無3

信号のない十字路で、普段なら気にも留めない赤い逆三角形の『止まれ』の道路標識が視線に飛び込むと、私は歩を止めなければならなかった。右からエンジン音と共に、アスファルトを僅かに揺らしながら、バスの黒いガラスに自分の姿と一人、斜め後ろにスポーツウェアを着た女性の姿が映った。ランニングだろうか。バスが通り過ぎるのを待っていると、いつの間にかその女性が私の足と平行線を結んでいる。三十半ばくらいだろうか、私の隣から彼女が無表情のままにこちらを覗き込む。すみません、宗教なんですけど、というその妙に言い慣れた口調に少し遅れて、皺一つない顔に浅く笑顔を書いた。普通であれば少し隠そうとするような気もする。スポーツウェアと宗教勧誘のアンバランスに、道路標識のような単純明快な勧誘の言葉にあっけに取られていると、私の左手を指さしながら次に彼女が発した言葉が、ケスクセ?ケスクセ?だったものだから、何が何やらわからず、すっかり気が滅入ってしまった。呪文のようなカタカナが「Qu'est ce que c'est?」(ケスクセ?(それは何?))のことだとわかったのは、彼女の人差し指と、大学で少しだけフランス語を囓っていたからだった。しかし彼女は、どっからどう見ても日本人だった。私は左手に何も持っていなかったし、もう殆ど覚えていないフランス語を使うのもなんだか癪なので、流暢な日本語で、何がですか?と不機嫌に言葉を投げると、彼女は書いた笑顔を消してつまらなそうに俯き黙った。そうこうしているうちに、エンジン音が数台、耳を通過する。しゃべりだしそうにもない彼女を尻目に、僅か数メートル先が遠い。交差点の向こう側の景色をぼんやり眺めていると、何の咄嗟もない滑らかな現実に、全てがあざとい記号のように見えてくる。ふとガソリンの匂いがした。諦めたのか、ふと横のスポーツウェアを見ると、今度は無表情のまま、私の顔を虚ろな視線が貫いていた。スローモーションのようにゆっくりと、彼女の唇が上下に割れ、おそらく彼女の言葉がこの十字路に響くはずだった時刻を前に、赤色の爆発音が燃えた。もう彼女の姿はなかった。私はくの字に腰を曲げた『止まれ』の道路標識から導かれるように左手に視線を落とすと、真っ赤に染まった左手から微かに生臭い液体の臭いを嗅いだ。

無2

今日は待ちに待った土曜日。お爺さんが茶色い葉の混じった黒い液体に顔を突っ込んでいた。新宿駅の東口へと階段を上り、左に沿って歩くと喫煙所。2年ほど前に私は煙草をやめていたが、友人のyが「喫煙所へ行こう」というのでついていった。yはさっきキオスクで買った100円ライターをポケットから取り出して火を着けた。今日は風が強く、何度もホイールを回すが駄目なようだった。煙草に空いた手を添えてほんの少しだけ向きを変える。また向きを変えて親指を擦る。また向きを変えて親指を擦る。しまいには一周していた。少し風がやんだところでようやく煙が流れた。二人組の清掃員のお爺さんが灰皿の交換をしにやってきた。清掃員のお爺さんが灰皿のステンレスの扉をめんどくさそう「バン!」と開けたその勢いで、吸い殻の溜まったニコチンとタールの黒い液体の入った缶に顔を突っ込んだ。ゴボゴボと音を立てていました。しばらくして顔をあげて「ねぇ、助けてくれ、ねぇ、助けてくれ」といってまた顔を突っ込んだ。3分ほど繰り返された。みんな行儀よく煙草を喫んでいた。もう一人のお爺さんはしかめっ面をして片足を前に出したり引いたりしていた。音が鳴りやんだ。カップラーメンができるようにお爺さんの死が沸いた。私とyはもう爺さんの顔を見ることはなかった。もう一人の清掃員のお爺さんがガラケーを取り出して慣れない手つきで救急車を呼んだ。少なくとも私とyはただ驚くわけでも助けるわけでもなくただの観客だった。yは投げ銭でも入れるかのようにお爺さんの顔の混ざった液体に灰を入れた。私は久々にいい映画を観た気分になっていた。救急車が来る前に私とyはその場を離れた。その足で16時20分、私とyは最新型の3Dの映画を観たが何も面白くなかった。

