断片的小説

 十月の夜、この街は強すぎる街灯の光で活気にあふれていたが、それとは対照をなすように、家を失くした死体の群れ達の顔、刃物で切り取られたように痩せこけた頬は影を作りながら騒がしく行進を続けている。街のシンボルである時計塔の針は規則正しく動いていたが誰にも気づかれずに時間を失っているようだった。私はあの晩、一羽の巨大な鳥が時計塔の盤の中心に、嘴を突き刺しているのを見た。

 私は家へ帰るとあの時計塔の見たのと同じような鳥が、壁一面に嘴から突き刺さっていた。だが、あの時計塔のよりもずっと小さな鳩だった。私は何となしにその羽を撫でてみた。このまま摩っていれば灰のようになって消えるかもしれないと続けてみたが駄目だった。私は取り敢えずリビングのソファに腰を下ろし、テレビを付けた。通販番組だった。司会の男が掃除機を片手に話していた。「よくゴミが取れますね!この吸引力なら私の心のゴミも吸い込んでくれそうだ。」傍らにいた若い女性が苦笑いを浮かべながら頷いていた。私は段々と腹が立ってきたので、テレビを消して、風呂に向かうことにした。

着替えとタオルを大事そうに抱え、廊下を進み、風呂への角を曲がる。風呂場へ着いた私は、久々に湯船に浸かろうと考えた。上に乗っかった蓋を上げた瞬間、先ほどの鳩がぎっしりと湯船を満たしていた。「なんということだ。何処も畏も鳩だらけ。私の目の中に鳩でも詰まっているのかな。」私は裸のまま、風呂場をウロウロと円を描くように反時計回りに歩いた。三十周くらいしたところで目が回り、気分が悪くなって止めた。そうといって風呂に入らないわけにもいかない。明日は街が待った休日であり、私が好意を抱いている女が自宅に遊びに来るのだ。取り敢えず浴槽は諦めてシャワーを浴びることにした。

翌晩、彼女は私の部屋に訪れた。着いて早々、私は疲れてしまったわ、と呟いてソファに座ったかと思えば、直ぐに寝てしまった。私は冷蔵庫にあった、血のような安いワインを手に取り、冷蔵庫の上に置いて、換気扇を回す。それらを胃に流し込みながら、煙草に火を付けようと銀色のジッポーを手に取り歯車を回転させたが、火は着かなかった。どうやら石が切れたようだった。この部屋にあんなに転がっていたはずライターは、部屋中を探してもすっかり見当たらなかった。。

私は自宅から歩いて5分ほど、近くにあるタバコ屋へ向かった。外へ出るとすっかり寒くなっていた。それもそうだ、十月はもう半ばを通り越していた。石を買い、ついでに煙草をもう一箱買った。帰ってくると女はまだソファで静かに煩く寝ていた。石を補充し今度こそ火を付ける。この長方形の箱に描かれた鳥を見て思い出した。全く同じ鳩だった。この鳩は永遠に落下し続ける。鳩にはこの「Peace」という文字が一つの壁によって隔てられている。つまりこの鳩には「Peace」が見えないのだ。鳩に見えているのは何れやってくる壁との衝突。死。見えない平和。永遠にやってくることのない平和。この鳩が落下し衝突する時、この壁を突き破るだろうか。いやそれでも鳩は平和を見ることなく死ぬ。例えこの壁を突き破ろうとも。ということは死こそが唯一の平和だ。永遠の平和。虚無かもしれない平和。ロングピースに点火された火は葉を灰にしたところで、フィルターに止められた。「Peace」の文字も象徴の鳩も焼くことはなかった。そんなことを考えながら女を眺めていると、女の手に物々しい黒い汚れを見てとった。私はそれを拭き取ってやろうと思った。ジャケットの内側のポケットから灰色のハンカチを取り出し手を伸ばした。女はちょうど、私がハンカチを女の手に触れる一つ手前で何かを思い出すように飛び起きて立ち上がり、そそくさとソファの後ろに回り込み、ソファの背もたれに片手を置いた。女は剣幕で私を睨んだ。するとどうしたことか、女の左目が飛び出した。目玉を繋いでいる、外眼筋はセバドウ病を通り越してゴムのように伸び、そのまま重力に負けながら放物線を描き、絨毯に着地したのだ。人間やろうと思えばなんだってできるのだなとひどく感心した。私はさぞ痛いだろうと思い、眼球を元に戻そうと試みることにした。素手で眼球に触れるのは失礼に当たる、紳士のやることではない、そう思った私は寝室のタンスから適当なハンカチを選ぶことにした。

自室へ戻り、どの柄のハンカチがよいものか、3分程悩んだが、水玉模様なら許してくれるだろうと確信し手に取った。はて、水玉模様の女々しいハンカチなど持っていただろうか。

急いでリビングに戻り女を見遣ったが、先程と何も変わらずただそこに立ち尽くしていた。私は証拠物件を取り扱う警官さながらの手つきでハンカチで摘まみ上げ、指紋を付けないよう拾い上げた。私は掌の上で目玉をじろじろと見回した。私の目と女の目があった。私の気分は一挙にひっくり返り、怒りが込み上げてきた。なぜ私が戻してやらねばならないのか。この目玉を証拠に交番とやらに届けるのだ。そして提訴だ。提訴。私はこの目に睨まれたのだから、それくらいの権利は私にもあるはずだと考え、ジップロックにしまうことにした。すると突然に家のドアが開いた。私の古くからの友人が息を荒げて立ち尽くしていた。なんでこんな時にあいつがうちを訪ねてくるのだ。タイミングという言葉を知らないのか。友人は大きな声で怒鳴るように喋りだし。「警察に言いつけたところで、どうなると言うんだい。君が背負っていた過去が何時その肩から滑り落ちてしまっていたのかを、君は答えられないではないか。交番に届出を出せば見つけて出してくれとでも思っているのかね。警官が道端に落ちた君の心臓を見つけたって、君にそれが帰ってくることはないよ。それどころか牢獄にぶち込まれるのは君のほうじゃないか。下らない。」彼はそれだけ言い残して帰っていった。全く下らなかった。彼の勇敢な行動は無為に終わったのだ。私はそんなことに構ってやる時間などないのだ。

とにかく続きだ。だが、袋に入れるためには目玉を繋ぐ、それはそれはよく伸びた筋肉が邪魔だった。これは切らなければいけない。すべてから切り離されたとき、そのときこそきっと、私のための革命が起こるのだ。目玉の付け根の筋肉を切断した。すると私の右目からポタポタと血が流れ出しているのを理解した。床に滴った血を見るために顔を下に向けると、私の右目はゆっくりと、音を立てて転がり落ちた。すると先程まで沈黙を決め込んでいた女が、「革命だ!」と叫んでドアへ向かって走り、大きな音を立てて弾かれるように家を出て行った。なんだ、私にも出来るのか。練習した覚えはないがいつの間にか出来るようになることも人間にはあるらしい。取り敢えず私は自分の目玉を拾い上げ元に戻した。別に痛くもそれどころか痒くもなかった。馬鹿馬鹿しくなった私は先程まで女が横たわっていたソファで寝ることにした。電気を落としたがソファの上は未だ温かく、夜よりも騒がしかった。

翌朝、酷い頭痛に襲われた。一昨日から理解する必要もないようなことばかりが起きていたので、これは全て夢だったのかもしれないと思った。取り敢えず昨日の朝には壁に突き刺さって居た鳩もいなかったし、浴槽にびっしりだった鳩も綺麗さっぱり居なかったのだから。切断した目玉も見当たらなければ、私の目玉もいつも通り。このソファの温かさも、女のものか自分のものかも確認する術はないのだ。

 

 

