生活

 

 

本当にただの生活のブログを始めました。

 

riutjorjkd0000q.hatenadiary.com

 

「生活」、「某テスト氏の生活」です。

ヴァレリーの『Monsieur Teste』からパクりました。

  

"Torus-Torus-Torus"の"-"に該当します。

いや、それはどうだろうか。

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こちらのブログはまぁいつも通りマイペースに更新します。

まとまったモチーフが出来上がったらこちらに書きます。

前からそういう時にしかここには書きませんでしたが。

 

このブログに書いてきた哲学的なにかを一つの記事にまとめて、何か一つの体系を構成したりなんなりしたいのですが、断片のように散らばっているものを回収して、再度書き直すような気力が起きない。昔書いた「断片的小説」も全く書く気力と能力が吹っ飛んでしまった。何処へ行ったのだろうか。まぁ両方とも、多分、途方もない時間が必要な気がしています。何れ、それぞれが一冊の書物になったら、というのが僕の人生の夢ですが、勉強と哀しみが、まだまだ足りないようです。

アドラシオン

 

 

何故、GWにこんなことを考えているのかよくわかりませんが、

全く静かに流れていました。 

ほんの少しだけツイッターから遠ざかっていました。(とはいえ、ちょこちょこといじってはいましたが。)今日ツイッターを辞める。

以下、馬鹿だねぇ、若造が、と思って読んでくれれば幸いである。

基本的にはいつもそう思っている。

 

生きていれば僕と同じ年齢であった若き批評家のことについて考えていました。僕らの思考というものは多分に他者の言葉、それは沈黙、非言語も含む、身の回りの環境、あるいは気分によって、宇宙的にみれば本当に小さな個人の身体の中に、私の思考はあり、それらと融け合うか融け合わないか、ぎりぎりのところあるいは融けあっているところ、混迷の中で生きている。アンケートで聞いておいて君の意見はどうなんだ、と言われればそうなので、あまりはっきりとしたあれがあるわけでもないので、ただ一つ応え得る、というよりは長い間考えていたことの一つとして、決定論・自由意志の話をしようと思います。僕は"固い決定論の中に意志は在る"以上のことは言えない。ここで"自由"という言葉を使わなかったのは、彼の言うところの意味でそうしている。また、散々このブログでも述べてきた(と直接には提示していないかもしれないが、僕はそう思っている)。"柔らかい決定論"とは少しだけ異なると考えている。だから「"固い"決定論」とした。僕の我儘かもしれない。あのアンケートで一票も入らなかった回答の一つ、"固い決定論"。"固い決定論"を信ずるというとどこか宗教的なあるいはロマン的な雰囲気を呈するのかもしれない。僕は意志を否定することなく、"固い決定論"の立場を取る。これは世界を巨視化したときに起こるものだということもわかっている。つまり、空間的時間的に巨視的に眺める、ということに他ならない。神の位相、スピノザのいう"永遠の相の下"、またはキェルケゴールのいう"永遠の相の下"。これは人間には不可能である。不可能であるが故に、人間には意志があるのだろうか。可能であったとて人間には関係がないのかもしれないとも思う。知っているということと実際にその時が訪れ、体感するということとはあまりにも遠く隔たっている。意識が存在する限りにおいて。「存在とは時間である。」というテーゼは殆どこの意味において、存在は"永遠の相の下"にすら"先立っている"という意味に近いのかもしれない。それでも尚、すべての物理法則、または法則ならざるカオス性、ランダム性を含む、ある法則の下にすべてが動いているとして、私の意志とは何の関係もない。それがそうであろうと何の関係もない。

 