無1

どうせ退屈な休日が始まると思って居た。仕方なく13時に眼を擦りながら布団から零れるように這い出る。眼を擦る。もう何度も違う生活をやり直すことに失敗している。計画も立てず、同じような休日がカレンダーに色を塗る。冷蔵庫にあったオレンジジュースを注ぐ。時計を見ると14時になっている。どうすればこれだけで1時間も経過するのか理解に苦しむ。例えば外に出てみる。いつもと変わりがない。最寄り駅まで歩く。変りもしない憂鬱の重力に負けた頭をなんとかして持ち上げてみると目の前に、穴の空いた黒い日傘を差した男が、その隙間から流れる僅かな光を浴びながら、白い街路の味のしない平面から、迫り出して歩いている。僕と同じ方向を歩いていた。形がはっきりしない。なんだかうまく説明ができない。輪郭がぼやけて居る。その男は私と同じ方向で、だいたい同じような速度で、5mほど前を歩いている。センテンスが破れる。近所のおばさん二人が話しているのが聞こえてきた。「豆腐屋さん、きたわよ。」見るとリヤカーを押してなんだかよくわからない小さなラッパを片手に、道路の端っこを申し訳なさそうにとぼとぼと歩いている。僕はまた顔を地面に落としたまま歩く。「ねぇ、なんでそんなに元気がないの?」誰に言っているのかわからなかった。豆腐屋の兄さんに言っているのか、僕に言っているのか。何か反応しようと頭を回してみても何も出てこない。すると豆腐屋の兄さんが僕より先に口を開いた。「ねぇ、なんでそんなに元気がないの?」同じことを豆腐屋の兄さんが言った。

近状_雑記

存在から本質を引いたとき、なおもそれはそれか。
例えば、レモンは黄色い、あの形の、酸っぱい、などあるがこれらはレモンの要素であって、レモンの本質ではない。であれば、植物の分類学における定義だろうか。しかし恐らく植物学の定義も述語の集積にすぎない。であれば本質とは一体なんのことか。
おそらく本質とは意味であって、こういった述語の定義による集積などではない。
われわれはすでにレモンとオレンジを瞬時に区別しうるのであるが、
この区別、判断は、レモンではないがほとんどレモンのようなものに対して無力である。もはやレモンでないということには意味がないのである。
ところでこれらを正確に区別すべきだという声があがるだろうが、それは明らかに不便である。よって大抵人間はそこでやめるのである。ところが専門家の眼にはレモンにも様々な種類がある。このレモンの差異は、レモンはレモンであるという知よりも更に深い知に依存する。レモンであるが〇〇レモン、××レモン、というように品種が存在する。このような知によるレモンの分断は、つまりそういった色々なレモンがあるのは、人間の認識によって差異化し、個体化する。人間が見ているのは実在というよりも寧ろ観念的な意味だからということになる。同じ農園で同じ時期に収穫された二つのレモンの差異は、プロによって見分けられ得る。そこになんらかの差異を見出しうる限り人間はそれに対して、あれとそれとは異なる、というのだ。ところでプロでなくともあのレモンとこのレモンは、あのレモンとこのレモンという意味ではすでに違うレモンなのである。フッサールが形相的還元として言いたかったことは、一旦何処かで差異を消すことで、認識は学へ到達するということであって、カテゴリーとして、小さな差異は一旦置いておいて、あのレモンも、このレモンも、とりあえずレモンだということだ。レモンがある、というのは人間の認知の特性である。つまり個体化作用である。そもそも人間の認知なしに、レモンがレモンであることはあり得ない。この意味でガブリエルは正しい。レモンがレモンであるのは人間の認知の総体として、それはレモン足り得る。ここでライプニッツの個体概念は危うい。しかし、レモンがレモンとしてあるのは人間の認知によるものだとしても、当然のことながらレモンが人間の認知によって実るわけではない。人間の認知がレモンそれ自体に先行するわけではない。しかし、本質とは意味であると言ったところで何になるだろうか。とりあえずのところ述語の集積が本質に達するように思う。ここに存在者と存在の区分が見て取れる。ある何かの本質substantialは一個の何かではない。