喫茶店へ入る

店内へ入り私は珍しく入口手前の席に腰を下ろし、店員が来るのを待たず、鞄の中に手を入れた。すると直ぐに暗い鞄の中から本が私の手を強く掴んだようだった。買ったばかりだったはずなのに、鞄の中で揺られ、書店の薄茶色のブックカバーは、転がったむき出しのペンに角を取られ、ボロボロと剥がれ落ち、活字は鞄の中に散らばっていた。いつもそうだった。店員がやってきて、透き通ったグラスに水と灰皿をできる限り、ゆっくりと置いた。私はアイスコーヒーを頼んだ。外は呆れるほどに暑く蝉が往来に転げ落ちていた。この席から見えるのは左に少しだけ小さな窓、そこから見える外の世界は縮小されたなんとも愛おしい世界だ。そこからは一本のなんともか細い電信柱が見える。一瞬、紺色の外套を着た青年がその窓と私の視界を横切ったような気がした。こんなに熱いというのに何をそんな。するともう一度通りすぎたはずの紺色の外套が戻ってきた。すると外套は電柱の前に立ち尽くし、直ぐに二,三歩下がると電柱に飛びつき抱きしめた。「大好きだ、大好きだった、」と泣き叫びながら告白をしていた。それから直ぐに外套は歩き去っていった。勇気ある英断だった。私はすっかり目と耳を奪われ少しだけ彼の気持ちがわかるような気になった。店内の奥から店員がアイスコーヒーを運んだ。火の付いていたはずの煙草は灰皿の上ですっかり形を変えていた。

 

淋しがり屋の砂時計は

自ら反転し

再び時を数えてしまう

 

と読んだところで、年の若い男女が店の扉にかけられた鈴を揺らし、音と共に店内へと吸い込まれた。男は何かに配慮するように、転げ落ちそうなほどに眼を見開いて店員やら座っている客を見渡していた。男は店内の電球を睨みつけたあと男は先に席を選んだ。男は私の方を見ることができる場所、私から見て奥の壁側の席に、女はその向かいの席に座った。男はあっさりと女からその男以外の視界を奪い、まるでこの世にはその男しか存在しないかのように、彼女から世界を隠してみせたのだ。私は再び詩に目を落としていた。疲弊した今にも溢れそうな目を、右側の大きな窓の外に投げた。小さな窓の隣には絵画、壁に掛けられている。暖色の照明が大きな窓ガラスを越えてコンクリートの建物の壁に風景画を埋め込んでいた。不意に前方に座っていた男と目が合う。私は直ぐに本に目を落とし、何かに急き立てられるようにページをすすめた。

 

傲慢な紫陽花は

華やかな造作に

跳ね返る色彩で

形象の鮮やかさを隠す

物憂げな表情で

全ての暴露を待つ

あの女のように

 

正体のわからぬ黒い影に、遂に追いつかれ、手を捕まれた気がして我慢がならず、本を鞄の中に投げ入れ席を立った。すると再びあの男と目が合い、先程と同じ表情で左の口角を上げていた。私は店を出ていた。

 

 私は市営の地下鉄へ向かっていた。くたびれた体を引きずり、吸い込まれるようにこの街の地下へと結ぶ階段を下りていった。改札を潜り更に下へ下へと階段を下りていく。漸く最後の段から足を下ろし地下鉄のホームに辿り着いた。丁度列車がホームへ滑り込み、規則正しく停車した。扉が開き私は直ぐにホームを跨ぎ、車両に身体を乗せた。発射のブザーがなると、ハイヒールの音を響かせて、階段を駆け足で降りてくる。彼女はこの列車に乗ることができるだろうか。音のすぐ後ろ、少女は階段から足を覗かせてホームへ向かってくる。ホームへ足を着け、走って車両を目指した。車両の三メートル手前で彼女は足の向きを変えてホームの壁に置かれた、自動販売機につま先向けた。財布を取り出したところで車両の扉が閉じた。少女は意図も簡単にこの時間というやつを引き伸ばしてみせた。

 

 

隣町灰色の陸橋の下、川沿い

「何故、浮浪者が橋の下を好むのかといえば、人目の届かぬ場所であるからである、というのでは回答にはならないだろう。まぁ、回答にならないといえば言い過ぎだが、十分ではないだろう。僕はこれに対する一つの提案をしてみたいと思う。橋を渡る者の目的は、或る場所へと移動するためである。其処には行き先がある程度決まっていて、此方側ではなく橋の向こう側で、或る彼岸である。人間が其処へ移動するには、その橋がなければ不便であり不都合が生じているから、それで橋が存在している。橋はその下に在る不都合を、空間を縮約する。その下で浮浪者はいつでも世界の反転を祈っている。彼らの居る場所が橋の上になり、我々が居るのが橋の下になるように。平和はいつでも戦争で、戦争こそが平和だった。決して朝から夜になるのではなかった、其処ではいつも夜から朝がやってきた。浮浪者は常に家の中に存在し、住所は遍在している。彼らの存在根拠は世界である。そして人々が橋を渡るのとは違った風に、そう、浮遊するように、彼らは歩くまでもなく、何時でも既に目的地である。橋を渡るものは橋の真下を見ることができない。見るのは橋の向こう側であり、橋の上から見渡せる"風景"だ。しかし、浮浪者は風景ではない。何時もその下に見えないように存在している隠された存在なんだよ。」女は、「まぁ、見窄らしい負け犬の遠吠えみたいね。だからなんだって言うのよ。」私はがっかりした。どうしてこんな簡単な悲しみも分からないのか。そう思いながらなんとか回復を試みようと続けた。

 

最終列車。

草臥れた私は長椅子に腰を下ろした。目の前の座席の人の脚を眺めていると長椅子の下の空間に仰向けになっている男を見た。最近はあそこの空間も世間に許されるようになったのだなと感心した。そうすると私の足元に目を投げるとやはり女が仰向けに横たわっていた。耳を立てるとその男女が人目も気にせず会話をしていた。男は「愛しているよ」と言った。女が囁くように「私もよ、愛している」と男に続いた。女は不安気に「このまま、私たちは何処に行くのかしら」と男に訪ねた。「このまま列車は終点を通り越して、明日に向かうのさ、このまま乗っていれば明日に辿り着くのさ。」女は鮮やかな笑顔を取り戻した。そうこうしている間に、レールの終わりに向かって緩やかに、車輪は回転を止めた。私は二人の行く末が気になった。電車から降り、ホームから眺めた。改札へと駆け上がってゆく乗客を他所に二人はその場から動かなかった。車内の点検のためにやってきた駅員が迷惑そうに「またロマンチストか、終点は此処なんだよ。いい加減、帰りなさい。」そういって首からぶら下げたホイッスルは吹かれた。澱んだ灰色を貫いて、男と女、ロマンチストを吹き飛ばした。

死・神・存在

自己を否定していくことで行き着く先が死であるように、それと同じだけ世界の否定(対象のなさ)は自己の否定へ向かっている。

死による存在の拒絶は存在”自身”の意味解除を果たすが、世界の側はその存在の意味を解除することができない。たしかに「彼はあった」と第三者は語るのである。存在の悲劇は自己の意思で生まれてきたのでないにも関わらず、死ですら正しくないということにある。死ですら全てを解除することにはならない。後悔は死後にはない、この後悔は死の直前、最後の一呼吸、、それよりも短い最期の瞬間まで訪れる。しかし死そのものは決して存在の中”のみ”にはない。誕生と死は世界の側にある。存在は世界と関わってしまった瞬間から、意味を互いに持ち始める。存在が重いのではなく、関係だけがブクブクと膨れあがるのだ。存在は存在と世界の結果、変化し続ける"状態"のことである。

変更可能性という時、私は私を変えることができるということではなく、変更を受ける、受動的な可能性ということだ。「あの人はああいう人でした」(死者がどういう人間だったか)という回想がいよいよ畏まった形でなされる事態が葬式の際に発生するのは、自分を語るということに自分は出席できない、自分の終わりに間に合わない故にどうしようもなく世界の側から他者が語るのである。

