サルバドール・ダリ

 

昨日はダリ展に行ってきた。

ダリは1926年にダリになる。

 

最初に断っておくと僕は美術について、絵画について、何かの知識を持っているわけでも、絵を描くこともできない。

 

 ダリがダリになった。

僕がそう感じたのは「巻き髪の少女」というタイトルの絵を見たときだった。

1926年に描かれたこの絵からダリの絵は明らかに立体的になる。

今回のダリ展で壁に掛けられた絵を順番に追っていく。

すると、この絵が突如現れた。

極端に背景と物体が切り離されている。

背景と物体が似つかわしくない、溶け合っていないというわけではないのであるが。

 

ダリがダリらしいのは背景と対象物である物体との境界線、物体と物体の境界線にあると思う。

はっきりとそれらが切り離されている。

別々に書かれた絵をうまく切り貼りしているように見える。

 

ダリは「一つの絵」という印象よりも対象物をそれぞれに配置しなおし、それをそれとしてそのままにしておく。そしてそれらを結合した時に「一つの絵」となっている。

 

アンリ・ベルクソンは我々は何かを認識するとき、その何のある部分を順番に認識することしかできないということに苛立っていた。つまり、全体としてそれをそれとして、そのままに認識することができないということに。ベルクソンは分割不可能なものとして音楽のメロディーというものを参照する。分割不可能なものとして。音楽のメロディーというものはそれを分解してみても音としてあるだけで、メロディーの意味を取り出すことができない。何かのメロディーを思い浮かべるとき、時間の力を借りなければ、つまり順番にメロディーを辿るのでなければメロディーを認識することはできない。メロディーはある部分から部分の流れとして、認識するのでなければそれはただの音に過ぎない。音楽家というのはよくこの落とし穴にはまってしまう。

 

そういった意味で、ダリはメロディーとは真逆の絵を描く人であろうか。

恐らくメロディーを作り上げる上で彼はまったく常人には思いつかない方法を取っているような気がする。分割と統合を繰り返した末に、ダリは描く前に一個の巨大な絵を見ている。

ダリは対象を一つとして捕らえることを人間ができないということをよく知っている。

ダリの絵は他の絵画よりも絵を分解している。ダリの絵を視るとき、全体を捉えるというよりも、それを一つ一つ細かな部分を別々に視ることを要求する。

ダリの絵を「一つの絵」として、つまり全体として捕らえることはとても難しい。

何かがあって何かがあるからこれがある。というような論理的作用を常に解除する。

しかし、それでも尚この絵が、一つの優れた絵以外の何物でもない、この統合の力は一体なんなのか。

 

1923年の「キュピズム風の自画像」なども確かにシュールレアリスムとしての機能を十分に果たしているとても素晴らしい絵である。音楽で言えば「ノイズ音楽」として君臨している。しかし、それは抽象の域をでることがない。

 

「巻き髪少女」についてもう少し、述べるならば、巻き髪の少女の郷愁である。

あの絵を見たとき、旅に出る少女が最後に故郷を振り返った瞬間だろうか。

ある種の故郷との決別。連結の解除。そういった意味でもこの絵は、ダリがダリである境界線となっていると思う。ダリはこのころから徹底的に意味を見ている。

 

もう一つ、ダリ展で感じたことは、澄んだ青空のことである。

ダリはよく青空を描く。

あの青空だけを見ればとてもきれいで純粋な印象を受ける。

しかし、ダリはそこに奇妙な連結の失敗のような対象物をそこに配置することによって、一挙に不気味さに変わる。不気味なほどに住んでいる青空。

あの青空と対象物は乖離し、その乖離が僕らにより不気味な印象を与える。

一種の葛藤として現れる。その時、あらゆる物体を繋ぎ止めていたものが解除され、分離されてゆく。しかしこれらを尚も「一つの絵」として繋ぎ止めているのは、絵の色調であるかもしれない。ダリは色調のみで、これらをぎりぎりで繋ぎ止めている。それもある確かにある。しかし、そういった技法的な何かでない、根源にある葛藤を正確にそのまま表出するということ。恐らくダリは殆ど天啓のようなものを聴いており、また見ている。”不気味”というのはなにも暗い色、暗いイメージだけからなるのではない。一般的に不気味さやホラーというものは暗がりの中から現るのではあるが、それは一つの一般的イメージにすぎない。これが多数である。しかし、それとは反対に白からなる不気味さ、というものがある。なかなかそういったものに出くわすくとがないので、僕らはよくそれを忘れている。それだけにダリの絵はより一層不気味なものとして目の前に立ちはだかる。

