闘争

”私”

私の唯一の所有物であろう私が何処からやってきたのかということについて。

ここで<私>は崩壊しているかのように見える。

<私>というとき既に、<私そのもの>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私そのもの>というような<存在しないもの>についての問へとすり替わる。

<我>を考えるということは常にこの<我>から分裂した<存在しないもの>を立てることになるのである。

 

母親の胎内から産まれたこの<私>という存在者は、<私自身>に根源を持つものではない。<私自身>が選べず、また親からもどんな子をというように選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける<私>。

人間は生まれたときに根源を失って生まれてくる。

母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、母親を失い、つまり根源<必然性>を失ってこの世に生を受けるのである。

 

そして根源を失った存在者はまたしても、関係に支配される。

<私そのもの>は常に凡ゆるものとの関係の中に支配されている。

個人の道徳観念や感情、意思はすべて、この文化の前に押さえつけられている。

こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。

しかし、この私はこの関係性の前に於いてこそ、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。ということもできるのかもしれない。しかし、この様相は以下のような図式になっている。

この<強いられ>という状況(つまりここでは最早〈存在者そのもの〉ですら〈類〉でしかない)から<存在>が生起する。

この<存在しない私>を立てることができるのは、<存在者そのもの〉が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているからに過ぎない。ここで類といったのは私そのものは単独者として、純粋に"私"ということがわからないくらいに、世界との関係に強いられているからである。

 

つまり私そのものでしかないような私というものは最早存在し得ない。 

それは〈類〉である。 

神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。

人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。

 

このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。

または半開的存在者。

またの名を<私>という。

 

人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。

Dr.ストレンジラブ

 

喫茶店に入った時の話だ。

私は変わらず煙草に火をつけて、本を手に取りその周りをぐるぐると回っていた。

本の中に入り込むのは難しいのだ。

 

年配の老夫婦が部屋の中心にある円卓に腰を下ろして会話をしていた。

夫人はサングラスを掛けていた。

博士の異常な愛情のストレンジラブ博士のような人だった。

 

婦人はあまり覚えていない。

 

爺さんがいった。

「この前○○さんから貰った、カステラ、もう食べたか。」

婆さんが応えた。

「一昨日食べたわよ。美味しかったけれど、賞味期限が近かったから、ザラメが溶けちゃって寂しいわね。」

 

その後、爺さんが

「お前最近家で寝てばっかりいるだろ。何か趣味でも始めたらどうだ。」

といった。

 

婆さんは

「昔は本を読んでたわよ、音楽とかも聞いていたし。」

「でも、最近は何もやっていないわ。」

 

更に爺さんが何故かときくと

「だって、私が本を読んでいたら、『なんでそんなくだらん本を読んでいるんだ』、とか、音楽を聴いていた時だって、『そんなつまらん音楽を聴くな。うるさいぞ。』とか、何をやってても止めろっていうから、私、もう何にも興味を持たないことにしたのよ。だってその方がいいでしょ。どうせあなたに止められるんだもの。」

 

こんな会話が耳を通り脳を貫いたものだから、私は本の周りをぐるぐる回るしかなかったのだ。

 

キューブリックの捉える中心。

あそこにはいつも何も写っていないように見える。

虚空。

 

気づいたときにはもうザラメは溶けている。

眼の現象

眼は背景からそれを切断し対象を引きずり出す。対象が事件として、現れた時ようやく、眼が現れる。というよりは"事件"の発生なくして視るという現象は発生しないのである。

「見て」とは眺めることをではなく、事件の目撃者であれと存在者に要求している。全く関係のない対象を見た時にも別の対象が現れ得るのは、記憶が断片的でありこの対象の断片たちは脳内を常に彷徨っているからである。

完全に連結した記憶を持たぬために、記憶が断片的であるが故に、その断片の狭間に対象を滑り込ませることができる。これを歴史の生成と呼ぶ。眼は対象を切断し、この断絶の空白を埋めるためにある。しかし眼の可能性は、対象の内部で対象を切断しその時初めて眼が現れ、存在者は視線に曝され、このときようやく存在者の眼は開かれ対象を視ることができる。