 

ここであえて、ニーチェにおいても現象学は見られる。

ロラン・バルトが引用している。この認識は絶対的に正しい。

 

14.テクスト(の理論)

ニーチェが、ものたちの粗雑なかたちの彼方に知覚することを求めた、あの精妙な生成の学)である。「<…>われわれは、生成のおそらく絶対的というべき流れを見てとれるほど精妙ではない。不変のものが存在するのは、もっぱらわれわれの粗雑な器官のおかげにすぎない。われわれの器官はものたちを要約して一般的なレベルに還元してしまうけれども、そのようなかたちで実在するものなど何一つないのだ。木はおのおのの瞬間ごとに新しいものになる。われわれがそれをかたちだと言い切るのは、絶対的運動の精妙さをとらえていないがゆえなのである。」テクストもまたこの木である。われわれはその(かりそめの)名を口にするが、そのようなことができるのは、まさにわれわれの器官の粗雑さゆえにほかならない。

 

 

例えばドイツ、独裁者、と言ったところで、ヒトラーを想起することは容易い。

三角形の定義も同様である。
これが述語の集積が本質に達するということであるとする。
犯罪者の特定は現行犯であろうとも、このようにして特定される。
つまり、どんな逮捕も、述語の集積が証拠なのであって主語それ自体ではない。
現行犯での逮捕も、殺人の瞬間からは時空間的に隔たっているからである。
未遂で逮捕されるのは、殺人の瞬間をとらえられないからである。

 

1850年頃にフランスの都市化が進み、風景画は都市の絵も風景画として包括するようになった。VR空間も風景画になる。というよりVR空間の絵を現実の今までの絵として描くのではなく、VR空間にVR空間のミメーシスとして別のVR空間が描かれるのが現状である。


第一原因があるならば、それが神だろうが神じゃなかろうが、その第一原因の所為なので、たかだか人類に責任など存在しない。
不便なので責任があったりなかったりするだけである。つまり、自由意志への信仰である。

 

フーコーbotでこんな記述を見かけた。

 

権力の問題、政治権力の問題を統治性という問題の中に置いて考え直し、権力関係の流動的で、変更可能で、可逆的な側面に注目するならば、統治性という概念は主体という要素を理論的にも実践的にも経由せずに済ますことはできない。この場合主体は自己の自己への関係として定義される。

-主体の解釈学- ミシェル・フーコー

 

自己の自己への関係においてしか、政治的権力に対する抵抗点、第一にして窮極の抵抗点は存在しないとすれば、自己の倫理を構成することはおそらく緊急かつ根本的な課題であり、政治的にも不可欠な課題である。

-主体の解釈学- ミシェル・フーコー

 

ところで権力の維持は主体を経由するのは当然のことであるが、権力はつまり主体の欲望がシステム化したものともいえるだろう。安定した権力はシステムとなり自らを欲望する欲望として自動円環となる。例えば、企業においても例外ではない。資本主義においては貨幣が貨幣を欲望するのである。ところでこの欲望は共同体の欲望としてシステムとなるのである。従って、権力への抵抗は自己の倫理を改変することである。ということである。このようなことはガタリドゥルーズのアンチオイディプスにおいても語られていることである。

 

仮説

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たとえばこのような図はどうか。人間がどのような状態にあるかについての認識である。これをまとめて決定論現象学存在論と呼びたい。

人間は存在に十全に到達しないという意味で、知覚から存在への矢印は破線とする。現存在から存在者も破線にすべきだろうか。存在者は観念を含む。存在と存在者が分離し得るのは人間の知覚によるからであって、基礎的存在論がどうしても人間中心主義にならざるを得ない理由である。ここにおいてフッサールハイデガーの内部で現象学に対する解釈が揺らぐが、基礎的存在論現象学から出ない。また同時に現象学は基礎的存在論から出られない。

ここを突破するにはつまり、存在者/存在を分離することなく、認識しなければならない。つまり、世界は存在者か存在のどちらかしか存在しない。素粒子以上の個体論に陥ることなく、記述しなければならない。しかし人間の知覚が全体を記述するこが不可能であることから、フッサール/ハイデガー以降、形而上学はこのアポリアに引き裂かれている。現存在は存在に還元されているのであって、人間の知覚や思考もそれを免れるものではない。つまり、先ほどのフーコーに逆らって、現存在のこの様態がすべて素粒子などによる自動円環的なシステムであるとしたらどうだろうか。

