係性の前に於いて、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。それは半開の無知によって成し得ている。この様相は以下のような構成になっている。この<強いられ>という状況、<呼び求め>から<存在者>が生起する。"呼び声を聞かざるを得ない者"として生起する。この<存在しない私>を立てることができるのは、<私自身>が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているからに過ぎない。ここで類といったのは、私そのものは単独者として、純粋に"私"ということが、できないくらいに、世界との関係に強いられているからである。つまり<私自身>でしかないような、純粋自我などのような存在者というものは最早存在し得ない。私は一人称単数であっても、<前-存在者性>は変容し続ける三人称複数によって存在している。”に対して”存在している、ということはもはやここでは意味を逸失しているだろうか。<前-存在者性>を存在者は捉えることが出来ない。それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。<私自身(前-存在者性)>は便宜上、1人称単数の形をとっているが、この箱の蓋を開ければ、<三人称複数> なのである。それは非人称的な〈類〉である。恐らく、存在者が神のような絶対者を必要とするのは存在者が根源的に<類>だからである。神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。全時空間的に存在しており、全てが成し遂げ終えているようなところのものである。故に神が存在するということは人間には認識し得ない。それどころか、神は存在者ではない。神はすべてを完了してしまっているが故に、全時空間的にあるが故に、何がしかの存在者ではない。神は驚異の念を抱くことができない。人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。関係<必然>としなかったのは存在者から見て、何事もその瞬間まで<偶然>に過ぎないからである。偶然と必然の遊戯は存在者の位相を取るか、世界の位相を取るかということであるだろう。世界は超越論的には必然であるが、その時が未だや来ていないという点で存在者の認識はすべて偶然的に映るに過ぎない。過去現在未来の時制は、存在者が世界を知覚する地点にしか存在しない。過去→現在→未来のようには時間は過ぎ去っていない。存在者の優位性はすべてを現下に引きずり出す性格によって、存在者は存在している。超越的に見て、世界は何らの時制をもってはない。存在者の過去・現在・未来は次のような様態で存在している。過去が未来から現在に招来する形で現在に存在している。過去の過去性は厳密に完了していることであるが、世界は、なんら完了していないように見える形で存在者に送付されているが、すべてが完了している。ゆえに完了しているのは過去だけではなく、現在、未来、も既に完了している。これは存在者の意志ですら逃れることがない。存在者にはそうは映らないという点でのみ(未だ訪れていないという点でのみ)存在者の優位性は保証されている。このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。または半開的存在者。またの名を<私>という。しかし、<前-存在者性>と<私>の区別は一体何によって成り立っているのだろうか。これは意識が区別させるものなのだろうか。この区別に何らかの意味があるのだろうか。この区別は<私>を<前-存在者性>に対するようにして存在者が存在していることの謂われであろうか。仮にこの遮蔽幕を取り払い、<前-存在者性>を<私>と同一のものと見なすならば、我々は何かを得るのだろうか。それは、私を含めて、<世界>が<状態>としてあり何の差異も存在しないということと同じであろうか。<私>が現在も尚、この<前-存在者性>より生み出されたものだとして、<私>が、<私>と言うことの権利は残っているのだろうか。反応ではなく抵抗であるという点でのみ、私は私なのだろうか。前-存在者性と私の間に存するものが私なのだろうか。それは現存在と何が違うのだろうか。そこではもはや大した区別ではないのではないだろうか。人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。しかし、確かに存在の声、呼び求められるものとして、なお依然として、存在者としてあるというこの事態。"固い決定論の中に意志は在る"以上のことは言えない。ここで"自由"という言葉を使わなかったのは、彼の言うところの意味でそうしている。また、散々ここでも述べてきた(と直接には提示していないかもしれないが、僕はそう思っている)。"柔らかい決定論"とは少しだけ異なると考えている。だから「"固い"決定論」とした。"固い決定論"を信ずるというとどこか宗教的なあるいはロマン的な雰囲気を呈するのかもしれない。僕は意志を否定することなく、"固い決定論"の立場を取る。これは世界を巨視化したときに起こるものだということもわかっている。つまり、空間的時間的に巨視的に眺める、ということに他ならない。神の位相、スピノザのいう"永遠の相の下"、またはキェルケゴールのいう"永遠の相の下"。これは人間には不可能である。不可能であるが故に、人間には意志があるのだろうか。可能であったとて人間には関係がないのかもしれないとも思う。知っているということと実際にその時が訪れ、体感するということとはあまりにも遠く隔たっている。意識が存在する限りにおいて。「存在とは時間である。」というテーゼは殆どこの意味において、存在は"永遠の相の下"にすら"先立っている"という意味に近いのかもしれない。それでも尚、すべての物理法則、または法則ならざるカオス性、ランダム性を含む、ある法則の下にすべてが動いているとして、私の意志とは何の関係もない。それがそうであろうと何の関係もない。僕は辛うじて地面それ自体ではなく、地面の上を歩いている。僕は"固い決定論"の中で蠢いている、非-力な存在者である。キェルケゴールはいうだろうか、「どんな選択をしても後悔するだろう」と。しかし僕は、後悔を既に"了解"している。「世界が決定論であった場合、責任というものは存在しない」というものがある。だが、この不可避の”了解"は絶えず、意味を問い直す機能を有すために、固い決定論の責任の回避を逃れる。この責任は「存在者から存在へ、存在から存在者」へ絶えず責任を問い直す。 "Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?"「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」というハイデガーの問いがあり、「形而上学入門」で取り上げられている。いずれにせよ 無いことに困るのは、ある時を、既に知ってしまっているからである。そして、それが何れ、帰って来るのではないか、或いは、何れその時がやって来るのではないか、というすべての期待(予持)の中に、今まさにその問に対峙しているからである。