 

強度"1"あるいは存在者の眼による選別

強度”1”は存在を超えている。強度"1"にとってジャンルは下位構造である。

”深度-拡大”は相互に影響を与え合い、次第に存在者の内で”強度”を生成する。この”強度”は存在とほぼ同値である。

”拡大-深度”の量的、数的な競争は意味への到達にはならない。数量で推し量ることが常に挫折するのは存在の”強度”は"それ"を知らなくても”強度”として存在しているということのことによる。

”強度”は"0"から始まることがなく、"1"から始まる。この"1"は強度の中に、存在の中に既に常に紛れている。これは”拡大-深度”による”強度”の生成の中に既に紛れているために変化を被ることがない。この”1”により始まりを予感するのである。存在が常に正数であるのはこのためである。

この"1"による"1"の発見は無論、数的、量的な尺度からは遠ざかっており加算されることはない。

これは”眼の発見”、”眼の獲得”ともいうべきものである。”眼”は最初からあり、それから事物を見るのではない。事物とともに対象の中の眼が現れ、その次に存在者の眼はようやく見ることを許され、事物が現れる、という事件なのだ。存在が事物を認識するときには純粋な事物としてあるのではなく、常に事件として存在者に現象する。

主観客観の行使はこの泥に塗れている事件を、純粋な事物、多数決的に分離する試みに過ぎない。だが、そもそもとして"1"が存在に既に紛れているようにしてあらゆる事物は存在の認識の中に既に塗れている。これが眼の悲劇であり、眼の可能性でもある。

切断された対象の記憶はその空席をもって、忘却を根拠に、不在を根拠に歴史の生成を行っている。

 認識は対象の内部の眼が対象を切断し、解体したあとに始まる。この発生は存在者の強度と対象物そのものに宿る眼の力に関わっている。内部に眠っていた眼が現れこの眼と存在者の視線が衝突する時、存在者は視ることを、認識することを、余儀なくされるのである。

 

存在者が同じ事物を見るとき、別の意味を取り得るのはこのためではないか。

メモランダム

選ぶというこのことが可能であるのは、選ぶリスト、事件、が目の前に既にあるという受動的可能態であることに他ならない。故に何時でも選択は受動態である。選択する存在そのものが世界から遅れてあるということにより選択は可能性としてある。というよりは世界に対して遅れているからこそやってくるのだ。キルケゴールの「あれか、これか」における”永遠の相の下”とは、例えば神のようにあらゆる事物に先行するという優越性に立つということではない。というよりはそこに優越性がないことが人間存在であり、寧ろ受動態である存在者は常に眼前の選択との間、境界に晒されている。選択がまさに可能性として開かれるのは、この境界に踏み止まるときである。では如何にして存在者はそこに踏み止まることができるのか。”永遠の相の下”に踏み止まるというこのことは如何にして可能なのか。という問は意味を持たない。存在は常に境界にたたされているのである。何かを知る代わりに未だやってこない問を残している。存在は完結を常に回避している。全知である神は未来を組み尽くしているために驚くことができない。驚くということが遅れてやってくるものであり、受動態だからである。存在は知らないということにより驚く。未だやってこない何者かを予視、配視することができるのは何がしかを”それなり”に終え知っているからである。予めとは、なんらかの時間空間の内における現象、つまり事件を予感すること、を現在において持つということであるが、神は全時間的、全空間的に”ある”ために、つまりは時間、空間の非在、非知を排除しているために、事件はおこることなく神の視線を免れる。神は境界にあるのではなく全ての埒外の並列化された現在にある。神は全現在なのである。

秋への転移

こういった形で書くということをここでは避けて通りたかったのだ。だがそんな偉業を成せるほど私は何も知らず、今から書くことなどは幼い子供がロウソクに向かって吹いた息のように、火を消すには余りにも頼りなく、燃える盛る赤色の手前で力尽きてしまうことを知っているのに。