 

意味1

テクストそれ自身は時間を持っているといえるだろうか。それはそれとして、例えば、こんな文章にもすでに時間がながれているのだろうか。分かりやすくいえば、小説や映画のフィルムは再生されるとき時間が現れるような意味での時間。これら小説やフィルムは、読まれずに、誰にも見られずに、すでに時間が内包されているのであるのだろうか。こうして書いているうちに既に私は時間が経過するのを感ずるし、この文章が読まれることにしても、順序を追って話すことによって、文そのものの中に時間の流れができあがってゆくとでもいうのだろうか。世界の到るところで起きている全ての出来事に思いを馳せるならば、私なしでその時間は体験されている。いろいろな時間がある、といった場合、端的にいって、独立したたくさんあり、時間が世界に散らばっているということではない、というようにとらえられている。つまりそれはベルグソンのいう意味で時間を空間化(事象化/体験化)したときにおこるということに過ぎない。さて、文章は上から下へ、左から右へあるいは左から右へというように順に読まれていくことによって時間が顕在化しているのは確かである。意味が流れるとき時間は流れうる。作品とは、普通の意味で世界に流れている時間とは別の時間を、人間の内部に表象するもののことである。作品は反復されうる。つまり読み返したり、思い出したりして、反復される。つまりそれは間違っているか正しいかということを抜きにして。そうであれば、作品と言わずとも、われわれは、各々さまざまな体験をし、それが思い出し得る限りで記憶となり、反復しうることがある。ところで今というものが今現在という点だとすると、われわれは現在を意識することなく現在している。われわれは間断なく(少なくとも私が認識しうる限りで)未来へ移行している。しかし何らかのある認識は、現在が切り落とされた地点で、過去と未来へ接続し、ある幅をもって現れる。通常「ある」ということに限るならば、点のような現在以外は常に世界から消え去り、世界から脱落している。われわれの認識は絶対的に世界の事象から遅れている。何かが「ある」という場合、若干の過去と未来を連接し「ある」だろうものを、「ある」といっている。ところで点のような今現在をこうして被っているのではあるが、人間が抵抗しうるのはこのような働きのためではあるといえるだろうか。人間の自由意志を認めるというのはこの現在のやり直しに対して認めている自由意志論者と、やりなおしそのものが自由に変更できる(つまり、思考がそれに自力で逆らうことができるという意味での自由意志論者がいる。)ところで後者に対し、あまりにも短絡過ぎると昔から言っているのである。まぁ現在に対してはあまりにも無力なので言葉もないのだが。ところで時間があるとはいったいどういうことなのだろうか。時間それ自身に対して私には何もわからない。何かが分かる、何かを知っている、というのは事象の周辺知識のことでしかない。まぁ知識がそもそもそのものの周辺のことを指しているのではあるが。

ロラン・バルトへ

 

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内側から見てドアが開いているとき、外から見たドアは閉まっていると見せかけて、普通に開いているものである。ところで何かを考えるには遮断する必要がある。遮断するとき人は襲撃される。なぜなら遮断されている場こそ襲撃には都合がよいからである。思考が開始するのは襲撃されるからである。したがって意思することを意識しても開始しない。cultureには斜線が引かれる。cult/ture。従ってカルトは開始される。人は宗教的なものを嫌うというよりは神秘的なものを排除する傾向にある。なぜならばかばかしいからであり、裏切られるからである。しかし、人間が神秘的なものを信ずるのも無理はないのである。なぜなら人間にとっての世界は、現在以外のすべてが世界から脱落するからである。従って、最早ほとんど何もない地点に立ち続けることを強いられている。
過去を呼び出すのも、未来を想起するのも、既に/未だないもの、"不在があること"に向かっているのである。従ってほとんどは信仰によるものである。信仰を廃棄する方法は幾つかあるだろうが、しかし、現在が現在である限り、つまりは意識が切断である限りは、信仰は存在し、人間はそのために生きているのである。信ずるには直視しないことである。我々は存在を忘却することができる。それはただ、思考しているとき、もっといえばそれに没頭しているとき、頭がない無頭人(アセファル)である。いや、法がないのだ。それはとても大事なことなのだ。何故ならば、没頭しているとき、それは憑りつかれることであり、そのとき人間は最も遠くまで歩いており、振り返ってみれば存在が消え去っていたことに気づくのだ。現代に足りないのは憑依であり信ずることによる、common senseの忘却である。ところで供儀は人目につかぬところ(遮断)された場所で行われる。