最近感じることの一つに思考の判断の一瞬、その一瞬私の思考から私が剥がされる感覚がある。これは作品が作者の手から離れる(作品としての終わり、または完成)の感覚に近いのかもしれない。自由という言葉を使うとすればこの一瞬にあるように思う。また、"予持"ということについて、僕らは何らかの"予持"を既に持ち合わせている。この"予持"の内でその期待が外れたり、期待通りになったり、またはその他だったりする。本質的にいって、”予持”はその予想していたこうなるであろう、ということ通りになったとしても存在者はそれに尚、驚き、失望し、喜ぶことができる。"予期"はしたがって、常に裏切られるような形でしか存在していない。ハイデガーの"了解"という言葉はこの既に与えられている"予持"を裏切る形で存在していることも含めて存在者は既に"非-了解"="了解"的に存在しているということであるかもしれない。

僕はあまりにも僕から遠ざかっている。殆ど制御不能であるような地点。だが、僕は、存在者の"存在"にそれでもなお、マリオンの言うように、「私は既に私を知っている」、と言い得るところの"存在者"である。

 

個人的な話。

再びフランス語学校に通うことにしました。何故かはわかりません。

前にもそうしていたのでわかりますが、仕事をしながらの勉強は少し堪えるものがあります。大学生は凄い。今学生の皆さんは、これから師に出会うと思います。もう出逢っているかもしれない。この人についていく、この人を越えたいと、思うかもしれない。その直観は最終的に師との決別だとしても、それは絶対に正しい。しかし、最後まで、本当に最後の瞬間まで、それは留保し見極めなければいけない。でなければ到達することは叶わない。これは仕事場の上司でも同じことである。自分が死なない程度に。

丁度、四半世紀を過ぎた人間が、この年になって今更、といえばそうかもしれない。僕は間違っているのかもしれない。しかし、間違っているかどうかなど僕には関係がない。むしろ、人はいつでも正しく、いつでも間違っている。僕は辛うじて地面それ自体ではなく、地面の上を歩いている。僕は"固い決定論"の中で蠢いている、非-力な存在者である。キェルケゴールはいうだろうか、「どんな選択をしても後悔するだろう」と。しかし僕は、後悔を既に"了解"している。「世界が決定論であった場合、責任というものは存在しない」というものがある。だが、この不可避の”了解"は絶えず、意味を問い直す機能を有すために、固い決定論の責任の回避を逃れる。この責任は「存在者から存在へ、存在から存在者」へ絶えず責任を問い直す。

 

僕は死んだ若き批評家に会ったこともなければ、彼について殆ど何も知らない。僕はこの批評家が望むところで死んだにせよ何にせよ、言語の中で、最期の刹那、言語の外で命を絶ったのだと思う。存在者における死は、最後まで死が死の中断、として現れる。その意味で、僕は彼の自由意志を問うことは絶対にできない。疑うべきは寧ろ自由意志と柔らかい決定論だと思っている。

 

書き終えて、殆どこれが意味をなしているのかわからない。全く間違った解釈であり破綻しているのかもしれない。僕は今、固い決定論から限りなく手を放しながら、固い決定論と手を結んでいることを感じている。

 

 

最後に、皆さんのご武運とご多幸を祈っております。

 

 

神話・共同体・虚構

 

 

ジョルジュ・バタイユ生誕120年記念国際シンポジウム

 

神話・共同体・虚構 

 ジョルジュ・バタイユからジャン=リュック・ナンシー

 

慶應義塾大学 三田キャンパス 南校舎ホール

 

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残念ながらジャン=リュック・ナンシーをこの眼で見ることは叶いませんでした。

ですが、この来日のために、書かかれたテクストをナンシーの妻である、エリーヌ・ナンシーが、読み上げました。日本語で書かれたテクストをスクリーンに投影し、それはまさに詩のような文章で書かれており、また、エリーヌ・ナンシーによって、彼のテクストが朗読され、我々の眼前にありありと、ジャン=リュック・ナンシーを蘇生させました。ナンシーの不在を埋めるような、愛のような祈りでした。

 