自らの姓を選んだことがあるだろうか。選ぶべきでもいやそもそも選べるはずもない姓を選んでしまったことが私にはある。本当は選べるということは大したことではなく、選ばれたことを引き受けるような力が欲しかったのだ。存在にとってはそれこそが偉大な力なのだ。結局私の選んだ姓は非力な抵抗としての選択、後に後悔にすらならないような選択だった。あのとき本当に名が揺らいだのだ。唯一で単一で純粋であったはずの名が世界とともに壁を走る罅の中に吸い込まれていった。あの主語がただの述語でしかなくなったのだ。主語を失った頼りない動詞達が宛もなくさまよい始め、四方の壁に頭を打ち、終いには動詞はすべて状態となった。斯く在る。主語を失った転移は果たして転移だろうか。転移が残したその空間は笑っているだろうか。しかし最早そんなことに嘆いているのではない。そんなものは遅すぎた。斯く在ることの身体性。名が揺らぎ崩れ去ろうとも、穿たれた球形の器に残滓のように在るこの非力な存在を尚も私と呼ぶしかないということに。どうして誰かがこの存在を私ではないと弁護してくれることがあろうか。主。全くくだらないこの夏がまだ終わってくれそうもないのだ。笑えばいい。

赤く焼けた肌が「私は白い」と叫んでいる。

断片的小説

 十月の夜、この街は強すぎる街灯の光で活気にあふれていたが、それとは対照をなすように、家を失くした死体の群れ達の顔、刃物で切り取られたように痩せこけた頬は影を作りながら騒がしく行進を続けている。街のシンボルである時計塔の針は規則正しく動いていたが誰にも気づかれずに時間を失っているようだった。私はあの晩、一羽の巨大な鳥が時計塔の盤の中心に、嘴を突き刺しているのを見た。

 私は家へ帰るとあの時計塔の見たのと同じような鳥が、壁一面に嘴から突き刺さっていた。だが、あの時計塔のよりもずっと小さな鳩だった。私は何となしにその羽を撫でてみた。このまま摩っていれば灰のようになって消えるかもしれないと続けてみたが駄目だった。私は取り敢えずリビングのソファに腰を下ろし、テレビを付けた。通販番組だった。司会の男が掃除機を片手に話していた。「よくゴミが取れますね!この吸引力なら私の心のゴミも吸い込んでくれそうだ。」傍らにいた若い女性が苦笑いを浮かべながら頷いていた。私は段々と腹が立ってきたので、テレビを消して、風呂に向かうことにした。

着替えとタオルを大事そうに抱え、廊下を進み、風呂への角を曲がる。風呂場へ着いた私は、久々に湯船に浸かろうと考えた。上に乗っかった蓋を上げた瞬間、先ほどの鳩がぎっしりと湯船を満たしていた。「なんということだ。何処も畏も鳩だらけ。私の目の中に鳩でも詰まっているのかな。」私は裸のまま、風呂場をウロウロと円を描くように反時計回りに歩いた。三十周くらいしたところで目が回り、気分が悪くなって止めた。そうといって風呂に入らないわけにもいかない。明日は街が待った休日であり、私が好意を抱いている女が自宅に遊びに来るのだ。取り敢えず浴槽は諦めてシャワーを浴びることにした。

翌晩、彼女は私の部屋に訪れた。着いて早々、私は疲れてしまったわ、と呟いてソファに座ったかと思えば、直ぐに寝てしまった。私は冷蔵庫にあった、血のような安いワインを手に取り、冷蔵庫の上に置いて、換気扇を回す。それらを胃に流し込みながら、煙草に火を付けようと銀色のジッポーを手に取り歯車を回転させたが、火は着かなかった。どうやら石が切れたようだった。この部屋にあんなに転がっていたはずライターは、部屋中を探してもすっかり見当たらなかった。。