鞄の重さは筋力との関係の中で決定される。長い時間持ち歩き、鞄を手から離したときに起こる疲労、手の軽さ、震え。この手の震え(終わった結果発見される起こったこと)によってしか私は「重い鞄を疲労するまでに持っていたのだ。」ということを終わりから発見するのである。私は重い鞄を現在持っているという時ですら、存在は現在から事象を発見することはできない。通りを走る車の現在位置から1メートル先、或いは数センチ、数ミリ等々、それは過去からアクセルを踏み続けている現在からほぼ決定されている。過去から、現在を素通りして、常に終わった現在から、現在を発見しているに過ぎない。おそらく私というのはいつも私に対して遅いのだ。それはまた知らないことを常に残しながら知ってしまっていくということである。恐らくこれが存在に残された可能性ということであり、延長ということであるのかもしれない。

「~をしている」、「~をする」というとき、観測者は(例え自分が今それを行っているとしても)その動詞つまり行為や意思そのものに対して遅れている。これは言語的に遅れているというより、もっといえば、そもそも人間というものが世界に対して遅れているのだ。

何処で誰のもとに産まれてそしていつ死ぬかということを決定することができない。そしてこの生きている現在、意思の存在は疑わしいものである。いつからか、何かを考えて実行することが出来るのだ、という認識にすり替わったのではないか。人間が思考したり実行したりするということは、本来選ばれたあとに選んでいるに過ぎないのではないか。それを訓練によって或いは習慣化することで逆転しているように見せているだけではないのか。本来人間というものは、選択などしておらず、人間に意思など存在しないのではないか。あるのは”状態”、”行状”だけなのではないだろうか。人間の発見とは過去を、再認という形で発見し続けているにすぎない。だがそこにある些細なズレである最も重要な事象は、他性であり、常に理性を超えている。

"全的に知ることなく経験しかできない人間"と、"経験することなく既に知っている神"は、永遠に交わることがない。故に恐らく両者ともに何かを自らの力のみで選んだことは一度もない。世界の他性。世界が他性であるならば、この世界のうちにある、この自己自身という存在者も他性であるに違いないのである。そこでむしろこの「”始原の喪失”から始まっているような形で存在している存在者」。このことにしか希望はないのではないか。”全的に知ることがないというこの”半開状態”このこと。存在は他性の到来するそのときをただ待てば良いというのか。

「さらば、愛の言葉よ」

さらば愛の言葉よ と アルファビル

 

3Dだろうが多機能携帯端末が出てこようがゴダールだった。タイトル見ればわかるんだけどブレない人だと最初から安心して観ていました。

                                  

急に話が飛ぶけれど最近アルファビルを観てなんとなく書いたものを貼り付けておこうと思う。

 

アルファ都市は本来人間が持っている時間軸の逆である。点滅するライトから始まるこの映画は、原初、初動の契機が、何かということを隠しながら終わりに向かって(つまり今回は始まりに向かって)進んでいく。初動の契機である、「愛している」という”始まり”が最後に始まっている。では我々は、とゴダール本人が問いかけるようにして、終わったところで始まっている。ライトの点滅はもはやなぜ点滅しているのか、ONとOFFを繰り返しているのかということがわからなくなってしまうほどに行為を反復している。終われないことから始まっている。ライトは行為の意味をもう覚えていない。だが意味が始まりの結果であるために「なぜ」と問うことは原初に遡行することであり還るということであるために、アルファ都市では「なぜ」とは問うことが許されない。「なぜ」の意味がわからない。彼らには帰るということの意味がわからない。行く、帰るということではなく移動を繰り返しているのだ。それは家から外、外から家という時の関係を持っていない。つまり常に家を出ている。家にいるときにさえ外に出てしまっているのが、アルファ都市であり論理である。恐らくONにすると明るくなることはわかる。そしてOFFになると暗くなるということはわかる。しかし、なぜOFFにするのか、ONにするのかということがわからない。というより覚えていないのだ。行為の反復によって平均を割り出し未知を補う、或いは埋めようとするがそれは歴史的な全体をもっていないために未来を追い越す形で現前することにはならないのだ。だから「元気です ありがとう どういたしまして」と全的な想定をすべてデータベースの中に組み込み、すべてを話すことでどれか一つは正解する。もはやこれは意味ではない。過去を集積し、予め自動販売機に「ありがとうございます」が入っているが、そんなものは嬉しくもありがたくもなんともないのである。これは配慮ではない。次に、なぜカメラを禁止されなかったか。カメラとは現在の瞬間を写真として複製しそのままに保存するものである。彼らの辞書(物語の不在)つまりすべてが並列な現在、から引き抜いている故に写真は歴史性を持つことなく現在流れている時間から完全に切断されている。だから写真の意味がわからないのである。

 

とまぁここで書くのを止めてしまったのでというか、一回観ただけでは消化しきれなかったために書けなかった。今回も無論消化しきれなかったのでこのような形になり、また今回も書ききれない。そして何回観ようが書ききれない。

 

ここからは「さらば、愛の言葉よ」

長くなったけどここから少しだけ書いてみたい。

 

3Dによる試みは、メガネを通すことで、表象すら消し飛ばしたのであるというか消し飛んだ。表を見てわからなければ裏を見ようとするが、もし仮に裏に何もなかったら、というより表に過剰に全てが書かれていたら我々は最早それを読むことができない。言語は常にスクリーンにもなく我々との中間に足場を失うように浮遊していた。スクリーンの突発的な停止→作動は、記憶の容量を越えて動作が中断するように、一度、ロードをするかのように停止するのは、最早現代の速度に対して脳は余りにも遅く、容量を超えているということの皮肉である。小さな問題、少しの停止、少しの遅れであろうと眼前に惨事となって現れる。これは間断なく、次から次へと事件が起きているのだ。並列化された現在は最早何が事件なのかわからないくらいに全てが平坦に事件なのだ。おそらくもうアルファビルの時とは比にならない。そして何よりの問題は「愛」であり「始まり」ということだ。恐らくすべての作品に共通しているのだと思う。そして、この「さらば、愛の言葉よ」において、アルファビルのような設定(仮に便宜上SFとしておく)を採用するまでもなく、現在とはそうなのである。アルファビルでの始まりを取り戻すという物語は終わり、もう始まりが完全に消え失せたという彼の強烈な回顧録だ。私には赤子の叫びは始まりとしての、生誕としての、産声とは思えなかったのである。想定した自由は選択の煩わしさ、鏡の反射として己に帰ってくるということの重さに耐えかねた。記号だけが残り、全てが分断され、瓦解する。私は最早一人の私ではなくなり自己に、もう一人の他者を誕生させた。「通訳を雇うようになる 自分の言語を理解するために」というのは暗喩でもなんでもない。他者と話している時でさえ常に自分との対話というよりもっと言うと関係が発する関係そのものとの対話という形を取らざるを得なくなった我々は、もう同じ“Langue”を持ってなどいない。そして”Langues”が消え失せ、パロールも消えた。だから「私が話せるようにして」なのだ。結局この表明も言語という形象から飛び出ない。言語が飛び出ようとも届かない。抗えぬ川の氾濫、濁流の中で、何を見て、何を聴いて、何を読んで、何を話しているのか。

バタイユ「宗教の理論」での、動物は「水の中に水があるように存在している」というのをなんとなく思い出した。犬も流れていたし。区別に対して肯定的に認識していない動物と、全てを分断させて肯定的に区別し、横に並べた人間。そしてこれはもっと私事であるが、あの万年筆が出てきた時ハッとしたのだ。もし仮に私がそうしたように、意図していたのなら、それが鳥の示すあの意味であるなら、赤子の叫びは意味を変えるのかもしれない。

0181

世界の責任のなさ
世界は常に影響を存在に与え続ける中で、責任を敷衍しながら解除し続けている。
一存在に責任が無限にやってくる中で最早責任は存在しない。
責任とは根拠であり、現象の核であるが、その核はまた無限の現象の核の破片が堆積したものである。故に時空間を超えているがために根拠は誰にもわからないように、存在に対して閉じられている。何処に巻き戻しても始まりにたどり着かない。
存在は誕生した瞬間に、誕生する前から世界から決定されているが、それに対して存在の根拠は存在対しては隠されている。故に人間の性が非選択性、偶然性、可能性として生を受けることであるがゆえに、常に世界からの受動態としての存在であるために、人間の生はどこまでも自由であってよい。何処までも一存在を咎めるということが出来ない。つまり、世界の責任は個人の責任であると同時に、個人の責任は世界の責任という形で責任は解除され続けている。
つまり存在は、私に責任はないということであると同時に、世界の責任でもないという両極の間で引き裂かれている。生は可能態そのものである。世界は生、沈黙、死すらも正しさの中の事象である。
世界はそもそも必然に立脚しているが存在の側は偶然性を見ることしか出来ない。