 

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」.....たとえば深い絶望の中にあって、ものごとからすべての重みが消えうせようとし、あらゆる意味がぼやけてしまうとき、この問いが立ち現れる。

 

         

 

 

この問いが及ぶ領域は最も広範である。この問いはどんな種類の存在者に達しても停止することがない。この問いはすべての存在者を、すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する。

 

 

 

われわれはわれわれの問うことの経過の現在の段階から、さらにもう一つの別のことを見渡すことができる。われれわれはさきに、「存在」という語は、普通の考えに反して、一つの全く限界づけられた意味を持つということを明らかにした。すなわち、存在そのものは一つの特定な仕方で理解されているということである。そのように理解されたものとして、存在はわれわれにとって開けて明らかである。しかしどんな理解も、開示の根本様式の一つとして、一つの特定な視線の中で動いているはずである。この物、たとえば時計は、われわれがあらかじめ既に時間とか、時間の計算とか、時間測定とかいうようなことを知っているのでないかぎり、われわれに対してはそれがあるところのものという点では閉ざされたままである。有様の視線はあらかじめ既に敷設されていなければならない。われわれはこれを先行-視線、「ペルスペクティーヴェ」と名付ける。

 

 

ここでおそらく重要と思われるのは、「すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する」

という記述である。「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問いは"全時間"、"全空間"、に及ぶということである。"むしろ無があるのではないのか?"というこのことは現-存在にとって無が存在しない(認識し得ない)という不可能性を既に感じ取っている。これは無があるかどうかということを差し置いて既に感じ取っている、ということになる。ハイデガーはこの既に感じ取っているこのことのありかたを”先行-視線(ぺルスペクティブ)”と名付けている。”予持”に近いと思われる。どんな理解もな現-存在は終わった過去も未だやってこない未来もここに引き込む威力を持っている。持ってしまっている。

 

 存在はどうなっているのか?存在を見ることができるだろうか?われわれは存在者を、この白墨を見る。しかし、われわれは色や光や闇を見るように存在を見るだろうか?あるいは、われわれは存在を聞き、嗅ぎ、味わい、触れるだろうか?われわれはオートバイを聞く、それが大きな音をたてて通りを疾走するのを聞く。われわれは大雷鳥を、それがそびえる森をすべるように飛び越えていくのを聞く。しかしほんとうは、われわれはただモーターのバタバタという物音や、大雷鳥がたてる物音を聞くだけである。純粋な物音を記述するなどということは大変むずかしく、われわれには不慣れである。というのは、それはわれわれが普通聞いているものではないからである。われわれは〔単なる物音に比べるならば〕いつでもそれより以上を聞いている。

 

 

 

ファン・ゴッホの描いたあの絵、無骨な百姓靴一足のほかには何もない。この絵は本来何ものも呈示していない。にもかかわらず、これを見るや直ちに、われわれ自身が晩秋のたそがれ、じゃがいもの茎を燃やし終えて鍬を肩に野から疲れた足で家路をたどっているかのようにわれわれはこの絵にあるものとひとりで対面する。何がそこで存在的であるのか?画布か?筆触か?色彩か?