私は自宅から歩いて5分ほど、近くにあるタバコ屋へ向かった。外へ出るとすっかり寒くなっていた。それもそうだ、十月はもう半ばを通り越していた。石を買い、ついでに煙草をもう一箱買った。帰ってくると女はまだソファで静かに煩く寝ていた。石を補充し今度こそ火を付ける。この長方形の箱に描かれた鳥を見て思い出した。全く同じ鳩だった。この鳩は永遠に落下し続ける。鳩にはこの「Peace」という文字が一つの壁によって隔てられている。つまりこの鳩には「Peace」が見えないのだ。鳩に見えているのは何れやってくる壁との衝突。死。見えない平和。永遠にやってくることのない平和。この鳩が落下し衝突する時、この壁を突き破るだろうか。いやそれでも鳩は平和を見ることなく死ぬ。例えこの壁を突き破ろうとも。ということは死こそが唯一の平和だ。永遠の平和。虚無かもしれない平和。ロングピースに点火された火は葉を灰にしたところで、フィルターに止められた。「Peace」の文字も象徴の鳩も焼くことはなかった。そんなことを考えながら女を眺めていると、女の手に物々しい黒い汚れを見てとった。私はそれを拭き取ってやろうと思った。ジャケットの内側のポケットから灰色のハンカチを取り出し手を伸ばした。女はちょうど、私がハンカチを女の手に触れる一つ手前で何かを思い出すように飛び起きて立ち上がり、そそくさとソファの後ろに回り込み、ソファの背もたれに片手を置いた。女は剣幕で私を睨んだ。するとどうしたことか、女の左目が飛び出した。目玉を繋いでいる、外眼筋はセバドウ病を通り越してゴムのように伸び、そのまま重力に負けながら放物線を描き、絨毯に着地したのだ。人間やろうと思えばなんだってできるのだなとひどく感心した。私はさぞ痛いだろうと思い、眼球を元に戻そうと試みることにした。素手で眼球に触れるのは失礼に当たる、紳士のやることではない、そう思った私は寝室のタンスから適当なハンカチを選ぶことにした。

自室へ戻り、どの柄のハンカチがよいものか、3分程悩んだが、水玉模様なら許してくれるだろうと確信し手に取った。はて、水玉模様の女々しいハンカチなど持っていただろうか。

急いでリビングに戻り女を見遣ったが、先程と何も変わらずただそこに立ち尽くしていた。私は証拠物件を取り扱う警官さながらの手つきでハンカチで摘まみ上げ、指紋を付けないよう拾い上げた。私は掌の上で目玉をじろじろと見回した。私の目と女の目があった。私の気分は一挙にひっくり返り、怒りが込み上げてきた。なぜ私が戻してやらねばならないのか。この目玉を証拠に交番とやらに届けるのだ。そして提訴だ。提訴。私はこの目に睨まれたのだから、それくらいの権利は私にもあるはずだと考え、ジップロックにしまうことにした。すると突然に家のドアが開いた。私の古くからの友人が息を荒げて立ち尽くしていた。なんでこんな時にあいつがうちを訪ねてくるのだ。タイミングという言葉を知らないのか。友人は大きな声で怒鳴るように喋りだし。「警察に言いつけたところで、どうなると言うんだい。君が背負っていた過去が何時その肩から滑り落ちてしまっていたのかを、君は答えられないではないか。交番に届出を出せば見つけて出してくれとでも思っているのかね。警官が道端に落ちた君の心臓を見つけたって、君にそれが帰ってくることはないよ。それどころか牢獄にぶち込まれるのは君のほうじゃないか。下らない。」彼はそれだけ言い残して帰っていった。全く下らなかった。彼の勇敢な行動は無為に終わったのだ。私はそんなことに構ってやる時間などないのだ。