 

永遠は虚無であるか。

存在の正しさは、生でも死でもなく、誕生以前にある。

永遠虚無は生でも、死でもなく、誕生以前にある。

 

存在することの提示性、拒絶性が存在の責任のなさと対立する。

私の知っている数少ない言葉、私の知らない膨大で無数の、借り物の言葉を、意味以前の永遠に、虚無に還すには。

意味とは責任である。

故に意味を解除する必要がある。

意味以前に還る方法。

可能性とは最も屈辱的な希望である。

意味の解除は存在の停止には存在せず、世界の停止にある。

 

詩片1

沈黙が呑んだ銃弾が

永遠に還るとき

流れる血は青かった 

恍惚の夜

反射した慟哭が

嚮後の岸辺に突き刺ささば

融けだした永遠が空に零れる

81番目の備忘録

<前>

ただただ個人的なメモとして保存していたもの。

私が考えてきたことであると同時にそれはつまり私以外の存在が考えたことである。飽く迄もこれは備忘録に過ぎないということを断っておく。

書いた時期がバラバラなので論理的整合性などというものは一切ない。

更に僕はこの論考において、編集・加筆をする。

今後も、他のページで書かれていることをここにただ付け足していく。

よって、哲学的考察に関しては、最終的にこの論考に収斂することになる。

いつこのタイトルを付した論考が、終わるのかは私自身にもわからない。

誰かがこれを終わらせてくれることを祈っている。

 

 

意志はどこまで持続するのか。

意志は永遠に反復することができるのか。

意志は現在に届くのか。

意志は現在にしか届かないのか。

意志とはなんなのか。

 

意志するとは環境世界つまり客体によって経験し、自己に回帰する形で漸く意思することが可能となる。意志はひとりでに歩き出し、意志するというところのものではない。意志は環境世界に揺るがされる。意志の反復は自己が意識的に反復することだけでは、意志はその時の力を持続すること、或は意志を増大し続けることはできない。

 

私は決断することをそして覚悟することを放棄する。

尤も決断や覚悟を放棄するのではない。私はこれらをすることを放棄する。

私はこれらをするまでもなく既に備えている。そしてこれらを終えているのだ。

私は事象に対して覚悟するまでもなく、覚悟するような形で既に覚悟している。

何かをするというこのことは、この覚悟によるものでしかあり得ない。

 

或る事象に於ける覚悟について

つまり”覚悟”というのは形成物(過去完了)であり、瞬間的現在の手に負えるものではない。このある事象への覚悟は死ぬことでしかこの存在を認識できない。

 

現在または事象とは過去の堆積として未来から将来する形で現前する。

事象は事象する前から既に事象へのエネルゲイアを備えている。

事象の前と後はイコールである。

 

過去及び未来が“表象=代理”として、ルプレザンタシオン(再=現前化)する。

つまり、現在はルプレザンタシオンとしての現在でしかないのではないか。

”私”を度外視することでしか”私”を形成することは出来ない。

※後者の”私”はルプレザンタシオン=表象=代理としての”私”のことではない

※前者の”私”は世界(環境世界)を含んでいる。後者は主語としての”私”である

※”私”は環境世界を完全に度外視することはできない。むしろ環境世界に従属している。

 

モメントとは瞬間から瞬間への契機である。

現在から現在への契機である。

モメントの存在。

モメントはシンボルへの契機である。

意思は現在に及ぶのか。

現在の遅延。

現在の差延

 

シンボルはルプレザンテである。

永遠に反復し続けるシンボルとしてのルプレザンタシオンそれ自体の存在。

 

他者との関係の回復はあり得るのか。

 

これは別に他者との仲直りというような話ではなく、他者という概念或いは他者一般との和解、または世界との和解と言っても差し支えない。

 

他者とは私の中に形成されてゆく他者である。

 

待つということは或る完了、其の地点までの不明瞭な時間であり、同時に待つということは期待するという事を含んでいるように思われる。その完了までには幾つかの可能性が存在している。可能性其のものが、未だ完了していないものが、確かに存在している。非存在の存在である。或は未存在と云ってもよいのかもしれない。私はこの非存在の存在を私の中に構築しているのである。欠如体。

私は十全な意味でのあなた(最早そんなものはありはしないのではないか)、または主語としての他者と会話することは不可能である。客体的存在を解体し、再構築したものと会話しているのである。つまり話せば話すほど私は再構築したものと話すことになる。最早原型を留めていない他者である。他者との交流とは本来的他者から遠ざかるものでしかないのではないか。これは存在と存在の「凝結体=関係」の構築である。

 

結局のところ現在のみが私の意志の通用する範囲であるが、この私の意志というのは、私が過去に受けてきた経験によるものでしかない。厳密に私は突如、意志することなどできない。環境世界であり過去という既に終わったものがそれを決定しているに過ぎない。人間の意志とはそういう様相なのである。世界は可能性が現在に可能し続け終えている。可能が進行している。この可能性というのは過去が未来から将来する形で現在している。これを私は世界のルプレザンタシオン性と呼ぶ。この世界の森羅万象は準現前化としての世界でしかない

 

過去が将来する形で現在するとはどういうことか。

車が走っているということは既にその前方の空間を占拠するというエネルギーを備えつつ走行している。その前方の空間は車が通過するということを既に許している。これが開示体である。車とこの空間、そして時間は常にお互いを許し、開示し存在している。

 

超自然、超現実は、全く自然なものが一切ない、或いは現実的なものが一切ないということでは決してない、それは自然的や現実的な要素を必ず含んでいる。

 

我々の意思というのは既に経験している環境世界という範囲の中で思考することしかできない。何かに対する志は、実際にそれを行動する或いは、それを持続させるには今までの経験に大きく左右されている。この経験を世界といってもよい。私が一つの集合地点として意思しているに過ぎない。0と1の間には無限が横たわっている。ここでこの意思の力を持続させるためには、2つの外部性を必要とする。

 

幼児の段階では、認識は全体としての認識でしかなく、類似するということは複雑な構造である。知るということが他と区別するというところにあるために、類似するための素材が必要になる。ここで類似による脱中心化が起こる。

 

 

我々はただ川の流れに身を委ねることしかできないのならば、決定されているように見える(これは偶然性であって必然性ではない)背景を捻じ曲げることによって別のところへ辿り着く、或いは着いてしまうことを目的としている。この行為こそ別の構築である。この構築とは自己を別の環境に投企することによって成し遂げることができる。故にこれは人それぞれという無限な多様性とはなんの関係もない。人それぞれというものは、究極的に素基体がいつでも一個人へと還元されるという形をとるが、人間はそもそもそのように存在することはできない。ここでは無限は無限として存在せず、無限にほぼ近いが確かに存在する、或る一つの外部の存在が常に存在している。

 

 

知と死

ラプラスの悪魔。裁きうるものが存在するとすればそれは神であるが、その裁かれるものとは神自身である。

全知全能は誕生した瞬間に死ぬ。

完了する瞬間までは無限が横たわっているが、完了した瞬間にはその無限が収束を迎え現在するからである。ラプラスの悪魔は誕生した瞬間に死ぬ。これは無限であり全知全能な存在でもってしても、ある瞬間に到達するまでにあらゆるものを常に同時に選択することはできず、常に無限の非選択の決定が行われ完了するからである。人間は知らないということによって、欠如体であるがために、生きていることができる。

 

市場が健康であるというのは個人にとって常に一定の存続可能な場所が存在しているかどうかということに関わっている。市場は常に不断に、変化を被り続けなければならず、安定しないというまさにそのことによって安定が保たれていなくてはならない。健康とは代替可能ということである。

 