いまわれわれが列挙したもののすべての中で、一体、存在者の存在とは何なのか?こんなことさえわからないとは、一体、われわれはなんという愚かなうぬぼれと賢さとをもって、この世界の中であちこち走ったり立ち止まったりしているというのか?

 

 過去にあった、未来に必ずそうなる、というようなことはどんなことがあっても現存在に十全に正しく通達されることは在り得ない。なんらかの余剰と不足、あるいは次の瞬間が消し去る。同じように眼の前にあるものを見やるとき、存在者を見るとき同じように、十全に正しく通達されることは在り得ない。この十全に正しく通達されないことが存在者に残された唯一の可能性である。現存在は現在という時間に貼り付けられている。全く目が離せないでいる。過去や未来を想像しているときですら、それは現在というその瞬間においてそうしている。ただし、規定されていることを知らずにそうしている。存在者はは"存在"によってすべてが支えられている。この存在は現存在の根拠である。何かがあることの根拠としての。無が"ある"の前で(根拠)、"無"は"ある"。存在とは殆ど無である。ニーチェが言った存在とは幻であるというのはそういったことである。意志の手前の意志や、環世界というものが、ニーチェフッサールハイデガーが言っている"存在"という言葉ではないかと私は考える。"既にあるもの"のみならず、"かつて存在したもの"および"将来存在するはずのもの"、という記述はすべての時間を包摂しているように見えるが、これは現存在にとってそうではない。"かつて存在したもの"は確かに過去である。また、"将来存在するはずのもの"は未来である。しかし、"存在したもの"が存在したものであるために一個の現存在を必要とする。つまり、現在を必要とする。同じように将来存在するはずのものというものも、未だやってきていないという点で、過去の存在したもの同様に憶測に過ぎない。だが尚、存在したもの、存在するはずのもの、が現存在に、つまり観測者に関係なく”ある”のだとすれば(これも私という観測者の憶測の域をでない)のだが、世界は既に全体性として、すべてが完了している(これも私という観測者の憶測の域をでない)。それはちょうど、今私がこのキーボードを打っている、打鍵している意志の手前の意志によって、または環世界によって既に終わっていなければ可能ではないことなのである。更に例を挙げるならば、物を動かすエネルギーによってどれだけの距離を移動するかということが、環世界と共に規定されている。実際に物がその距離を移動し終える前に、エネルギーを加えた瞬間に決まっている。そのようにして人間の意志を含むすべての物理法則によって動く前からすでに動いている、ちょうどピンボールのように弾き出されている。そうやってはじまりのはじまりのはじまりの...というように無限に退行してゆく。広く言われている決定論が責任の概念を回避し得るという理論はこれである。ラプラスの魔物もここに属している。これに乗っ取るのならば始まりは既に終わっている。それでもなお、現存在の自由というものがあるとすれば、未だその瞬間がまだ実際に結果していない、という現在地点においてのみ、終わっていないという地点においてのみ、担保されているのである。故に現在という時間は、現存在にとってのみ全く何者にも規定されていないのである。いや規定されているが、現存在はそれを知り得ないということに規定されている。では、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」に対する、私のこの記述に対する同意は、同じように現存在の観測者の憶測の域をでない。世界は等の昔に終わっているが故に、何も始まっていない。何かが始まっているのは勝手に存在者が誤解の上で始まっているに過ぎない。現存在は何処までも非-知、非到来性によって守られているに過ぎない。人はそれを可能性と呼んでいるに過ぎない。どんな人間もこの同じ状態にある状況で何故私は「に過ぎない」というのだろうか。 何故、ハイデガーが、「存在」と「思考」という形で対立させたのかそれがわかるだろうか。 Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?ということしかできない現存在の全体性において。この全体性は現-存在として発することしかできないという地点において。つまり、(世界-内-存在)の全体性において。

 

神は予め世界から退去していなければならない。

 