とにかく続きだ。だが、袋に入れるためには目玉を繋ぐ、それはそれはよく伸びた筋肉が邪魔だった。これは切らなければいけない。すべてから切り離されたとき、そのときこそきっと、私のための革命が起こるのだ。目玉の付け根の筋肉を切断した。すると私の右目からポタポタと血が流れ出しているのを理解した。床に滴った血を見るために顔を下に向けると、私の右目はゆっくりと、音を立てて転がり落ちた。すると先程まで沈黙を決め込んでいた女が、「革命だ!」と叫んでドアへ向かって走り、大きな音を立てて弾かれるように家を出て行った。なんだ、私にも出来るのか。練習した覚えはないがいつの間にか出来るようになることも人間にはあるらしい。取り敢えず私は自分の目玉を拾い上げ元に戻した。別に痛くもそれどころか痒くもなかった。馬鹿馬鹿しくなった私は先程まで女が横たわっていたソファで寝ることにした。電気を落としたがソファの上は未だ温かく、夜よりも騒がしかった。

翌朝、酷い頭痛に襲われた。一昨日から理解する必要もないようなことばかりが起きていたので、これは全て夢だったのかもしれないと思った。取り敢えず昨日の朝には壁に突き刺さって居た鳩もいなかったし、浴槽にびっしりだった鳩も綺麗さっぱり居なかったのだから。切断した目玉も見当たらなければ、私の目玉もいつも通り。このソファの温かさも、女のものか自分のものかも確認する術はないのだ。

 

 

喫茶店へ入る

店内へ入り私は珍しく入口手前の席に腰を下ろし、店員が来るのを待たず、鞄の中に手を入れた。すると直ぐに暗い鞄の中から本が私の手を強く掴んだようだった。買ったばかりだったはずなのに、鞄の中で揺られ、書店の薄茶色のブックカバーは、転がったむき出しのペンに角を取られ、ボロボロと剥がれ落ち、活字は鞄の中に散らばっていた。いつもそうだった。店員がやってきて、透き通ったグラスに水と灰皿をできる限り、ゆっくりと置いた。私はアイスコーヒーを頼んだ。外は呆れるほどに暑く蝉が往来に転げ落ちていた。この席から見えるのは左に少しだけ小さな窓、そこから見える外の世界は縮小されたなんとも愛おしい世界だ。そこからは一本のなんともか細い電信柱が見える。一瞬、紺色の外套を着た青年がその窓と私の視界を横切ったような気がした。こんなに熱いというのに何をそんな。するともう一度通りすぎたはずの紺色の外套が戻ってきた。すると外套は電柱の前に立ち尽くし、直ぐに二,三歩下がると電柱に飛びつき抱きしめた。「大好きだ、大好きだった、」と泣き叫びながら告白をしていた。それから直ぐに外套は歩き去っていった。勇気ある英断だった。私はすっかり目と耳を奪われ少しだけ彼の気持ちがわかるような気になった。店内の奥から店員がアイスコーヒーを運んだ。火の付いていたはずの煙草は灰皿の上ですっかり形を変えていた。

 

淋しがり屋の砂時計は

自ら反転し

再び時を数えてしまう

 

と読んだところで、年の若い男女が店の扉にかけられた鈴を揺らし、音と共に店内へと吸い込まれた。男は何かに配慮するように、転げ落ちそうなほどに眼を見開いて店員やら座っている客を見渡していた。男は店内の電球を睨みつけたあと男は先に席を選んだ。男は私の方を見ることができる場所、私から見て奥の壁側の席に、女はその向かいの席に座った。男はあっさりと女からその男以外の視界を奪い、まるでこの世にはその男しか存在しないかのように、彼女から世界を隠してみせたのだ。私は再び詩に目を落としていた。疲弊した今にも溢れそうな目を、右側の大きな窓の外に投げた。小さな窓の隣には絵画、壁に掛けられている。暖色の照明が大きな窓ガラスを越えてコンクリートの建物の壁に風景画を埋め込んでいた。不意に前方に座っていた男と目が合う。私は直ぐに本に目を落とし、何かに急き立てられるようにページをすすめた。

 