現代の問題

不完全なラプラスの悪魔 不安の顕然化

情報が情報として外部に常にとどまり続け、私という一つの集合地点、主体に還元され沈殿しきらないもの。情報或いは選択肢の半無限化は全く自由とは遠ざかるのである。これはもう一つの空虚な主体である。選択肢のない空虚な主体、主体の空虚化と対局を成すものである。〈多数の情報の享受=可能性を組み尽くという欲望〉=〈擬似的必然性(必然性のように見えているに過ぎない)〉。という問題がある。無限の情報を詰め込めば現在において、備えることになるのではあるが、現在という時間は”私”という存在者をいつでも裏切るように世界は私から常にはみ出ている。余白の疎外。沈黙の疎外。なぜ沈殿しきらないのかといえば興味の対象が次々と移り行くからに他ならない。沈黙の時間が我々に消えている。沈黙とは何かに対してあれこれと考える純粋な時間そのものであって。そういった外部の情報を遮断することすら、つまり余白がなければ絵が描けないのと同様に(厳密にはそうではないが)。

よってこれらの数多の情報は多様な他者経験に自己の断定を委ねているに過ぎない。可能性が見えるように見えてしまっているということである。これは”煩わしさ”ということでもある。煩わしさとは本来、何かに対して煩わしいのであるが、この現代の”煩わしさ”は存在者の意識の中で”喧噪”として現れるが、最早何が煩わしいのかさえ、よくわかっていない。ノイズの中に素粒子を見出すのが困難なように。それはノイズという塊となって現れる。

 

つまり空虚な主体は三段階存在する。我々はその間に存する、第三項の概念を形成しなければならない。

 

人生とは光源への到達過程である。

光源の到達という必然性(死)。

或る一つの可能性という私へと逆照射される蓋然性でなければならない。

強力な自己の形成とは”光源への浮力”に関わっている。

浮力とは絶対的他者に常に依存する。

弱力な自己は段々とゆっくりと光源(死)へと近づくのではなく一挙に到達してしまう。(時間のなさ)。

幼児の段階というのは光源から最も遠い地点に存在している。

あらゆる可能性→或る一つの可能性へ。

 

犯罪者或いは自殺者はその犯罪者を行う地点までその存在が思考しうることを思考した結果である。つまり、その存在はその地点での全自己を思考に投入した結果である。故に悲劇的強者である。

 

不特定の人間を殺す人間は世界を愛していたがゆえに誰でもない誰かという世界の一人を殺すのであり、これは最も愛していた世界に裏切られたと考えたからである。故にある憎い人間を殺すということと対局に存在するわけではない。

 

知るということは死ぬということである。

その知が例え誤解という形であろうと、知るということは死へ向かっている。

知るということは死へ近づくということだ。この知が例え誤解であろうとそれは死へ近づくということである。生→死という流れは無知→全知という流れと関係している。

幼児期の関係の依存から、

 

外部→関係→個体

 

象徴(シンボル)とは関係のことである。

関係の絶対性

わたしは一つの関係を目指す。

我々の思考は常に他者或いはこの他者との関係の中に決定づけられているようにして存在している。

 

或いは私は既に一つの関係である。

両親との関係存在の元に生まれ出る。つまり子とは、この両親の偶然性の関係のことである。故に子は偶然性としてこの世に生を受けるのである。

 

 

「現代科学の考究する現象は、どれをとっても機械的な寄せ集めでとしてでなく構造的全体として扱われており、そこでの基本的な仕事は、静能的であれ動能的であれ、当の関係の内部法則を明らかにすることである」。

関係の内部法則はほぼ無限に近いものが横たわっているので、これらを汲み取ろうとすると手からこぼれ落ちる。結局、関係の内部は人間にとって完全な意味での必然として扱うことはできない。

関係はつねに十全である。内部・外部合わせた全てを人は神と呼んでそれに祈っていたのである。これは触れてはいけないものであった。今人類が行使していることは神からその座を奪うということである。

仮に人間が必然へ至ったとしても、停止せざるを得ない。

内部は外部に規定され続けている。自己は既に他者である。内部ができることは外と内の境界を内部から見つめ区別することだけである。つまり自己形成或いは強化の唯一の方法が、この外部と内部の反転であり、「外部によって内面の為の窪みを抉り取ること」というのが安部の解釈だ。

 

つまりこの境界は既に外部との接触、この時点で完全な未知ではない、つまり出会った時点で区別され分断されてしまう。ここから関係の理想、未知状態への逆照射が始まる。だから常に問題は関係を作るということではなく、既に関係してしまったものとの関係の回復である。だから球体なのだ。外部と内部による常に完結し続けてしまう全体としての柔軟な一つの球体だ。関係の理想は関係しないということと等しい。

 

 

この境界の発見は既に外部との接触であり、この時点で完全な未知ではなくなる。これに出会った時点で区別され分断されてしまうからだ。ここから関係の理想、未知状態への逆照射が始まる。だから常に問題は関係を作るということではなく、既に関係してしまったものとの関係の回復である。そして、もう一つの問題は内部が外部を規定するのではなくいつでも外部が内部を規定しているという事実である。外部は既に関係であり自己は関係である。それは自己すらも他者なのである。故に外部を強化することでしか内部を規定し強化することはできない。だから球体なのだ。外部と内部による常に完結し続けてしまう全体としての柔和な一つの球体だ。関係の理想は関係しなかったときに戻る、ということとほぼ変わらない。さて関係は偶然の不完全性から完全性という必然への回復なのだろうか。

 

 

”私”

 

私の唯一の所有物であろう私が何処からやってきたのかということについて。

 

ここで<私>は崩壊しているかのように見える。

 

<私>というとき既に、<私そのもの>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私そのもの>というような<存在しないもの>についての問へとすり替わる。

 

<我>を考えるということは常にこの<我>から分裂した<存在しないもの>を立てることになるのである。

 

 

 

母親の胎内から産まれたこの<私>という存在者は、<私自身>に根源を持つものではない。<私自身>が選べず、また親からもどんな子をというように選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける<私>。

人間は生まれたときに根源を失って生まれてくる。

母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、母親を失い、つまり根源<必然性>を失ってこの世に生を受けるのである。

そして根源を失った存在者はまたしても、関係に支配される。

 

<私そのもの>は常に凡ゆるものとの関係の中に支配されている。

 

個人の道徳観念や感情、意思はすべて、この文化の前に押さえつけられている。

 

こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。

 

しかし、この私はこの関係性の前に於いてこそ、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。

 

この<強いられ>、<疎外>という状況、(つまりここでは最早〈存在者そのもの〉ですら〈類〉でしかない)から<存在>を立てる。

 

この<存在しない私>を立てることができるのは、<存在者そのもの〉が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているに過ぎない。

 

つまり私そのものでしかないような私というものは最早存在し得ない。

それは〈類〉である。

神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。

 

人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。

このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。

または半開的存在者。

またの名を<私>という。

人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。

 

自己を否定していくことで行き着く先が死であるように、それと同じだけ世界の否定(対象のなさ)は自己の否定へ向かっている。

死による存在の拒絶は存在”自身”の意味解除を果たすが、世界の側はその存在の意味を解除することができない。たしかに「彼はあった」と第三者は語るのである。存在の悲劇は自己の意思で生まれてきたのでないにも関わらず、死ですら正しくないということにある。死ですら全てを解除することにはならない。後悔は死後にはない、この後悔は死の直前、最後の一呼吸、、それよりも短い最期の瞬間まで訪れる。しかし死そのものは決して存在の中”のみ”にはない。誕生と死は世界の側にある。存在は世界と関わってしまった瞬間から、意味を互いに持ち始める。存在が重いのではなく、関係だけがブクブクと膨れあがるのだ。存在は存在と世界の結果、変化し続ける"状態"のことである。

変更可能性という時、私は私を変えることができるということではなく、変更を受ける、受動的な可能性ということだ。「あの人はああいう人でした」(死者がどういう人間だったか)という回想がいよいよ畏まった形でなされる事態が葬式の際に発生するのは、自分を語るということに自分は出席できない、自分の終わりに間に合わない故にどうしようもなく世界の側から他者が語るのである。