ブランショの『終わりなき対話Ⅱ』において、語られるシモーヌ・ヴェイユは『重力と恩寵』からの引用は殆どなく、『カイエ4』、『神を待ち望む』が大半を占めている。ブランショヴェイユを語るのは、この『終わりなき対話II』の『4.断片(欲望・不幸)』にあるように、キリスト教的解釈、または宗教的解釈から、神秘的なものから、引きはがすことを目的としている。つまり、宗教でもなく思想でもない、世界そのもの、存在そのもの様相が語られていると考えてよい。それはこの二人(ブランショヴェイユ)がどんなに神の名、または宗教的用語を使って語ろうともそれはそうなのである。

 

「この瞬間から神はもう何もする必要がない。私たちも同じだ。ただ待つこと以外に。」というヴェイユのこの言葉について、ブランショは「ここですら、シモーヌ・ヴェイユが可能なかぎり神の特別な介入をなくすようにしていることが見て取れる。神への不可能な接近を可能にするために、神の影響をなしで済ませようとしていた。それは人間の力に過度の信頼を寄せていたからではない。正反対である。」といっている。ブランショは続けて「機械的必然性が支配し絶対的に神を欠いている世界が、この空虚自体の純粋さによって神の本質にもっとも近いものであるのと同じように、私たちのなかで自然であるものは、私たちがその重みに耐えることに同意するかぎり、超自然に反転する準備がいつでもできている。」ここでブランショが用いている”機械的必然性”という言葉は、ヴェイユに沿って、"神の介入なしで”世界の様相、存在者の様相つまり存在それ自身を語ること、因果性について語っている。ここで私は『重力と恩寵』における、冒頭を引用したいと思う。

 

たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外されている。

 【重力と恩寵 / シモーヌ・ヴェイユ

 

”恩寵だけが、そこから除外される”と言っているときのヴェイユは多分存在者の側から話している。その上の「たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている」は世界そのものの既決定性から話されている。この重力の既決定性の上でなお、恩寵があり得るのは、というのも変な言い方ではあるが、未だ到来していないという、予持の現在の未達・誤配、予持がいつまでも作動し続けるためである。また、ブランショが『13.時代の変化について』の中で、ニーチェを引用し、「私は未来についての”不確実性”を愛する。」「私は未来についての無知を愛する。」「最高度の欠如の力へと差し出された来たるべきもの《l’à-venir》があるのだから。」の現在における非到来性に見ることもできる。次の現在への予感が存在者に既にある。それは、「無知へのこうした欲望にとって、無知は自らを欲望とする。この欲望は忘却が迎え入れる期待であり、期待がそのなかに入り込むところの忘却である。永遠の円環[annulus æternitatis]「<すべて>が回帰する」ことへの欲望は、それだけで、始まりも終わりもなしに、欲望を回帰させる。」

『6.ニヒリズムについての考察』の中で、”不確実性”を正しく解釈しなければならない。「偶然に左右される予測不可能なもの[alétoire](ただし、偶発的なもの[fortuit]ではないもの)」の[alétoire]として読むべきである。重力の上でなお存在者は未だ恩寵の到来[alétoire]がある。この世界にあるものは [alétoire]であり、[fortuit]ではない。ヴェイユの「重力 ― 一般的に言って、わたしたちが他人に期待するものは、わたしたちの中に動く重力の借用によって決められる。また、わたしたちが他人から受けるのは、他人の中に働く重力の作用によって決められる。ときにはこれが(偶然に)一致することがあるが、多くの場合一致しない。」における”偶然”は、[alétoire]の意味においてある。9.限界-経験において、ブランショバタイユを参照し、終わっていることの”可能性”が論じられるのは[alétoire]のうちでの出来事である。粒子への解体とでもいうべきバタイユの存在者の棄却。バタイユが限界に向かって思考するとき、ヴェイユと出会うのはこの点である。このときヴェイユのなかで何によって駆動しているのか。”多くの場合一致しない”によってである。バタイユが非-知によって駆動するのと同じくヴェイユも同様に、この欠如によって駆動する。何故この欠如があるのか。

 

 

神は神としてのその全能を放棄したし、自らを空にした。私たち人間のささやかな力を放棄することによって、私たちは空虚のなかで神と等しくなる。

 