パロールは発話者が居なければ聞くことがない。また、聴くものがいなければ、話すこともない。そういった意味でエクリチュールよりも、パロールのほうが、限定性が高いと言える。エクリチュールは、特定のある人に宛てるでもなく、宛先なく、宛先の受領なしに、在ることができる。(parole adressée à-.)でもおそらく、一人ではないという複数性をもって書いている。今私は誰かに向かって書いている、いくつかの想定し得る人を思って書いている。さらに無名の名指し得る、未だ出会ったことのない誰かに向かって、いつでも僕は有る何か、に向かって書いている。決して、無に書くことはできない。無の有としてしか存在しない。おそらく独白は、純粋に独白として存在することができない。

 

教授が言っていたように、同じテクストをジャン・リュック=ナンシー本人がここで読み上げることと、エリーヌ・ナンシーが読み上げることの何が違うのか。また、そういった意味で、ナンシー本人がいないにも関わらず、ナンシーの言葉が語られているというこの事態は一体なんなのかというこの問いは、奇しくもこの公演のタイトルである、『神話・共同体・虚構』と符合したのでした。

 

この三つはどれも人称性を欠いているのです。"宛先のない"ものであり、”発話者が存在していない"地点でもあるわけです。

つまり、これらは誰が書いてもよかったものでもあるわけです。さらに、誰が読んでもよかったものでもある、そういう風にあったわけです。

神話とは師から弟子へという伝承とは違う方法で、語り継がれている。

神話とは、ある特定の誰かに宛てられたものでは最早ない。神話自体、誰が書いてもよかったわけです。そういった神話の複数性が問題にあるわけです。ですから、神話は誤配の誤配でもあるのです。にもかかわらず、神話それ自体は、無傷のまま存在している。神話が語り継がれるのに失敗するという事態はもうとっくに終わっている。神話が記録された時点で、神話の誤配はオリジンの神話の派生としてしか存在することができない。それは別の神話にすぎないわけです。故に神話は永久に無傷のまま留まる。

 

ジョルジュ・バタイユ氏だろうか、否、ニーチェ氏に関してバタイユ自身がそう言っているように、バタイユ氏はそっとしておこう。

こと心臓に関わる限り「なになに氏」はそこにそっとしておかなければならない。

 

作品とは、ドゥルーズが書くことについて語った言葉を借りれば、「人は知っていることと知らないことの先端でしか書かない。」ということになるだろうか。最早可能性として、"祈り"として書く。これは書くことに留まることではないのです。人間の生そのものが、知っていることと知らないことの狭間で問いに付されている。もっといえば、というより寧ろ、知識ではなく、体験していない。未だやってこないということの方が本質的な事態であるように思われます。

 

このシンポジウムは、ある種の神話としてあったのだろうか。

宛先なしに、存在していたのだろうか。私は大学生であったことが一度もない。

にもかかわらず、この場は、無名の私、一般人である私に対しても開かれていた。

そうした意味でも確かにこの知は閉ざされておらず、開かれていた。当たり前のことだが、僕が居なくてもこのシンポジウムは開催されている。登壇者である教授が一人欠けようとも、開催される。何しろ、今回の主役である、ジャン=リュック・ナンシーが不在であるという事態でさえ、このシンポジウムは止まることがない。誰が居てもよかったにも関わらず。ある名指し得ぬある何かに向かって。語りつくし得ぬ不可能性の可能性へ向かって。 

 

複数性。何も神話だけではないように思える。それはナンシー自身が1991年に心臓移植を受けたこの物理的な問題を待つまでもなく、「他人の心臓が私の心臓の内で...」という様相の許にある存在。

今もなおその他者の心臓で自己が作動している主体。心臓が入れ替わってなお、駆動する私という存在者。その中で主体とは何かを問われ問い続けている。一個の存在者に関してすら。僕の中に無限の存在者が流れている。他の存在者もそうなのであるならば、存在者があるということは一体、どういった相貌なのか。世界があるとは何なのか。一体、誰が語っており、誰が話しているのだろうか。世界と存在を隔てるものは果たしてなんなのか。外皮は剥がれ、むき出しの肉も剥がれ、灰となった骨、自己を差し出した先にある、複数性の呼び声、複数性の応答。誰もが産まれ終わっており、死も生の外にある、始点と終点を逸している存在者。存在。

 