 

そんなことはさておき、


バルトについてもう少し書きたくなってきたので、もう一度書こうと思う。
『彼自身によるロラン・バルト』、原題は『Roland Barthes par Roland Barthes』である。さてこの原題を〈”彼自身”による>としたことを評価したい。最近読んでいる書物から幾つかを引用して留めておくこととする。二つだけ、言っておきたいことがある。
一つは彼の引用にある、”君”や”彼”などの人称代名詞はバルト自身を示す(厳密にはこれはもっと入り組んだ問題なのだが)、ということであり、もう一つはこの書物は精神分析的な意味での父(法)との対決であり、彼はこの書物において自らを殺人するつまり、主体の消去を目指いているのである。創造された主体の破壊。したがって、ないものを破壊する行為となる。しかし、これは循環する。つきまとう主体。生成され続ける主体の消去。当然これはロラン・バルトが生涯においてそうしてきたのである。
私はただただこれを畏敬の念で讃えたいのだ。優れた書物を読んだという感慨を受けるとき、最早存在には書くべき言葉などほとんど残されていない。

 

私は長いあいだ引き出しのなかに、この私自身の一片、料理の子羊のあばら骨に似た、ペニス状の骨を、しまっておいた。それをどうすればいいのかわからないし、私自身という人物に対する権利の侵害になりそうで気おくれし、厄介払いをするように捨て去る気にもなれなかったのだが、だからといって、そんな風にして私自身を机の中に、古い鍵、学校の成績表、真珠のような光沢のダンス・カード、私の祖母Bのばら色のタフタの名刺入れといった「貴重品」類とごたごた一緒に閉じ込めておくのも、かなり無益なことではあった。そのうちに、ある日、すべての引き出しの機能は、さまざまの品物が無用となった後それらを一種の敬虔な場所、ほこりっぽい教会堂の一種へ移して、それらの死をやわらげ、なじませてやることにあるのだと気づいた。そういう場所に置いて、それらを生きたまましまっておくという口実のもとに、それらに対してさびしく静かな死期という気高い時間を用意してやるものが引き出しなのだ、と気づいたものの、その私自身の断片を、建物の住人共用のごみ入れに捨ててしまおうとまではさすがに思い切れず、私はそのあばら骨とそのガーゼをバルコニーの上からほうり投げた。ちょうど、ロマンティックにも私自身の死骸の灰を、セルヴァンドーニ街の通り、どこかの犬が嗅ぎつけてやってくるに相違ないところへ、撒き散らしたのだとでもいうように。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

ロラン・バルト自身が、肺結核の治療の末、スイス人の医師に肋骨の一片を持ち帰らされた話である。バルトはこのことを「私の身体は私の所有に属する」と宣告されたようなものだと振り返っている。しかし、彼はこのとおり、外に投げ捨てるのである。バルトのタナトスが見えないだろうか。”死をやわらげ、なじませてやることにあるのだと気づいた。”への拒否。ここでドゥルーズを引用しよう。(孫引きだが)

 

欲望は死でさえも欲望する。なぜならば死の充実身体は欲望の不動の動者だからだ。ちょうど欲望が、生の諸器官が作動中の機械(working machine)であるゆえに生を欲望するように。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』

 

ナルシズム的自我と死の本能とのこの関係は、フロイトが次のように言う時に深く強調するものだ。彼は、リビドーは脱性化し、本質的にタナトスに従属しうる移動可能な中立的エネルギーを形成しない限りは、自我へと逆流しないと言う。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』