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

神は一個の存在者であることを放棄したのである。ここでヴェイユの神の概念について、ヴェイユを引用しつつ、イツハク・ルリア(イサク・ルリア)の神の世界からの退去を語っているとブランショは言う。「事実、十六世紀の聖人かつ深遠な思想家であるイツハク・ルリア(その影響は大であったと誰もが知っている)こそが、昔のカバラの考え(「ツィムツーム」)を解釈しながら、創造に神の捨て去る行為を認めたのである。…神は創造しながら何かよけいなものを置くのではなく、まずは何かを不足させるのだ。無限の<存在>は必然的に全体である。世界が存在するためには、無限の<存在>は全体であることをやめて、世界に場所をあけなければならない。それは後退や退却の動きを通してであり、「いわば自身の内側のひとつの領域、一種の神秘的な空間を捨て去ることによってである。」言いかえれば、創造の本質的問題は、無の問題なのだ。…..それは犠牲、収縮、制限によるものであり、自分である全体から退去すること、消失するとは言わないまでも自分を消し去り、不在のものとすることについての、神秘的な同意によるものなのだ。(まるで世界の創造や世界の存在が神から神を立ち退かせ、神を神の欠如にし、それゆえ派生したものとして一種の存在論的な無神論が生じるかのようである。この無神論は世界それ自体とともにしか廃棄されることはできないであろう。世界があるところでは、痛ましくも神の欠如があるのだ。)」

 

仮に”この世界”に神があるとすれば、それは存在の全体性<必然>にしかないだろうと思われる。これはアリストテレスのいう”不動の動者”に近い。歴史の中で”不動の動者”は”存在”という語に置き換えられた。神の外としての”外立”、”実存”(エクゼステンティア)を成すものとしての”存在”として。よってそれはただ”ある”のである。この地点で存在それ自身は最早肯定するとか否定するとかいう次元にあるのではない。ブランショが13.時代の変化について-回帰の要請-で語ったことは、このような存在者の状況になおも「唯一のひび割れである。”けっして”」に既に投じられ続けているという状況にある。この切断。無が射し込むこと、時間の切断、としての幻影が現れる。そして存在者はこの幻影から出ることがない。例えば、それが幻影だと知ったところで、その幻影を排除することができないように。病気の原因がわかっても病気が完治することとは遠く隔たっているように。神は不動の動者として世界として臨在しているのであって、神自らの退去によってもたらされた空間を埋める。神はなんらかの存在者であること、一個の人格を断念したが故に神なのである。その神の欠如は人間における神の不可視性によって保たれる、あるいは神と人間の断絶において、存在者の未だ到来しないものとしての来るべきものとして、神が現象するのである。ここで私はマリオンが存在に先行するものとしての「呼び求め」を提出したときと殆ど同じものを見ているだろうか。声を聴くもの、「不意を突かれる者」として。私はすでに呼び求めによって私を”「“私を”の地位に任命されている者」としての存在者である。存在を可能にするものとしての「呼び求め」を聞く者。存在者とは存在の出口(Sortie de l’existence)に召喚されたものに他ならない。つまり、出口の途中に介入できないもの。声の中に戻ることを禁止されているものとして人間とは非力なのである。そしてこの存在と存在者の隔たりの中に意味が介入するのである。なぜか。存在とは”無“ではない。存在の上に”無”というベールが被さっているがゆえに”不可視に既に在るもの”はつまり、欠如として既に到来している。

 

【問い】

 