あの空間にナンシーは不在の有として存在していたように思います。

確かに他者を通して、ナンシー自身が語り、他者を通して、ナンシー自身を聴いていた。それはむしろ、はっきりとした形で現れた。ナンシーの強大なエネルゲイアとして。

 

このシンポジウムのナンシーの最後のスライドは確かに普通の意味で時間軸として終わりの言葉です。しかし尚、終わり得ぬと言わんばかりに、言葉の意味はむしろスライドの最後であるという通常の時間軸に逆らうように、開かれた神話のように。

また、Adorashion(祈り)のように。

 

技術者たちは世界を変容させただけだ。

いまや不可能なものを世界に輝かせなければならないのである。

                                                                 ジャン=リュック・ナンシー 

 

 

 

前-存在者性

 

 

ジャン=リュック・マリオン

 

『還元と贈与』

 

を読んだ。

 

私が読んだものの中で、自身が考えていた"存在者"の認識に、

"私"というものの"存在者"の認識に近いものだった。

予め言っておくと僕の圧倒的力不足により、マリオンの意図していることではないのであろうから、読んだ結果喚起された雑感ということで許されたい。

 

仮に未だ透徹した視線が存在するならば、あまりに直観的にすぎる判断を下すならば、どんな思想もこの"前-存在論"または"非-存在論"とも呼ぶべきものを基盤としてしか現れることがなく、今のところこれ以上に遡行することができないものだと思っている。

 

一般的な存在論はこの基盤の上での遊戯にすぎない。しかし、何かを悲観したり、何かを楽観する必要も、最早ない。なぜならば、すべての存在者はこの遊戯が遊戯であるということを知ったところで、この遊戯から逃れることがなく、また当然、ここに記す全てもこの遊戯場で起こる遊戯に過ぎないからである。もしかするとこの場は “知っている”ということが無力となる地点なのかもしれない。そしてともすれば存在論が世界論として現れるのかもしれない。だからこそ思想・哲学は、“これ以降“のという形で進展させようとするならば、形而下の出来事にすぎない。

 

 

過去に書いた記事を加筆修正する形ではあるが、

ここにもう一度、再記する。

 

※<私自身><前-存在者性>という概念は、<呼び求め>を発するもののことである。

還元と贈与の中で、<呼び求めるもの>ではな<呼び求め>としているのかについての感覚はここで掴めるものと思っている。また、なぜ、<前-存在者>ではなく<前-存在者”性”>なのかということについても同様である。

 

私が何処からやってくるのかということについて。

 

私という位相は、何故に特異な地点なのか。私が「私」というとき、名指すものがいつの間にか名指されているものになっているということであるだろうか。それは一方から他方へということが順番に行われているが故に、自己は分断し差異化するという意味で交わることがないということなのだろうか。これは言語のひいては思考の形式によるものの錯誤なのだろうか。または、自分の顔を直接に見ることが私にはできないというような意味なのだろうか。単に、分裂するという点で言えば、私といわずとも、テーブルだろうが、友人だろうが、常に現実存在そのものとして、事物そのものへ、という意味ではいつでも捉え損ねており、また過剰でもあるという点でこれらには差異がない。私が<私>というとき既に、<私自身>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私>というような対象化された<存在しないもの>についての問へとすり替わる。いつの間にか対象と化した私は、前-私的な存在者が作り上げた-私、なのだろうか。ともかく、何よりもまず、私自身というものが、<呼び求め>、である場合、その呼び求めを唯一聞きうるものとして、呼び求め、つまり私自身に、私は優位を保っているのである。

 

呼び求めは、なおも対象ならざる対象として存している。それはゴーレムやペガサスやケンタウロスよりもなお、対象ならざる対象として存在している。そういう意味で、私自身という存在は全き他性であるようなところのものである。

 

“私が私を名指し得ない特異な場所に私自身が存在していることを直感しうるところの存在者“

 