鞄の重さは筋力との関係の中で決定される。長い時間持ち歩き、鞄を手から離したときに起こる疲労、手の軽さ、震え。この手の震え(終わった結果発見される起こったこと)によってしか私は「重い鞄を疲労するまでに持っていたのだ。」ということを終わりから発見するのである。私は重い鞄を現在持っているという時ですら、存在は現在から事象を発見することはできない。通りを走る車の現在位置から1メートル先、或いは数センチ、数ミリ等々、それは過去からアクセルを踏み続けている現在からほぼ決定されている。過去から、現在を素通りして、常に終わった現在から、現在を発見しているに過ぎない。おそらく私というのはいつも私に対して遅いのだ。それはまた知らないことを常に残しながら知ってしまっていくということである。恐らくこれが存在に残された可能性ということであり、延長ということであるのかもしれない。

「~をしている」、「~をする」というとき、観測者は(例え自分が今それを行っているとしても)その動詞つまり行為や意思そのものに対して遅れている。これは言語的に遅れているというより、もっといえば、そもそも人間というものが世界に対して遅れているのだ。

何処で誰のもとに産まれてそしていつ死ぬかということを決定することができない。そしてこの生きている現在、意思の存在は疑わしいものである。いつからか、何かを考えて実行することが出来るのだ、という認識にすり替わったのではないか。人間が思考したり実行したりするということは、本来選ばれたあとに選んでいるに過ぎないのではないか。それを訓練によって或いは習慣化することで逆転しているように見せているだけではないのか。本来人間というものは、選択などしておらず、人間に意思など存在しないのではないか。あるのは”状態”、”行状”だけなのではないだろうか。人間の発見とは過去を、再認という形で発見し続けているにすぎない。だがそこにある些細なズレである最も重要な事象は、他性であり、常に理性を超えている。

"全的に知ることなく経験しかできない人間"と、"経験することなく既に知っている神"は、永遠に交わることがない。故に恐らく両者ともに何かを自らの力のみで選んだことは一度もない。世界の他性。世界が他性であるならば、この世界のうちにある、この自己自身という存在者も他性であるに違いないのである。そこでむしろこの「”始原の喪失”から始まっているような形で存在している存在者」。このことにしか希望はないのではないか。”全的に知ることがないというこの”半開状態”このこと。存在は他性の到来するそのときをただ待てば良いというのだろうか。

 

私が読んだものの中で、自身が考えていた"存在者"の認識に、
"私"というものの"存在者"の認識に近いものだった。
予め言っておくと僕の圧倒的力不足により、マリオンの意図していることではないのであろうから、読んだ結果喚起された雑感ということで許されたい。

仮に未だ透徹した視線が存在するならば、あまりに直観的にすぎる判断を下すならば、どんな思想もこの"前-存在論"または"非-存在論"とも呼ぶべきものを基盤としてしか現れることがなく、今のところこれ以上に遡行することができないものだと思っている。

一般的な存在論はこの基盤の上での遊戯にすぎない。しかし、何かを悲観したり、何かを楽観する必要も、最早ない。なぜならば、すべての存在者はこの遊戯が遊戯であるということを知ったところで、この遊戯から逃れることがなく、また当然、ここに記す全てもこの遊戯場で起こる遊戯に過ぎないからである。もしかするとこの場は “知っている”ということが無力となる地点なのかもしれない。そしてともすれば存在論が世界論として現れるのかもしれない。だからこそ思想・哲学は、“これ以降“のという形で進展させようとするならば、形而下の出来事にすぎない。


過去に書いた記事を加筆修正する形ではあるが、
ここにもう一度、再記する。

※<私自身><前-存在者性>という概念は、<呼び求め>を発するもののことである。
還元と贈与の中で、<呼び求めるもの>ではな<呼び求め>としているのかについての感覚はここで掴めるものと思っている。また、なぜ、<前-存在者>ではなく<前-存在者”性”>なのかということについても同様である。

私が何処からやってくるのかということについて。

私という位相は、何故に特異な地点なのか。私が「私」というとき、名指すものがいつの間にか名指されているものになっているということであるだろうか。それは一方から他方へということが順番に行われているが故に、自己は分断し差異化するという意味で交わることがないということなのだろうか。これは言語のひいては思考の形式によるものの錯誤なのだろうか。または、自分の顔を直接に見ることが私にはできないというような意味なのだろうか。単に、分裂するという点で言えば、私といわずとも、テーブルだろうが、友人だろうが、常に現実存在そのものとして、事物そのものへ、という意味ではいつでも捉え損ねており、また過剰でもあるという点でこれらには差異がない。私が<私>というとき既に、<私自身>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私>というような対象化された<存在しないもの>についての問へとすり替わる。いつの間にか対象と化した私は、前-私的な存在者が作り上げた-私、なのだろうか。ともかく、何よりもまず、私自身というものが、<呼び求め>、である場合、その呼び求めを唯一聞きうるものとして、呼び求め、つまり私自身に、私は優位を保っているのである。

呼び求めは、なおも対象ならざる対象として存している。それはゴーレムやペガサスやケンタウロスよりもなお、対象ならざる対象として存在している。そういう意味で、私自身という存在は全き他性であるようなところのものである。

“私が私を名指し得ない特異な場所に私自身が存在していることを直感しうるところの存在者“

存在者の権能は他者に対するよりも無力であり、他者よりも全く他者だという点にある。私という存在者はまずもって、私自身に、存在に、呼び声に、明け渡され任じられ、全うする以外の道がないということである。したがって、どこまで行っても世界的に存在者は受動性に塗れている。存在者の能動性はそれを十全に感知し得ない点にのみ担保されているに過ぎない。

ここでの課題は、名指し得ぬ存在者を前-存在論的に存在者の前に引きずり出し、召喚することにある。
そして、この<私自身>を<前-存在者性>と名付ける。

どんな存在者も自分の生を私は選べず、また親からもどんな子をというようには選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける。
母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、根源である母親を失いこの世に生を受けるのである。これは一般的にいって、私が違う国、時代で生を受けていれば、ここにいる私とは全く異なる性格を有していることと同様である。さらに、現在も未だ私を選ぶことが出来ないように外部を選ぶことができないように。そして<私自身>というものは<私>という窓と共に変更を被っている。存在者は絶えず世界からの影響を受けて生きている。

それでもなお、存在者に優位があるのは、ジャンケレヴィッチの用語を借りれば、半開的存在者としてあるということにある。これは端的にいうとして、世界に対して半分開いており、半分は自己に閉じこもっているという単純な意味で、そのようにして私というものが存在しているからに他ならない。これはどんなに先のことを予知(そのときの感情さえも)できていたとしても、実際にその瞬間になるまでは(体験するまでは)それを良い意味でも悪い意味でも、知ってはいても、了解していない、ということにある。さらに、どんな存在者も知っていることと知らないことを合わせれば総体量は同じ(比率が違うだけ)ということからも半開的なのである。また、その瞬間に知覚していること、知覚していないこと、という意味でも半開的である。こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。前-存在者は一人称単数ではなく、むしろ、変容し続ける三人称複数として存在しているが、存在者はこれを捉えることが出来ない。
これをこそ存在者の基盤の上に重くのしかかかる<前-存在者性>というべきものである。
この<前-存在者性>は純粋に私と呼べるようなものではない。更に、私以外の誰それというわけでもない。マリオンは、端的に、<存在の問い>を、「蝶番のように存在している。」と記しているが、しかしこれは、この<呼び求め>、<前-存在者性>すらも、蝶番のように存在している。そこにつながれているのが対象化された<私>である。
対象化された私というのは、つまり、この<呼び求め>、<前-存在者性>に対象化されているところのものである。マリオンのいう、<呼び求め>つまり、この<前-存在者性>が私に<呼び声(呼び声の不在でさえ)>を送付する。私はこの送付に対してどのような態度を取るかということを強いられている。私はここでもっとも思い切った形でこれを言わなければならない。この呼び声を送付された私の態度決定、回答は、既にして終わっているといってもよい。世界があることの知覚は既にして、物理的にいって、世界の客観的、超越的にはすでに終わっているものを人間存在は知覚している。これは世界に対して存在者が遅れを取っているということと同じである。

それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。

しかし、この私はこの関係性の前に於いて、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。それは半開の無知によって成し得ている。この様相は以下のような構成になっている。

この<強いられ>という状況、<呼び求め>から<存在者>が生起する。"呼び声を聞かざるを得ない者"として生起する。

この<存在しない私>を立てることができるのは、<私自身>が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているからに過ぎない。ここで類といったのは、私そのものは単独者として、純粋に"私"ということが、できないくらいに、世界との関係に強いられているからである。

つまり<私自身>でしかないような、純粋自我などのような存在者というものは最早存在し得ない。

私は一人称単数であっても、<前-存在者性>は変容し続ける三人称複数によって存在している。”に対して”存在している、ということはもはやここでは意味を逸失しているだろうか。

<前-存在者性>を存在者は捉えることが出来ない。それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。

<私自身(前-存在者性)>は便宜上、1人称単数の形をとっているが、この箱の蓋を開ければ、<三人称複数> なのである。それは非人称的な〈類〉である。恐らく、存在者が神のような絶対者を必要とするのは存在者が根源的に<類>だからである。
ジュリアン・ジェインズのいうように、神からの声は、この前-存在者性から発せられていたものに過ぎない。

神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。全時空間的に存在しており、全てが成し遂げ終えているようなところのものである。故に神が存在するということは人間には認識し得ない。それどころか、神は存在者ではない。神はすべてを完了してしまっているが故に、全時空間的にあるが故に、何がしかの存在者ではない。神は驚異の念を抱くことができない。

人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。

関係<必然>としなかったのは存在者から見て、何事もその瞬間まで<偶然>に過ぎないからである。偶然と必然の遊戯は存在者の位相を取るか、世界の位相を取るかということであるだろう。世界は超越論的には必然であるが、その時が未だや来ていないという点で存在者の認識はすべて偶然的に映るに過ぎない。過去現在未来の時制は、存在者が世界を知覚する地点にしか存在しない。過去→現在→未来のようには時間は過ぎ去っていない。存在者の優位性はすべてを現下に引きずり出す性格によって、存在者は存在している。超越的に見て、世界は何らの時制をもってはない。存在者の過去・現在・未来は次のような様態で存在している。
過去が未来から現在に招来する形で現在に存在している。過去の過去性は厳密に完了していることであるが、世界は、なんら完了していないように見える形で存在者に送付されているが、すべてが完了している。ゆえに完了しているのは過去だけではなく、現在、未来、も既に完了している。これは存在者の意志ですら逃れることがない。存在者にはそうは映らないという点でのみ(未だ訪れていないという点でのみ)存在者の優位性は保証されている。
このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。
または半開的存在者。
またの名を<私>という。

しかし、<前-存在者性>と<私>の区別は一体何によって成り立っているのだろうか。これは意識が区別させるものなのだろうか。この区別に何らかの意味があるのだろうか。この区別は<私>を<前-存在者性>に対するようにして存在者が存在していることの謂われであろうか。仮にこの遮蔽幕を取り払い、<前-存在者性>を<私>と同一のものと見なすならば、我々は何かを得るのだろうか。それは、私を含めて、<世界>が<状態>としてあり何の差異も存在しないということと同じであろうか。<私>が現在も尚、この<前-存在者性>より生み出されたものだとして、<私>が、<私>と言うことの権利は残っているのだろうか。反応ではなく抵抗であるという点でのみ、私は私なのだろうか。前-存在者性と私の間に存するものが私なのだろうか。それは現存在と何が違うのだろうか。そこではもはや大した区別ではないのではないだろうか。人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。しかし、確かに存在の声、呼び求められるものとして、なお依然として、存在者としてあるというこの事態。

 

"固い決定論の中に意志は在る"以上のことは言えない。ここで"自由"という言葉を使わなかったのは、彼の言うところの意味でそうしている。また、散々このブログでも述べてきた(と直接には提示していないかもしれないが、僕はそう思っている)。"柔らかい決定論"とは少しだけ異なると考えている。だから「"固い"決定論」とした。僕の我儘かもしれない。あのアンケートで一票も入らなかった回答の一つ、"固い決定論"。"固い決定論"を信ずるというとどこか宗教的なあるいはロマン的な雰囲気を呈するのかもしれない。僕は意志を否定することなく、"固い決定論"の立場を取る。これは世界を巨視化したときに起こるものだということもわかっている。つまり、空間的時間的に巨視的に眺める、ということに他ならない。神の位相、スピノザのいう"永遠の相の下"、またはキェルケゴールのいう"永遠の相の下"。これは人間には不可能である。不可能であるが故に、人間には意志があるのだろうか。可能であったとて人間には関係がないのかもしれないとも思う。知っているということと実際にその時が訪れ、体感するということとはあまりにも遠く隔たっている。意識が存在する限りにおいて。「存在とは時間である。」というテーゼは殆どこの意味において、存在は"永遠の相の下"にすら"先立っている"という意味に近いのかもしれない。それでも尚、すべての物理法則、または法則ならざるカオス性、ランダム性を含む、ある法則の下にすべてが動いているとして、私の意志とは何の関係もない。それがそうであろうと何の関係もない。

 

僕は辛うじて地面それ自体ではなく、地面の上を歩いている。僕は"固い決定論"の中で蠢いている、非-力な存在者である。キェルケゴールはいうだろうか、「どんな選択をしても後悔するだろう」と。しかし僕は、後悔を既に"了解"している。「世界が決定論であった場合、責任というものは存在しない」というものがある。だが、この不可避の”了解"は絶えず、意味を問い直す機能を有すために、固い決定論の責任の回避を逃れる。この責任は「存在者から存在へ、存在から存在者」へ絶えず責任を問い直す。

 

 

形而上学入門/マルティン・ハイデッガー  訳 川原 栄峰  

 (平凡社ライブラリー

 

以下の引用(四角で囲われた部分)はすべて上記からである。

 

"Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?"

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」

 

 

無いことに困るのは、ある時を、既に知ってしまっているからである。

そして、それが何れ、帰って来るのではないか、或いは、何れその時がやって来るのではないか、というすべての期待(予持)の中に、今まさにその問に対峙しているからである。

 

 

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」.....たとえば深い絶望の中にあって、ものごとからすべての重みが消えうせようとし、あらゆる意味がぼやけてしまうとき、この問いが立ち現れる。

 

         

 

 

この問いが及ぶ領域は最も広範である。この問いはどんな種類の存在者に達しても停止することがない。この問いはすべての存在者を、すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する。

 

 

 

われわれはわれわれの問うことの経過の現在の段階から、さらにもう一つの別のことを見渡すことができる。われれわれはさきに、「存在」という語は、普通の考えに反して、一つの全く限界づけられた意味を持つということを明らかにした。すなわち、存在そのものは一つの特定な仕方で理解されているということである。そのように理解されたものとして、存在はわれわれにとって開けて明らかである。しかしどんな理解も、開示の根本様式の一つとして、一つの特定な視線の中で動いているはずである。この物、たとえば時計は、われわれがあらかじめ既に時間とか、時間の計算とか、時間測定とかいうようなことを知っているのでないかぎり、われわれに対してはそれがあるところのものという点では閉ざされたままである。有様の視線はあらかじめ既に敷設されていなければならない。われわれはこれを先行-視線、「ペルスペクティーヴェ」と名付ける。

 

 

ここでおそらく重要と思われるのは、「すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する」

という記述である。「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問いは"全時間"、"全空間"、に及ぶということである。"むしろ無があるのではないのか?"というこのことは現-存在にとって無が存在しない(認識し得ない)という不可能性を既に感じ取っている。これは無があるかどうかということを差し置いて既に感じ取っている、ということになる。ハイデガーはこの既に感じ取っているこのことのありかたを”先行-視線(フォア・ブックバーン)(ぺルスペクティブ)”と名付けている。”予持”に近いと思われる。どんな理解もな現-存在は終わった過去も未だやってこない未来もここに引き込む威力を持っている。持ってしまっている。しかし、注意しなければならない。

