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2016-8-29

 

存在者は忘却<埋葬-再生>を根源に生きている。生きることは皮膚を垢で隠し皮膚に亀裂を入れ、日々自己を埋葬-再生することでしかない。再生は埋葬のエネルゲイアとして、埋葬は再生のデュナミスとして、或いは埋葬は再生のエネルゲイアとして、再生は埋葬のデュナミスとして。

忘却の埋葬性は能動的受動的を超えて常に存在者に纏わり付いている。エネルゲイアは引き受けがたいこのデュナミスをなお引き受けざるを得ない。

 

果たしてデュナミスとエネルゲイアはどう区別するのか。何が区別するのか。

 

存在者の自由は予測があくまでもデュナミス-エネルゲイアに留まることにしかない。それは死をもってしても同じことである。神に予測は存在しない。予測すらエンテレケイアとして常に充足している。神は常にエンテレケイアとしてしか在ることが出来ない。

 

メモ

極限的に作家の野望は作品から作家自身を消し去ること。更に意味以前のものとして、巨大な地図のようにいかようにも取れる可能性を露出させること、無限の情報として読者の目の前に提示したとき、もう一つの現実として読者は読解作業を始める。或いは世界の横に世界を置くこと。現実的というのはある意味では無限の情報(現実的意味以前)を世界の傍らに置くこと。

 

デュナミス-エネルゲイアの境界は消え去る。

 

さりとて、またしても再生される。

鞄 / 安部公房

安部公房の「鞄」という作品がある。

 

僕が当時高校生の頃に授業で触れ、今も心の中にその鞄は置かれている。もしかすると僕は鞄の中にいるのかもしれない。

僕はこの作品に出会うまで、まるで本というものに興味を持つことができず、感想というものを持つことができないでいた。何よりも朝の読書習慣というものが苦手で、何を読んでも次から次へと頭から出ていき、内容を理解できず、苦痛でしかなかった。

けれども読書というのは、読み飛ばしてもよくて、目で追うだけでも実は構わないのだ。感想なんて無理して抱くものでもない。

校長先生の長い話と同じように読み飛ばしても、届かなくても構わない。

それは校長先生の経験と学生の経験との差異だ。差異がなければ苦悩も感動もない。

人はそれぞれそれなりに、何かに感動できない代わりに何かに感動できる。

 

新潮文庫にて「笑う月」という短編集の中にこれから取り上げる「鞄」という作品が収められているので、是非とも手に取って触れていただければと思う。

500円ほど出せば買えるものです。

 

あらすじについてはここで触れるつもりはありませんが、

僕なりにこの作品について少しばかりの回答を。

 

安部公房 「鞄」

鞄は、環境であり、世界であり、自己自身である。そして鞄の中身は外から、つまり自分の目線が届かないところにある。それを持って歩くという無意識的な習慣や癖のようなものが、鞄から意識を遠ざけている。己の習慣や癖を意識するあまり、世界と関わっているということから意識が遠ざかっている。己の癖や習慣に気を取られると歩くことが不自然に感じたり難しくなることに似ている。癖や習慣は選択の前に存在している最も近いものだ。無意識の内に発揮できる存在者の力量といってもよい。

癖や習慣は現在の自分の限界であり、ある意味で世界の限界である。

人間は他者と対峙することでしか、己の筋力の限界と向き合うことがない。他者との対峙をなくして、自分の鞄の中身(癖・習慣)が自らの意識に開かれることはない。そもそも鞄を持って歩くということは、外へ外出するときである。これは他者と対峙するために無意識に自らの限界と世界の限界を鞄の中に押し込めている。

自らの限界と世界の限界は、自らの筋力の限界と同じことを示している。

何を持たなければいけないのか、何を持たなくてよいのか、という習慣や癖の見直し(世界の再考と自らの再考)は、どちらにしても自らの筋力と世界の限界を前にして、再考を迫れられる。