存在者の権能は他者に対するよりも無力であり、他者よりも全く他者だという点にある。私という存在者はまずもって、私自身に、存在に、呼び声に、明け渡され任じられ、全うする以外の道がないということである。したがって、どこまで行っても世界的に存在者は受動性に塗れている。存在者の能動性はそれを十全に感知し得ない点にのみ担保されているに過ぎない。

 

ここでの課題は、名指し得ぬ存在者を前-存在論的に存在者の前に引きずり出し、召喚することにある。

そして、この<私自身>を<前-存在者性>と名付ける。

 

どんな存在者も自分の生を私は選べず、また親からもどんな子をというようには選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける。

母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、根源である母親を失いこの世に生を受けるのである。これは一般的にいって、私が違う国、時代で生を受けていれば、ここにいる私とは全く異なる性格を有していることと同様である。さらに、現在も未だ私を選ぶことが出来ないように外部を選ぶことができないように。そして<私自身>というものは<私>という窓と共に変更を被っている。存在者は絶えず世界からの影響を受けて生きている。

 

それでもなお、存在者に優位があるのは、ジャンケレヴィッチの用語を借りれば、半開的存在者としてあるということにある。これは端的にいうとして、世界に対して半分開いており、半分は自己に閉じこもっているという単純な意味で、そのようにして私というものが存在しているからに他ならない。これはどんなに先のことを予知(そのときの感情さえも)できていたとしても、実際にその瞬間になるまでは(体験するまでは)それを良い意味でも悪い意味でも、知ってはいても、了解していない、ということにある。さらに、どんな存在者も知っていることと知らないことを合わせれば総体量は同じ(比率が違うだけ)ということからも半開的なのである。また、その瞬間に知覚していること、知覚していないこと、という意味でも半開的である。こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。前-存在者は一人称単数ではなく、むしろ、変容し続ける三人称複数として存在しているが、存在者はこれを捉えることが出来ない。

これをこそ存在者の基盤の上に重くのしかかかる<前-存在者性>というべきものである。

この<前-存在者性>は純粋に私と呼べるようなものではない。更に、私以外の誰それというわけでもない。マリオンは、端的に、<存在の問い>を、「蝶番のように存在している。」と記しているが、しかしこれは、この<呼び求め>、<前-存在者性>すらも、蝶番のように存在している。そこにつながれているのが対象化された<私>である。

対象化された私というのは、つまり、この<呼び求め>、<前-存在者性>に対象化されているところのものである。マリオンのいう、<呼び求め>つまり、この<前-存在者性>が私に<呼び声(呼び声の不在でさえ)>を送付する。私はこの送付に対してどのような態度を取るかということを強いられている。私はここでもっとも思い切った形でこれを言わなければならない。この呼び声を送付された私の態度決定、回答は、既にして終わっているといってもよい。世界があることの知覚は既にして、物理的にいって、世界の客観的、超越的にはすでに終わっているものを人間存在は知覚している。これは世界に対して存在者が遅れを取っているということと同じである。

 

それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。

 

しかし、この私はこの関係性の前に於いて、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。それは半開の無知によって成し得ている。この様相は以下のような構成になっている。

 

この<強いられ>という状況、<呼び求め>から<存在者>が生起する。"呼び声を聞かざるを得ない者"として生起する。

 

この<存在しない私>を立てることができるのは、<私自身>が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているからに過ぎない。ここで類といったのは、私そのものは単独者として、純粋に"私"ということが、できないくらいに、世界との関係に強いられているからである。

 

つまり<私自身>でしかないような、純粋自我などのような存在者というものは最早存在し得ない。

 

私は一人称単数であっても、<前-存在者性>は変容し続ける三人称複数によって存在している。”に対して”存在している、ということはもはやここでは意味を逸失しているだろうか。

 

<前-存在者性>を存在者は捉えることが出来ない。それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。

 

<私自身(前-存在者性)>は便宜上、1人称単数の形をとっているが、この箱の蓋を開ければ、<三人称複数> なのである。それは非人称的な〈類〉である。恐らく、存在者が神のような絶対者を必要とするのは存在者が根源的に<類>だからである。