傲慢な紫陽花は

華やかな造作に

跳ね返る色彩で

形象の鮮やかさを隠す

物憂げな表情で

全ての暴露を待つ

あの女のように

 

正体のわからぬ黒い影に、遂に追いつかれ、手を捕まれた気がして我慢がならず、本を鞄の中に投げ入れ席を立った。すると再びあの男と目が合い、先程と同じ表情で左の口角を上げていた。私は店を出ていた。

 

 私は市営の地下鉄へ向かっていた。くたびれた体を引きずり、吸い込まれるようにこの街の地下へと結ぶ階段を下りていった。改札を潜り更に下へ下へと階段を下りていく。漸く最後の段から足を下ろし地下鉄のホームに辿り着いた。丁度列車がホームへ滑り込み、規則正しく停車した。扉が開き私は直ぐにホームを跨ぎ、車両に身体を乗せた。発射のブザーがなると、ハイヒールの音を響かせて、階段を駆け足で降りてくる。彼女はこの列車に乗ることができるだろうか。音のすぐ後ろ、少女は階段から足を覗かせてホームへ向かってくる。ホームへ足を着け、走って車両を目指した。車両の三メートル手前で彼女は足の向きを変えてホームの壁に置かれた、自動販売機につま先向けた。財布を取り出したところで車両の扉が閉じた。少女は意図も簡単にこの時間というやつを引き伸ばしてみせた。

 

 

隣町灰色の陸橋の下、川沿い

「何故、浮浪者が橋の下を好むのかといえば、人目の届かぬ場所であるからである、というのでは回答にはならないだろう。まぁ、回答にならないといえば言い過ぎだが、十分ではないだろう。僕はこれに対する一つの提案をしてみたいと思う。橋を渡る者の目的は、或る場所へと移動するためである。其処には行き先がある程度決まっていて、此方側ではなく橋の向こう側で、或る彼岸である。人間が其処へ移動するには、その橋がなければ不便であり不都合が生じているから、それで橋が存在している。橋はその下に在る不都合を、空間を縮約する。その下で浮浪者はいつでも世界の反転を祈っている。彼らの居る場所が橋の上になり、我々が居るのが橋の下になるように。平和はいつでも戦争で、戦争こそが平和だった。決して朝から夜になるのではなかった、其処ではいつも夜から朝がやってきた。浮浪者は常に家の中に存在し、住所は遍在している。彼らの存在根拠は世界である。そして人々が橋を渡るのとは違った風に、そう、浮遊するように、彼らは歩くまでもなく、何時でも既に目的地である。橋を渡るものは橋の真下を見ることができない。見るのは橋の向こう側であり、橋の上から見渡せる"風景"だ。しかし、浮浪者は風景ではない。何時もその下に見えないように存在している隠された存在なんだよ。」女は、「まぁ、見窄らしい負け犬の遠吠えみたいね。だからなんだって言うのよ。」私はがっかりした。どうしてこんな簡単な悲しみも分からないのか。そう思いながらなんとか回復を試みようと続けた。

 

最終列車。

草臥れた私は長椅子に腰を下ろした。目の前の座席の人の脚を眺めていると長椅子の下の空間に仰向けになっている男を見た。最近はあそこの空間も世間に許されるようになったのだなと感心した。そうすると私の足元に目を投げるとやはり女が仰向けに横たわっていた。耳を立てるとその男女が人目も気にせず会話をしていた。男は「愛しているよ」と言った。女が囁くように「私もよ、愛している」と男に続いた。女は不安気に「このまま、私たちは何処に行くのかしら」と男に訪ねた。「このまま列車は終点を通り越して、明日に向かうのさ、このまま乗っていれば明日に辿り着くのさ。」女は鮮やかな笑顔を取り戻した。そうこうしている間に、レールの終わりに向かって緩やかに、車輪は回転を止めた。私は二人の行く末が気になった。電車から降り、ホームから眺めた。改札へと駆け上がってゆく乗客を他所に二人はその場から動かなかった。車内の点検のためにやってきた駅員が迷惑そうに「またロマンチストか、終点は此処なんだよ。いい加減、帰りなさい。」そういって首からぶら下げたホイッスルは吹かれた。澱んだ灰色を貫いて、男と女、ロマンチストを吹き飛ばした。