だいたいの人はどこへ行くにも毎日同じものを鞄の中に詰めて外に出る。

筋力の限界は鞄の中身に決定されており、鞄を持って歩くということはその限界内で世界を歩くということである。歩ける範囲というものも鞄に決定されている。

 

 

自分でももはや何を書いているのかわからなくなってきたというのが正直なところである。しかし何かしらの鞄(手ぶらでも同じことです)を持って、世界を歩いている。

 

この「鞄」を読んで最初に思ったことを話すと、非選択の選択の強度とでもいえばよいのだろうか。僕は当時から選ぶことにとても疲れ果てていたように思う。というよりも鞄の中に何かを詰めるのを恐れていた。選ぶことを。また選ぶ偏向性、つまり癖や習慣を晒すことを恐れていた。

しかし、恐れるも何もそんなことの以前に存在者は世界に在るということによって晒されている。鞄の中身は鞄を持つ私によって世界に既に開かれている。しかし、私にはそれを持っている意味がわかることがない。他者との関係を生まれた時から獲得している、あるいは獲得してしまっている。この獲得してしまっているというのは、在ることの前提条件でもある。私の生誕は私が何一つ選んでないところに根源を有している。しかし既に獲得してしまっているがゆえに何がしかを受け取ることができるのも事実なのである。存在者の自由は先ず、既にして在ることが与えられているということにある。

人間の自由はこんなところにあったのだろうか、僕はこの鞄の主がうらやましかったのだ。そして何か救われたような気がしたのだ。僕らは少し先のことが想定したように実際に起こるかということが、どちらに転ぶにせよ常に隠されている。限りなく0%だろうと。限りなく100%だろうと。そういった意味で僕らは神と異なっている。

 

 

この番組の中で、アナウンサーが「自分と他との関係、、」といったとき安部公房は「ですね」と言った後に「自分とというか、他者というのは何かということ」と訂正した。安部公房がここで意識していたのは何なのか、ということを暫くの間、僕は考えていた。何故、”自分”という言葉を外したのか。環境世界によっていわば作られたのが自分という存在者なのであれば、私が私という存在者にこだわることに何の意味もないのかもしれない。それは私が作り出した私である前に、環境世界が作り出した、私なのだから。私の存在はまずもって、私が世界にあるからこそ私はようやく在る。それは現在も他者(世界)との”関係”に引きずり続けられている。それでも我々はこの存在者を他者と区別して”私”と呼んでいる。しかし、私と呼ぶという必要があるということは呼びかけに「応える”私”」を想定している。

他者の中で他者を見出した時、僕という存在者がようやく姿を現すのかもしれない。それも私の中に現れるのではなく、他者の中にしか現れないようなある何か。鞄を持つ者は自分の鞄の中身を見ることで己を理解するのではない。むしろそんなことは邪魔でしかなく、「他者との通路の回復」は、他性から他性へ送り返すことによってしかなしえないのかもしれない。むしろそういうった風にしか本来は存在していない。自分という存在者は自分の意識の中に十分な私が存在しないことによってどこまでも変化の可能性を持っているのかもしれない。未だにやってこないという意味で。他者へ他者として送り返すこと。倫理。没我の地平。

 

このように25年間生きても当然のようにわからないこの安部公房の「鞄」という「無限の情報」は、当時と変わることなく僕の中で重大な事件として在る。

安部公房自身も自身の作品の大意はわからないように、意味よりも前に”在る”というこのことは、”無限の地図”として目の前に今も変わらず横たわっている。

 

「私は嫌になるほど自由だった。」としか言いようがない。

POPミュージック

明らかに素晴らしい。

この曲の何が素晴らしいかというと、跳躍だ。

跳ねる。水面を壊さないように力いっぱい跳ねる。

なぜ跳躍はこんなにも哀しいのか。

 

ショパン英雄ポロネーズ

 

 