ジュリアン・ジェインズのいうように、神からの声は、この前-存在者性から発せられていたものに過ぎない。

 

神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。全時空間的に存在しており、全てが成し遂げ終えているようなところのものである。故に神が存在するということは人間には認識し得ない。それどころか、神は存在者ではない。神はすべてを完了してしまっているが故に、全時空間的にあるが故に、何がしかの存在者ではない。神は驚異の念を抱くことができない。

 

人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。

 

関係<必然>としなかったのは存在者から見て、何事もその瞬間まで<偶然>に過ぎないからである。偶然と必然の遊戯は存在者の位相を取るか、世界の位相を取るかということであるだろう。世界は超越論的には必然であるが、その時が未だや来ていないという点で存在者の認識はすべて偶然的に映るに過ぎない。過去現在未来の時制は、存在者が世界を知覚する地点にしか存在しない。過去→現在→未来のようには時間は過ぎ去っていない。存在者の優位性はすべてを現下に引きずり出す性格によって、存在者は存在している。超越的に見て、世界は何らの時制をもってはない。存在者の過去・現在・未来は次のような様態で存在している。

過去が未来から現在に招来する形で現在に存在している。過去の過去性は厳密に完了していることであるが、世界は、なんら完了していないように見える形で存在者に送付されているが、すべてが完了している。ゆえに完了しているのは過去だけではなく、現在、未来、も既に完了している。これは存在者の意志ですら逃れることがない。存在者にはそうは映らないという点でのみ(未だ訪れていないという点でのみ)存在者の優位性は保証されている。

このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。

または半開的存在者。

またの名を<私>という。

 

しかし、<前-存在者性>と<私>の区別は一体何によって成り立っているのだろうか。これは意識が区別させるものなのだろうか。この区別に何らかの意味があるのだろうか。この区別は<私>を<前-存在者性>に対するようにして存在者が存在していることの謂われであろうか。仮にこの遮蔽幕を取り払い、<前-存在者性>を<私>と同一のものと見なすならば、我々は何かを得るのだろうか。それは、私を含めて、<世界>が<状態>としてあり何の差異も存在しないということと同じであろうか。<私>が現在も尚、この<前-存在者性>より生み出されたものだとして、<私>が、<私>と言うことの権利は残っているのだろうか。反応ではなく抵抗であるという点でのみ、私は私なのだろうか。前-存在者性と私の間に存するものが私なのだろうか。それは現存在と何が違うのだろうか。そこではもはや大した区別ではないのではないだろうか。人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。しかし、確かに存在の声、呼び求められるものとして、なお依然として、存在者としてあるというこの事態。

映画 「エヴォリューション」

 

これから書くことは、まだこの映画を見ていない人、今後見る予定がある人、または、見る予定がないとも言い切れない人は見る必要がない。更に実際にこれがネタバレなのかどうなのかは私の知ったことではない。

 

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この映画は海の中の視点から開始することで、

観客をイノセントへと引きずり戻すことから始める。

 

ヒトデは種類によって食事の方法が異なる。

一つは口を使って多くの種がそうするように、捕食するもの。

もう一つは口から反転させた胃袋を出して、捕食物を多いかぶせるようにして捕食するもの。

 

あの赤いヒトデはどちらの種に属すのかは知らないが、

この映画はまさに後述のヒトデのような映画である。

反転したイノセント。

反転したイノセントというのはグロテスクである。

イノセントということとグロテスクであるということは同じところに根を持つものであるように思う。

主人公が見た海の中の死体が彼をイノセントへと、グロテスクへと引き戻す。

 

人間の暴力性の発露は自分より非力な生き物を殺す快楽によく見られる。

この暴力性は大人や友人よりも自分が非力である存在であることを隠すために現れる。

守られていると感ずるときむしろ人はそれなりにそれに対して反逆したくなるものなのだ。

 