さて、これを含めたうえで、先ほどのバルトの行為は、自我への逆流の結果かということはここでは置いておくとしても、タナトス、死の欲望は死を通過する欲望である。つまりナルシズム的とは当然自我への逆流の現象であり、死の欲望と対象的であるように思われるが、全ての対象的といわれるものは自ずと増大すれば増大するほどに両者は近接し融合するものである。ところでラカン想像界を超えるもの、あなた/わたしを超えるもの、鏡像段階の契機を第三のもの、父という法に見ていたのであったのだが。
自我を流通回路へ再度返還するという動きがある。

・価値から理論への変換 Conversion de la valeur en théorie

"価値"から”理論”への変換(うっかり、私は自分のカードに記されている変換[コンヴェルシオン]を
「痙攣[コンヴュルシオン]」と読んでしまったが、それも結構)。チョムスキーをもじって言ってみようか、
すべての”価値”は≪書き換えられる≫(→)”理論”へ。この変換ーこの痙攣ーは、一種のエネルギー(≪エネルゴン≫)である。
すなわち言述は、この翻訳、この想像的転移、アリバイ創作によって産出されるのだ。価値から身をおこした理論が
(だからその理論の根拠が薄弱だということではなく)ひとつの知的対象となり、それからその対象は、
いっそう大型の流通回路に取り入れられる(それは、読者による別の≪想像界≫にめぐり会う)。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト 

 

ここにはひとつの困難がある、価値から理論への転換。それは何らかの理由付けである。理由をつけることとは一体それがどのようにあるのかを連結することである。
しかし、それは他者にわかるようにしなければならないということであるが、バルトは書き換えられるといっている。価値から理論へという流れは同時に、私にとっての価値でもあるのだからそれはある種の自我への逆流と呼んでもよい。ずらしながら"流通回路"へ再度返還するというこの"アリバイ創作"。

 

自我は同一化の堆積であり、いわば玉ねぎの皮のようなものである。ラカンの自我は、外部からやってくる。他者のイメージとしての自我。しかしその外部からやってきたイメージを受け取る能力は人間に備わっているとする。ラカンはそれをゲシュタルトという。フロイト/ユングではそれをイマーゴという。

 

ラカン入門 / 向井雅明』

 

人間は自らの外部に位置する像に自分を同一化し、疎外的に自分自身を作りあげていく。鏡はその一つの媒介にすぎない。

 

ラカン入門 / 向井雅明』

 

鏡の中のイメージは「私のものか、お前のものか」という双極的(dual)な競合の中に投げられる。そこで象徴的なもの(Le Symbolique、象徴界)に移行することが必要となる。

 

ラカン入門 / 向井雅明』

 
ところでこれらのテクストからバルトが行っているのは法の破棄である。
玉ねぎの皮としての自我の堆積は無限運動する流通回路となる。
無限に羅列を重ねることは歴史学ではなく、むしろ博物学に属する。
それは最終審級を他者に譲る供儀でもある。

・異なる弁証法


どこから見ても、彼の言述は、二項形式の一種の弁証法にもとづいて進行しているように思われる。
その両項とは、たとえば、世間の通念とその反対のもの、≪ドクサ[一般的な意見]≫とそれに対するパラドクサ[反対意見 逆説]、ステレオタイプと革新、疲れと新鮮さ、好みと嫌悪すなわち≪私は愛する≫/≪私は愛さない≫。この二分制の弁証法こそ、意味の弁証法そのもの(≪マークあり≫[有標]/≪マークなし≫[無標])であり、フロイトの遊びのそれ(≪いない≫/≪いる≫[フロイト『快楽原理の彼岸』])そのものである。つまり価値の弁証法である。しかし、本当にそうなのだろうか。彼の場合は、もうひとつ、別の弁証法が輪郭をあらわし、次第に言表されようとしている。彼の目から見ると、両項の矛盾はやがて発見される第三の項に席を譲るのではあるが、その第三項は綜合ではなく、≪方向をそらすこと[的はずれ]≫なのだ。あらゆるものは回帰する。が、"虚構"として、すなわち螺旋の上の次の周へ回帰するのである。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