POPミュージックという概念。

大衆音楽はまさに大衆の面前に立つ前に壮絶な孤独を有しているからこそ、大衆に届くという意味で、大衆音楽であると僕は信じている。

僕はそれをPOPと呼ぶ。

ただ水面を壊して跳ねているだけの音楽は大衆の前に言葉を持たない。

そんなものは少し聞けばわかることだと思うのであるが。

現状を鑑みると案外そうでもないらしい。

しかし、確実にそれを反転させるような音楽は常に生まれている。

耳を傾けなければならない。

闘争

”私”

私の唯一の所有物であろう私が何処からやってきたのかということについて。

ここで<私>は崩壊しているかのように見える。

<私>というとき既に、<私そのもの>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私そのもの>というような<存在しないもの>についての問へとすり替わる。

<我>を考えるということは常にこの<我>から分裂した<存在しないもの>を立てることになるのである。

 

母親の胎内から産まれたこの<私>という存在者は、<私自身>に根源を持つものではない。<私自身>が選べず、また親からもどんな子をというように選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける<私>。

人間は生まれたときに根源を失って生まれてくる。

母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、母親を失い、つまり根源<必然性>を失ってこの世に生を受けるのである。

 

そして根源を失った存在者はまたしても、関係に支配される。

<私そのもの>は常に凡ゆるものとの関係の中に支配されている。

個人の道徳観念や感情、意思はすべて、この文化の前に押さえつけられている。

こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。

しかし、この私はこの関係性の前に於いてこそ、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。ということもできるのかもしれない。しかし、この様相は以下のような図式になっている。

この<強いられ>という状況(つまりここでは最早〈存在者そのもの〉ですら〈類〉でしかない)から<存在>が生起する。

この<存在しない私>を立てることができるのは、<存在者そのもの〉が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているからに過ぎない。ここで類といったのは私そのものは単独者として、純粋に"私"ということがわからないくらいに、世界との関係に強いられているからである。

 

つまり私そのものでしかないような私というものは最早存在し得ない。 

それは〈類〉である。 

神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。

人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。

 

このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。

または半開的存在者。

またの名を<私>という。

 

人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。

Dr.ストレンジラブ

 

喫茶店に入った時の話だ。

私は変わらず煙草に火をつけて、本を手に取りその周りをぐるぐると回っていた。

本の中に入り込むのは難しいのだ。

 

年配の老夫婦が部屋の中心にある円卓に腰を下ろして会話をしていた。

夫人はサングラスを掛けていた。

博士の異常な愛情のストレンジラブ博士のような人だった。

 

婦人はあまり覚えていない。

 

爺さんがいった。

「この前○○さんから貰った、カステラ、もう食べたか。」

婆さんが応えた。

「一昨日食べたわよ。美味しかったけれど、賞味期限が近かったから、ザラメが溶けちゃって寂しいわね。」

 

その後、爺さんが

「お前最近家で寝てばっかりいるだろ。何か趣味でも始めたらどうだ。」

といった。

 

婆さんは

「昔は本を読んでたわよ、音楽とかも聞いていたし。」

「でも、最近は何もやっていないわ。」

 

更に爺さんが何故かときくと

「だって、私が本を読んでいたら、『なんでそんなくだらん本を読んでいるんだ』、とか、音楽を聴いていた時だって、『そんなつまらん音楽を聴くな。うるさいぞ。』とか、何をやってても止めろっていうから、私、もう何にも興味を持たないことにしたのよ。だってその方がいいでしょ。どうせあなたに止められるんだもの。」

 

こんな会話が耳を通り脳を貫いたものだから、私は本の周りをぐるぐる回るしかなかったのだ。

 

キューブリックの捉える中心。

あそこにはいつも何も写っていないように見える。

虚無が待ち構えているような気がしてならないのだ。

 

気づいたときにはもうザラメは溶けている。

 

 

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眼の現象

眼は背景からそれを切断し対象を引きずり出す。対象が事件として、現れた時ようやく、眼が現れる。というよりは"事件"の発生なくして視るという現象は発生しないのである。

「見て」とは眺めることをではなく、事件の目撃者であれと存在者に要求している。全く関係のない対象を見た時にも別の対象が現れ得るのは、記憶が断片的でありこの対象の断片たちは脳内を常に彷徨っているからである。