人は何故ヒトデから受けるグロテスクな死の見た目が反射し、自分も同じように肉が抉れることを想像をできるようになるのか。グロテスクは、自分の肉体もグロテスクであるということを知るのは虫や動物を殺してみることでわかる。そして自分の肉体がグロテスクであると知るのはいつどのようにして知るのか。

これは自分が怪我を受けるときその外傷を見てグロテスクであることを知る。

つまりグロテスクが現れるのは自分の肉体がグロテスクであるという前提を得てグロテスクは作動する。

 恐らく、自分の外傷を観るのでなければ、つまり内部にある血肉を見るのでなければ、人はいくらでも暴力性やグロテスクを平気で眺めることが出来る。つまりグロテスクはそこでは作動しないのではないか。そこではイノセントとして現れる。

 

ここでヒトデの話に戻れば、ヒトデというのは血液を持たない。ヒトデは栄養を運ぶのに外部世界である海水を利用している。更に、ヒトデは身体が切断されると一匹のヒトデが分離し二匹のヒトデとなる種が存在する。この分裂したヒトデは元のヒトデから分裂したヒトデであり、生殖を介さずにこの世に現れ生きている。

 

したがって、主人公の腹の中に眠っていた子、そしてまさに主人公本人も含め、

あの島の子供はヒトデの再生能力、分裂から生まれた親を持たない子である。

つまり何かの分裂体でありコピーである。

 

失われた父性。

それなしで済まされるなら、そうしたい全て。

恐らく複製とグロテスクとは似ている。

アンディ・ウォーホルが行った複製によるグロテスク、表と裏の反転はそういった類のものである。 

根源があるという幻想と根源がないという幻想は、世界は連続的であるか非連続的であるかというものと同じである。

 

エヴォリューションの語源はラテン語の"evolve"「外に開く」であり、この「開く」はこの映画に多く現れる。開かれる腹、開かれる主人公の眼、眼前に開かれる文明世界。

 

開くというのは無論閉じられていなければ開かれない。

開かれていなければ閉じることができない。

あの島は閉じられているように映り、あの文明世界が開かれているように見えるのであれば、我々の眼はすでに閉じられているに等しい。

 

我々観客は主人公と同じように海の上のボートから眺めるのように、

閉じられた映画館の中で彼岸であるこの映画を観ることしかできない。

しかしもう間もなくこのボートは彼岸であるこの島に到達してしまうのではないだろうか。視点が違うだけで主人公と同じボートに乗っていることに変わりはない。

 

ヒトデと同じようにこの血液も世界を通して私の血として今も流れている。

どれだけの人の血が混じっているのだろうか。

このうようにどちらの世界がグロテスクでどちらの世界がイノセントかという問いは意味をなさない。あらゆる過剰の中で根源を失い、内部は外部となってすべてが晒されたとき、まさにこのことによって形成された内部は、恐らくもう何も愛すことなどできない。まるで反転性裂体のようだ。

サルバドール・ダリ

 

昨日はダリ展に行ってきた。

ダリは1926年にダリになる。

 

最初に断っておくと僕は美術について、絵画について、何かの知識を持っているわけでも、絵を描くこともできない。

 

 ダリがダリになった。

僕がそう感じたのは「巻き髪の少女」というタイトルの絵を見たときだった。

1926年に描かれたこの絵からダリの絵は明らかに立体的になる。

今回のダリ展で壁に掛けられた絵を順番に追っていく。

すると、この絵が突如現れた。

極端に背景と物体が切り離されている。

背景と物体が似つかわしくない、溶け合っていないというわけではないのであるが。

 

ダリがダリらしいのは背景と対象物である物体との境界線、物体と物体の境界線にあると思う。

はっきりとそれらが切り離されている。

別々に書かれた絵をうまく切り貼りしているように見える。

 

ダリは「一つの絵」という印象よりも対象物をそれぞれに配置しなおし、それをそれとしてそのままにしておく。そしてそれらを結合した時に「一つの絵」となっている。

 