 

 

もっとも、一見鋭そうな、偉そうな顔をして、昔からよく知られている次のような考えを再び持ち出す人があるかもしれない。そもそも「存在」とは最も普遍的な概念である。この概念の妥当範囲はすべての上に延びており、無にまでも達している、無といえども、考えられたもの、言われたものとしては、やはり何かで「ある」のだから。したがって、この最も普遍的な概念たる「存在」の妥当範囲を越えては、この概念そのものをさらに詳しく規定することのできるようなものは、語の厳密な意味においてもはや何ものも存在しない。この最高の普遍性で我慢するより仕方がない。存在の概念が究極のものなのだ。しかもこのことは、概念の外延が広ければ広いほどますますその内包は不定で空虚であるという論理学の一法則にも適っている ーところで「存在」という概念以上に外延の広い概念がありえようか?-と。

この考え方はおよそ正常にものを考える人になら誰でも -われわれはみな正常な人間でありたいのだがー すぐさま文句なしに正しいと思われる。だがこの場合、存在を最も普遍的な概念と決めてかかることは存在の本質を衝いているのか、それとももともと初めから存在の本質を誤解しているために問うことが見込みなくなっているのか、ということがなお問題である。

 

 

昨日のファサードと関連して。 

 

 

 存在はどうなっているのか?存在を見ることができるだろうか?われわれは存在者を、この白墨を見る。しかし、われわれは色や光や闇を見るように存在を見るだろうか?あるいは、われわれは存在を聞き、嗅ぎ、味わい、触れるだろうか?われわれはオートバイを聞く、それが大きな音をたてて通りを疾走するのを聞く。われわれは大雷鳥を、それがそびえる森をすべるように飛び越えていくのを聞く。しかしほんとうは、われわれはただモーターのバタバタという物音や、大雷鳥がたてる物音を聞くだけである。純粋な物音を記述するなどということは大変むずかしく、われわれには不慣れである。というのは、それはわれわれが普通聞いているものではないからである。われわれは〔単なる物音に比べるならば〕いつでもそれより以上を聞いている。

 

 

 

ファン・ゴッホの描いたあの絵、無骨な百姓靴一足のほかには何もない。この絵は本来何ものも呈示していない。にもかかわらず、これを見るや直ちに、われわれ自身が晩秋のたそがれ、じゃがいもの茎を燃やし終えて鍬を肩に野から疲れた足で家路をたどっているかのようにわれわれはこの絵にあるものとひとりで対面する。何がそこで存在的であるのか?画布か?筆触か?色彩か?

いまわれわれが列挙したもののすべての中で、一体、存在者の存在とは何なのか?こんなことさえわからないとは、一体、われわれはなんという愚かなうぬぼれと賢さとをもって、この世界の中であちこち走ったり立ち止まったりしているというのか?

 

 

過去にあった、未来に必ずそうなる、というようなことはどんなことがあっても現存在に十全に正しく通達されることは在り得ない。同じように眼の前にあるものを見やるとき、存在者を見るとき同じように、十全に正しく通達されることは在り得ない。この十全に正しく通達されないことが存在者に残された唯一の可能性である。

現存在は現在という時間に貼り付けられている。全く目が離せないでいる。過去や未来を想像しているときですら、それは現在というその瞬間においてそうしている。ただし、規定されていることを知らずにそうしている。存在者はは"存在"によってすべてが支えられている。この存在は現存在の根拠である。何かがあることの根拠としての。無が"ある"の前で(根拠)、"無"は"ある"。存在とは殆ど無である。ニーチェが言った存在とは幻であるというのはそういったことである。意志の手前の意志や、環世界というものが、ニーチェフッサールハイデガーが言っている"存在"という言葉ではないかと私は考える。

 

"既にあるもの"のみならず、"かつて存在したもの"および"将来存在するはずのもの"、という記述はすべての時間を包摂しているように見えるが、これは現存在にとってそうではない。"かつて存在したもの"は確かに過去である。また、"将来存在するはずのもの"は未来である。しかし、"存在したもの"が存在したものであるために一個の現存在を必要とする。つまり、現在を必要とする。同じように将来存在するはずのものというものも、未だやってきていないという点で、過去の存在したもの同様に憶測に過ぎない。だが尚、存在したもの、存在するはずのもの、が現存在に、つまり観測者に関係なく”ある”のだとすれば(これも私という観測者の憶測の域をでない)のだが、世界は既に全体性として、すべてが完了している(これも私という観測者の憶測の域をでない)。それはちょうど、今私がこのキーボードを打っている、打鍵している意志の手前の意志によって、または環世界によって既に終わっていなければ可能ではないことなのである。更に例を挙げるならば、物を動かすエネルギーによってどれだけの距離を移動するかということが、環世界と共に規定されている。実際に物がその距離を移動し終える前に、エネルギーを加えた瞬間に決まっている。そのようにして人間の意志を含むすべての物理法則によって動く前からすでに動いている、ちょうどピンボールのように弾き出されている。そうやってはじまりのはじまりのはじまりの...というように無限に退行してゆく。広く言われている決定論が責任の概念を回避し得るという理論はこれである。ラプラスの魔物もここに属している。これに乗っ取るのならば始まりは既に終わっている。それでもなお、現存在の自由というものがあるとすれば、未だその瞬間がまだ実際に結果していない、という現在地点においてのみ、終わっていないという地点においてのみ、担保されているのである。故に現在という時間は、現存在にとってのみ全く何者にも規定されていないのである。いや規定されているが、現存在はそれを知り得ないということに規定されている。

 

では、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」

 に対する、私のこの記述に対する同意は、同じように現存在の観測者の憶測の域をでない。

 

世界は等の昔に終わっているが故に、何も始まっていない。

何かが始まっているのは勝手に存在者が誤解の上で始まっているに過ぎない。

現存在は何処までも非-知によって守られているに過ぎない。人はそれを可能性と呼んでいるに過ぎない。

 

 

何故私は「に過ぎない」というのだろうか。 

何故、ハイデガーが、「存在」と「思考」という形で対立させたのかそれがわかるだろうか。

 

Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?ということしかできない現存在の全体性において。この全体性は現-存在として発することしかできないという地点において。つまり、(世界-内-存在)の全体性において。

 

 

無題1

リビングのソファに横たわった女の手の爪の先が、黒く汚れていた。私はそれを拭き取ろうと思ったが、女はちょうど、私が手を手に伸ばした瞬間に目を覚ました。女はものすごい剣幕で私を睨んだ。すると女の左目が飛び出した。目玉を繋いでいる筋肉が伸び、そのまま重力に負けながら放物線を描き、絨毯に着地したのだ。私は、さぞ痛いだろうと思い、眼球を元に戻そうと試みることにした。私は直接眼球に手を触れるのは失礼に当たる、紳士のやることではない、そう思ったのでタンスから適当なハンカチを選ぶことにした。どの柄のハンカチがよいのか、3分程悩んだが、水玉模様なら許してくれるだろうと確信した。ソファの前に戻り、証拠物件を取り扱う警官さながらの手つきでハンカチを使い、指紋を付けずに拾い上げた。私は掌の上で目玉をじろじろと見回した。私の目と女の目があった。私の気分は一挙にひっくり返り、怒りが込み上げてきた。なぜ私が戻してやらねばならないのか。私は今こそ、この目玉を証拠に提訴するのだ。たい私はこの目に睨まれたのだから、それくらいのことはやっていいだろうと考え、提出するためにチャックの付いた小さなビニール袋にしまうことにした。だが、目玉を繋ぐ筋肉が邪魔だった。これは切らなければいけない。そのときこそきっと、私のための革命が起こるのだ!目玉の付け根の筋肉を切断した。すると私の右目からポタポタと血が零れているのだった。床に滴った血を見るために顔を下に向けると、私の右目はゆっくりと、音を立てて転がり落ちた。女が、「革命だ!」と叫んだ。