完全に連結した記憶を持たぬために、記憶が断片的であるが故に、その断片の狭間に対象を滑り込ませることができる。これを歴史の生成と呼ぶ。眼は対象を切断し、この断絶の空白を埋めるためにある。しかし眼の可能性は、対象の内部で対象を切断しその時初めて眼が現れ、存在者は視線に曝され、このときようやく存在者の眼は開かれ対象を視ることができる。

 

強度"1"あるいは存在者の眼による選別

強度”1”は存在を超えている。強度"1"にとってジャンルは下位構造である。

”深度-拡大”は相互に影響を与え合い、次第に存在者の内で”強度”を生成する。この”強度”は存在とほぼ同値である。

”拡大-深度”の量的、数的な競争は意味への到達にはならない。数量で推し量ることが常に挫折するのは存在の”強度”は"それ"を知らなくても”強度”として存在しているということのことによる。

”強度”は"0"から始まることがなく、"1"から始まる。この"1"は強度の中に、存在の中に既に常に紛れている。これは”拡大-深度”による”強度”の生成の中に既に紛れているために変化を被ることがない。この”1”により始まりを予感するのである。存在が常に正数であるのはこのためである。

この"1"による"1"の発見は無論、数的、量的な尺度からは遠ざかっており加算されることはない。

これは”眼の発見”、”眼の獲得”ともいうべきものである。”眼”は最初からあり、それから事物を見るのではない。事物とともに対象の中の眼が現れ、その次に存在者の眼はようやく見ることを許され、事物が現れる、という事件なのだ。存在が事物を認識するときには純粋な事物としてあるのではなく、常に事件として存在者に現象する。

主観客観の行使はこの泥に塗れている事件を、純粋な事物、多数決的に分離する試みに過ぎない。だが、そもそもとして"1"が存在に既に紛れているようにしてあらゆる事物は存在の認識の中に既に塗れている。これが眼の悲劇であり、眼の可能性でもある。

切断された対象の記憶はその空席をもって、忘却を根拠に、不在を根拠に歴史の生成を行っている。

 認識は対象の内部の眼が対象を切断し、解体したあとに始まる。この発生は存在者の強度と対象物そのものに宿る眼の力に関わっている。内部に眠っていた眼が現れこの眼と存在者の視線が衝突する時、存在者は視ることを、認識することを、余儀なくされるのである。

 

存在者が同じ事物を見るとき、別の意味を取り得るのはこのためではないか。

メモランダム

選ぶというこのことが可能であるのは、選ぶリスト、事件、が目の前に既にあるという受動的可能態であることに他ならない。故に何時でも選択は受動態である。選択する存在そのものが世界から遅れてあるということにより選択は可能性としてある。というよりは世界に対して遅れているからこそやってくるのだ。キルケゴールの「あれか、これか」における”永遠の相の下”とは、例えば神のようにあらゆる事物に先行するという優越性に立つということではない。というよりはそこに優越性がないことが人間存在であり、寧ろ受動態である存在者は常に眼前の選択との間、境界に晒されている。選択がまさに可能性として開かれるのは、この境界に踏み止まるときである。では如何にして存在者はそこに踏み止まることができるのか。”永遠の相の下”に踏み止まるというこのことは如何にして可能なのか。という問は意味を持たない。存在は常に境界にたたされているのである。何かを知る代わりに未だやってこない問を残している。存在は完結を常に回避している。全知である神は未来を組み尽くしているために驚くことができない。驚くということが遅れてやってくるものであり、受動態だからである。存在は知らないということにより驚く。未だやってこない何者かを予視、配視することができるのは何がしかを”それなり”に終え知っているからである。予めとは、なんらかの時間空間の内における現象、つまり事件を予感すること、を現在において持つということであるが、神は全時間的、全空間的に”ある”ために、つまりは時間、空間の非在、非知を排除しているために、事件はおこることなく神の視線を免れる。神は境界にあるのではなく全ての埒外の並列化された現在にある。神は全現在なのである。