アンリ・ベルクソンは我々は何かを認識するとき、その何のある部分を順番に認識することしかできないということに苛立っていた。つまり、全体としてそれをそれとして、そのままに認識することができないということに。ベルクソンは分割不可能なものとして音楽のメロディーというものを参照する。分割不可能なものとして。音楽のメロディーというものはそれを分解してみても音としてあるだけで、メロディーの意味を取り出すことができない。何かのメロディーを思い浮かべるとき、時間の力を借りなければ、つまり順番にメロディーを辿るのでなければメロディーを認識することはできない。メロディーはある部分から部分の流れとして、認識するのでなければそれはただの音に過ぎない。音楽家というのはよくこの落とし穴にはまってしまう。

 

そういった意味で、ダリはメロディーとは真逆の絵を描く人であろうか。

恐らくメロディーを作り上げる上で彼はまったく常人には思いつかない方法を取っているような気がする。分割と統合を繰り返した末に、ダリは描く前に一個の巨大な絵を見ている。

ダリは対象を一つとして捕らえることを人間ができないということをよく知っている。

ダリの絵は他の絵画よりも絵を分解している。ダリの絵を視るとき、全体を捉えるというよりも、それを一つ一つ細かな部分を別々に視ることを要求する。

ダリの絵を「一つの絵」として、つまり全体として捕らえることはとても難しい。

何かがあって何かがあるからこれがある。というような論理的作用を常に解除する。

しかし、それでも尚この絵が、一つの優れた絵以外の何物でもない、この統合の力は一体なんなのか。

 

1923年の「キュピズム風の自画像」なども確かにシュールレアリスムとしての機能を十分に果たしているとても素晴らしい絵である。音楽で言えば「ノイズ音楽」として君臨している。しかし、それは抽象の域をでることがない。

 

「巻き髪少女」についてもう少し、述べるならば、巻き髪の少女の郷愁である。

あの絵を見たとき、旅に出る少女が最後に故郷を振り返った瞬間だろうか。

ある種の故郷との決別。連結の解除。そういった意味でもこの絵は、ダリがダリである境界線となっていると思う。ダリはこのころから徹底的に意味を見ている。

 

もう一つ、ダリ展で感じたことは、澄んだ青空のことである。

ダリはよく青空を描く。

あの青空だけを見ればとてもきれいで純粋な印象を受ける。

しかし、ダリはそこに奇妙な連結の失敗のような対象物をそこに配置することによって、一挙に不気味さに変わる。不気味なほどに住んでいる青空。

あの青空と対象物は乖離し、その乖離が僕らにより不気味な印象を与える。

一種の葛藤として現れる。その時、あらゆる物体を繋ぎ止めていたものが解除され、分離されてゆく。しかしこれらを尚も「一つの絵」として繋ぎ止めているのは、絵の色調であるかもしれない。ダリは色調のみで、これらをぎりぎりで繋ぎ止めている。それもある確かにある。しかし、そういった技法的な何かでない、根源にある葛藤を正確にそのまま表出するということ。恐らくダリは殆ど天啓のようなものを聴いており、また見ている。”不気味”というのはなにも暗い色、暗いイメージだけからなるのではない。一般的に不気味さやホラーというものは暗がりの中から現るのではあるが、それは一つの一般的イメージにすぎない。これが多数である。しかし、それとは反対に白からなる不気味さ、というものがある。なかなかそういったものに出くわすくとがないので、僕らはよくそれを忘れている。それだけにダリの絵はより一層不気味なものとして目の前に立ちはだかる。

 

僕が思う優れている作品というのは、圧倒的な絶望のなかで、崖の淵で、追い込まれていることをわかっているのに、それでもなお笑っているような作者が見えたときである。

 

ダリは明らかに「連結への解除」を欲している。

「繋がっていること」を拒絶している。

しかし、本当はどんな分離も我々に一つの意味として、そこに確かにあらざるを得ない。

ダリはそういった連鎖の解除をしても、どうしても連鎖するこの現実に、

絶望の中で笑っているのである。

 

そういえば、Cocteau Twinsの「Bluebeard」という曲はダリの描く青空に似ている。

タイトルBluebeard、青い口髭。

 

 

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