かくして、一義性は存在と意味、<一>と多という二つの面を備えた「存在論的命題」ということになる。したがって「である(est)」に対するドゥルーズの批判、すなわち、「である」は形而上学の第一原理であり、これがあらゆる形而上学を塞いでしまうという批判によって、存在論の必要性が改めて疑問視されると考えてはならないだろう。確かに、一方では、多のただなかで諸関係の理論を優遇するとき、「である」[存在論]は消失してしまう。諸関係は結びついた項たちに絶えず外在するゆえに、多様体は純粋な外在性における諸関係の相対以外の何ものでもないと言えるからだ。ドゥルーズはヒュームの経験論のうちにこうした考えを求めようとする。諸原理に代えて、観念と状況の諸関係を用いること、「「である」を「と」で置きかえること」。これこそが、本当の意味での「諸原理に対する生の抗議」である。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』

 

ところで「est〔である〕」から”s”を取ると、斜線を引くとどうなるか。
「et〔と〕」である。偶然か、意図しているのかは知らないが。
これはラカンに似ているではないか。”S”とは主体である。
さて玉ねぎの皮である主体は消去されるが、しかし”と”である”の無限運動は免れない。
Sは消えては現象することを繰り返す。注意しなければならないのは主体は消去されうるとか、主体は消すべきだ。といっているのではない。なぜなら主体は鏡に反射する幻視だからである。世界無しで思考が発動することはありえない。哲学はただ単に思考から、思考においてのみ生起する。モンテベロはハイデガーに倣ってこういう。

 

しかしながら、思考とは、存在の思考のことである。言いかえれば、思考が生起するのではなく、存在が現生するかぎりで、思考が存在するということなのだ。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』 

 

 

 ・断章がかたちづくる円環 Le cercle des fragments

 

断章によって書く。そうすると、断章の群は円周状に並ぶ小石となる。
私は、円を描きながら自分を繰りひろげて見せる、私のささやかな宇宙を粉々にくだいて。真中には、いったい何が?

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

この玉ねぎの皮の中心は一体なんだろうか。無論何もないのである。バルトはその透徹した目でディドロを引用しつつ、その中心を見る。

 

・分割された人格 La personne divisée


古典的形而上学にとって、人格を「分割する」ことには何の不都合もなかった(ラシーヌ、「私は私の中にふたりの人間をもっている」)。それどころか、ふたつの対立項をそなえたまま人格は、一個の上出来のパラディグマ(≪高い/低い≫、≪肉体/精神≫、≪天/地≫)としてまかりとおっていた。争い合う部分同士は、ある一個の意味、すなわち”人間”という意味を設立するに当たっては互いに手を組むのであった。だからこそ、今日私たちが主体の分割について語るとき、それは決して、それらの単純な矛盾やそれらの二重の公準系などを検出するためではない。目標は≪回折効果≫にあり、散乱であり、その散乱のあとにはもはや主要な核も意味構造も残らぬようにすることである。私は矛盾しているのではない、分散しているのだ。そういう矛盾の群を、君はどう説明するのか、どういうわけでそれらを許容するのか。哲学的には、君は唯物論者であるように見える(もしこの用語があまりにも古ぼけて聞こえるのでなければだが)、倫理的には、君は自分を分割している。すなわち身体に関しては君は快楽主義者で、暴力に関しては、むしろ仏教徒ということになるだろう! 君は信仰を好まない、が、儀礼についていささかのノスタルジーを抱いている、という具合だ。君はさまざまの反応[反作用]を集めた寄せ木細工だ。君の中に、いくらかでも≪独自の、最初の≫ものがあるか。

何か分類法を見ると、君は、それがどんなものであろうと、とにかくその分類表の中に自分を当てはめてみたくなる。君の位置はどこか、というわけだ。はなのうち、君はその位置を見つけたような気でいる。が、徐々に、彫像が風化するように、起伏が侵食され、平たくなり、その形をくずすように、ああるいはさらに適切な例としてハーポ・マルクスが、自分の飲んだ水の効果によってそのつけひげを失っていくように、やがて君は、もはや分類不可能なものとなる。しかもそれは、パースナリティーの過剰によるのではなく、逆に、君がスペクトルのあらゆる辺境部を遍歴するせいなのだ。すなわち君は、弁別的と称する特徴を自分の中にいっぱい集めながら、いざ集めてみるとそれらの特徴は、すでに何ひとつ識別させてはくれない。君が発見するのは、君が同時に(あるいは順ぐりに)強迫神経症的で、ヒステリー的で、偏執病的で、その上倒錯的だということ(色情的精神病には言及しないとしても)。あるいは、君がありとあらゆる頽廃的哲学、たとえばエピクロス主義、幸福主義、[誇張的でくどい]アジアニスム、[すべてを善と悪の二分制で割り切ってしまう]マニケイスム、ピュロン主義を加え合わせているということだ。