死・神・存在

自己を否定していくことで行き着く先が死であるように、それと同じだけ世界の否定(対象のなさ)は自己の否定へ向かっている。

死による存在の拒絶は存在”自身”の意味解除を果たすが、世界の側はその存在の意味を解除することができない。たしかに「彼はあった」と第三者は語るのである。存在の悲劇は自己の意思で生まれてきたのでないにも関わらず、死ですら正しくないということにある。死ですら全てを解除することにはならない。後悔は死後にはない、この後悔は死の直前、最後の一呼吸、、それよりも短い最期の瞬間まで訪れる。しかし死そのものは決して存在の中”のみ”にはない。誕生と死は世界の側にある。存在は世界と関わってしまった瞬間から、意味を互いに持ち始める。存在が重いのではなく、関係だけがブクブクと膨れあがるのだ。存在は存在と世界の結果、変化し続ける"状態"のことである。

変更可能性という時、私は私を変えることができるということではなく、変更を受ける、受動的な可能性ということだ。「あの人はああいう人でした」(死者がどういう人間だったか)という回想がいよいよ畏まった形でなされる事態が葬式の際に発生するのは、自分を語るということに自分は出席できない、自分の終わりに間に合わない故にどうしようもなく世界の側から他者が語るのである。

鞄の重さは筋力との関係の中で決定される。長い時間持ち歩き、鞄を手から離したときに起こる疲労、手の軽さ、震え。この手の震え(終わった結果発見される起こったこと)によってしか私は「重い鞄を疲労するまでに持っていたのだ。」ということを終わりから発見するのである。私は重い鞄を現在持っているという時ですら、存在は現在から事象を発見することはできない。通りを走る車の現在位置から1メートル先、或いは数センチ、数ミリ等々、それは過去からアクセルを踏み続けている現在からほぼ決定されている。過去から、現在を素通りして、常に終わった現在から、現在を発見しているに過ぎない。おそらく私というのはいつも私に対して遅いのだ。それはまた知らないことを常に残しながら知ってしまっていくということである。恐らくこれが存在に残された可能性ということであり、延長ということであるのかもしれない。

「~をしている」、「~をする」というとき、観測者は(例え自分が今それを行っているとしても)その動詞つまり行為や意思そのものに対して遅れている。これは言語的に遅れているというより、もっといえば、そもそも人間というものが世界に対して遅れているのだ。

何処で誰のもとに産まれてそしていつ死ぬかということを決定することができない。そしてこの生きている現在、意思の存在は疑わしいものである。いつからか、何かを考えて実行することが出来るのだ、という認識にすり替わったのではないか。人間が思考したり実行したりするということは、本来選ばれたあとに選んでいるに過ぎないのではないか。それを訓練によって或いは習慣化することで逆転しているように見せているだけではないのか。本来人間というものは、選択などしておらず、人間に意思など存在しないのではないか。あるのは”状態”、”行状”だけなのではないだろうか。人間の発見とは過去を、再認という形で発見し続けているにすぎない。だがそこにある些細なズレである最も重要な事象は、他性であり、常に理性を超えている。

"全的に知ることなく経験しかできない人間"と、"経験することなく既に知っている神"は、永遠に交わることがない。故に恐らく両者ともに何かを自らの力のみで選んだことは一度もない。世界の他性。世界が他性であるならば、この世界のうちにある、この自己自身という存在者も他性であるに違いないのである。そこでむしろこの「”始原の喪失”から始まっているような形で存在している存在者」。このことにしか希望はないのではないか。”全的に知ることがないというこの”半開状態”このこと。存在は他性の到来するそのときをただ待てば良いというのか。