存在者と存在を自明のように区別しているが一体何が自明なのだろうか。これは長い間、「存在論的差異」と呼ばれるているものである。そしてこれらは一貫して現在に至るまで「存在の問い」から放たれている矢である。何かがある。であれば、何かがあることの原因がなければならない。それが”存在”というただ一言で受け継がれてきたことである。存在者。これは現在において、何かがあるというときそれは名指しによって存在者として任命される。しかし、名指される前からそれは在るのである。例えば、眼の前にあるコップがある。このコップは3秒前もコップである。無論、このコップが作られたときから変わらずに(傷などの損傷はおいておくとして)コップである。さらに3秒前のコップ(存在者)は、現在のコップにとっての存在の一要素であるだろう。であるならば、コップは存在者でありつつ、存在でなければならない。コップでありつつ、既にコップであるにも関わらず、コップにならなければいけないもの。つまり、時間概念の導入によって、というよりは認識によってのみ、存在と存在者とは区別され得るだけである。「"コップ(存在者)"が"ある(存在)"」の”ある”が存在であるならばそれは名指すこと(留めること)で、つまり名指すことが存在から存在者を区別するのではないだろうか。物体だからわかりやすいという意味でそうしているだけであり、コップからそれを区別するものなどそもそも存在しないのではないのか。“存在”が、それがそうであるようにしている全てのこと、であるならば、その全てを”存在者”、ということも可能であるはずである。しかし、我々はそれを一個の何かとして保存することが出来ない。というよりは挙げるときりがない存在の存在性たちは、現在においてすら、その存在者と、何は関係があって、何が関係がないのか、の判断(裁断)は殆ど不可能であり、そうしたその都度の命名(すべてを命名すること)はすべてを差異化することで、全くの非-意味的な記号にすぎないからである。つまり存在者の前に存在があるということを一旦おいておくとしても、存在/存在者の区分というものが在り得るのは現存在の規定によるものではないのだろうか。つまり認識が現在に依存せざるを得ないのと同様に、認識とは存在者を任命するための亀裂を入れるための道具であるように。従って、全てはどちらかである。存在しかこの世界に存在しないか、それとも存在者しか存在しないのか、である。そしてこれはどちらも同じことを指しているに過ぎない。おそらく断言しなければならない。世界にあるものは、時間と空間による生成変化だけであり、それをその都度捉えて、何らかの意味を介入させ、なんらかの法則を見出し、愛という言葉で語られるそれらは、全て、存在なき存在の戯れであると。そして人間だけがそこに何等かの意味を見出す(してしまう)のだと。神が消し去ったものがあるとするならば、人間において、病にでもかからないかぎり、意味が消えうせることが絶対にないということである。それは死はこの生の中にない。という意味で、死が特権的な地位をもたないものである。我々は終わりなき駆動する記憶である。

 

「存在の出口(Sortie de l’existence)に召喚されたもの」としての存在者は一体誰に、召喚されたのか。先ほどのコップの例を取るならば、その都度召喚しているのはこの私に他ならない。そして、現存在は誰によって、呼び出されているのか。これも同様に私、ということになるだろうか。そうではない。私は私自身、何ものかによって呼び出されているのである。全てはそう名指すように既に呼び出されているのである。その時この呼び求めは最も高貴な神性として現れる。この声は一体誰の声か。

マリオンが存在/存在者に先行するものを見たものと同じものを見たと言ってもよいだろうか。贈与。愛。存在に先行する「呼び求め」。或いは、

 

ヴェイユに戻ることにしよう。 

ブランショが引用した、ヴェイユの言葉とその先の少し。

 

 

「完全に神を欠いたものとしての世界は、神自身である」

 

重力と恩寵 /シモーヌ・ヴェイユ 】

 

 

「捨て去ることで神は私たちと別れるのだが、この捨て去りは私たちを愛撫する神のやり方である。私たちの唯一の悲惨である時間は、神の手からなる接触そのものである。それは神が私たちを存在させる放棄である。」

 

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

 

神はわたしを存在の外見をまとった非存在として創造した。自分の存在だと思いこんでいるものを愛によって放棄し、わたしが虚無から抜けでることができるためである。

そのとき、もはや「わたし」はない。「わたし」は虚無に属している。しかしそのことを知る権利はわたしにはない。もしわたしが知っているなら、放棄する意味すらなくなるだろうからだ。わたしはついぞ知ることはないだろう。

他のひとびともまたかれら自身にとっては存在の幻影でしかない。

このように考えることは、人びとの存在の実在性を損なうどころか強めるのである。なぜなら、かれらを彼ら自身とのかかわりでみているのであって、わたしとのかかわりでみているのではないからである。

 

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

CULTURAL ORGANON

 

culturalorganon.hatenadiary.com

 

this is my music box.

というわけでいろいろに抵触するかよくわかりませんが、作りました。まぁ最悪消します。ページの一番下のカテゴリーがアーティスト別になっているので一覧になるかと。暫くはドバドバ更新するため、読者になると騒がしいくなると思うのでお勧めはしません。暇つぶしにどうぞ。