 

「≪すべては私たちの中で生成した。というのも、私たちが私たちであり、つねに私たちでありながら、しかも一刻たりとも同一ではないからだ。≫」(ディドロ『エルヴェシウスへの反駁』)

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

中央には何者でもないものが残る。残滓、"私たち"という残像である。
また、殺人現場に流れる血、痕跡としての乾いた血、それは彼だったものの血であると同時に、私たちの血にほかならない。
つまりロラン・バルトは”彼”なのだろうかそれとも”私たち”なのだろうか。
そして、これは当然ハイデガーフッサールの諸事象なのか事象なのか la chose même/les choses mêmeに回帰する。
血は痕跡を残しつつ空間に流れている。


ところで最初に殺人といった理由(アリバイ)は以下である。

 

・私ですか、私は[自我と私] Moi,je


人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私[je]は想像界を発動し、「君[vous]」「彼[il]」は偏執病を発動する。しかしそれと同時に、読み取り手によっては、ひそかに、モアレ[微妙に反映して見える波形模様]の反射のように、すべてが逆転させられる可能性もある。「私ですか、私は」と言うとき、「私は」は「私ですか」ではない、ということがありうる。つまり「私[私は]」が「自我[私ですか]」を、いわばカーニヴァルの喧騒のうちにこわしてしまうのだ。私は、サドがやっていたように、私に向かって「君」と言うことができる。それは、私自身の内部で、エクリチュールの労働者、製作者、産出者を、作品の主体("著者")から切り離すためだ。他方では、次のような現象もある。すなわち、自身について語らないことは、≪私は、自分について語らない"者"です≫という意味になりうる。そして、「彼」と呼んで自身について語ることは、私は私の自我について≪あたかもいくぶんか死んでいるもののように≫、偏執病的強調という薄い霧の中にとらわれているものであるかのように語っている、という意味になりうるし、それはさらにまた、私は自分の演ずる登場人物に対して距離設定[異化]をしなければならないブレヒトの役者の流儀によって私の自我について語っている、という意味にもなりうる。その流儀とはつまり、登場人物を「示す」のであって、それに化身するのではなく、また、せりふの言いかたにいわば爪ではじき飛ばすような効果を与えることであり、それは、代名詞をそれが代理している名詞から、映像をその支持体から、想像界をその鏡から、引きはがす効果のためである(ブレヒトは役者に、自分の役をいっさい第三人称で考えるようにすすめていた)。偏執病と距離設定法との間には、ものがたり性という仲立ちを経ての親近性がありうる。すなわち、「彼」という語は叙事的なのだ。つまり「彼」は意地が悪いということである。それは言語の中でもっとも意地の悪い語である。それは無=人称の代名詞であり、みずからの指向対象を無力化し、おとしめる。自分の愛する人に対して、うしろめたさを感じないでこの語を適用することはできない。誰かについて「彼」と言うとき、きまって私は、ことばづかいによる一種の殺人を目のあたりに見る。そのときには豪奢に、儀式めくこともある殺人の場面は、全体≪うわさ話≫なのだ。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

バルトが一歳のときにはすでに亡くなっている彼の父(法)は、おそらく、父がいる人間とは異なる法を生成する。この書物、 『彼自身によるロラン・バルト』、原題『Roland Barthes par Roland Barthes』は、この「彼自身による」 "par lui-même"のことである。彼は独自(彼自身)の法で彼を殺すのである。主体へと逆流する自我aに斜線を引くこと。S(a)、しかしそれでは十分ではない。Sへ斜線が引かれている。斜線を引かれた主体。欲望は死をも欲望する。欲望とは他者の欲望である。そういった意味で主体は「私のいない”私たち”」なのであって、Sに斜線が引かれているのである。そのときそれはもっとも神聖に彼(il)と言わざるをえない。無垢なAutreだけがある。誰もいない殺人の場がある。彼が彼として彼する場、最早、私たちではない(彼たち)。ただただ彼を畏敬の念で讃えたいのだ。