 

僕が思う優れている作品というのは、圧倒的な絶望のなかで、崖の淵で、追い込まれていることをわかっているのに、それでもなお笑っているような作者が見えたときである。

 

ダリは明らかに「連結への解除」を欲している。

「繋がっていること」を拒絶している。

しかし、本当はどんな分離も我々に一つの意味として、そこに確かにあらざるを得ない。

ダリはそういった連鎖の解除をしても、どうしても連鎖するこの現実に、

絶望の中で笑っているのである。

 

そういえば、Cocteau Twinsの「Bluebeard」という曲はダリの描く青空に似ている。

タイトルBluebeard、青い口髭。

 

 

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2016-8-29

 

存在者は忘却<埋葬-再生>を根源に生きている。生きることは皮膚を垢で隠し皮膚に亀裂を入れ、日々自己を埋葬-再生することでしかない。再生は埋葬のエネルゲイアとして、埋葬は再生のデュナミスとして、或いは埋葬は再生のエネルゲイアとして、再生は埋葬のデュナミスとして。

忘却の埋葬性は能動的受動的を超えて常に存在者に纏わり付いている。エネルゲイアは引き受けがたいこのデュナミスをなお引き受けざるを得ない。

 

果たしてデュナミスとエネルゲイアはどう区別するのか。何が区別するのか。

 

存在者の自由は予測があくまでもデュナミス-エネルゲイアに留まることにしかない。それは死をもってしても同じことである。神に予測は存在しない。予測すらエンテレケイアとして常に充足している。神は常にエンテレケイアとしてしか在ることが出来ない。

 

メモ

極限的に作家の野望は作品から作家自身を消し去ること。更に意味以前のものとして、巨大な地図のようにいかようにも取れる可能性を露出させること、無限の情報として読者の目の前に提示したとき、もう一つの現実として読者は読解作業を始める。或いは世界の横に世界を置くこと。現実的というのはある意味では無限の情報(現実的意味以前)を世界の傍らに置くこと。

 

デュナミス-エネルゲイアの境界は消え去る。

 

さりとて、またしても再生される。

鞄 / 安部公房

安部公房の「鞄」という作品がある。

  

新潮文庫にて「笑う月」という短編集の中にこれから取り上げる「鞄」という作品が収められているので、是非とも手に取って触れていただければと思う。

500円ほど出せば買えるものです。

 

安部公房 「鞄」

鞄は、持ち物であり、運ぶための容れ物だったり、もっといえば環境であり、世界であり、自己自身である。そして鞄の中身は外から、つまり自分の目線が届かないところにある。それを持って歩くという無意識的な習慣や癖のようなものが、鞄から意識を遠ざけている。己の習慣や癖を意識するあまり、世界と関わっているということから意識が遠ざかっている。己の癖や習慣に気を取られると歩くことが不自然に感じたり難しくなることに似ている。癖や習慣は選択の前に存在している最も近いものだ。無意識の内に発揮できる存在者の力量といってもよい。

癖や習慣は現在の自分の限界であり、ある意味で世界の限界である。

人間は他者と対峙することでしか、己の筋力の限界と向き合うことがない。他者との対峙をなくして、自分の鞄の中身(癖・習慣)が自らの意識に開かれることはない。そもそも鞄を持って歩くということは、外へ外出するときである。これは他者と対峙するために無意識に自らの限界と世界の限界を鞄の中に押し込めている。

自らの限界と世界の限界は、自らの筋力の限界と同じことを示している。

何を持たなければいけないのか、何を持たなくてよいのか、という習慣や癖の見直し(世界の再考と自らの再考)は、どちらにしても自らの筋力と世界の限界を前にして、再考を迫れられる。

だいたいの人はどこへ行くにも毎日同じものを鞄の中に詰めて外に出る。

筋力の限界は鞄の中身に決定されており、鞄を持って歩くということはその限界内で世界を歩くということである。歩ける範囲というものも鞄に決定されている。

 

 

自分でももはや何を書いているのかわからなくなってきたというのが正直なところである。しかし何かしらの鞄(手ぶらでも同じことです)を持って、世界を歩いている。

 

この「鞄」を読んで最初に思ったことを話すと、非選択の選択の強度とでもいえばよいのだろうか。僕は当時から選ぶことにとても疲れ果てていたように思う。というよりも鞄の中に何かを詰めるのを恐れていた。選ぶことを。また選ぶ偏向性、つまり癖や習慣を晒すことを恐れていた。

しかし、恐れるも何もそんなことの以前に存在者は世界に在るということによって晒されている。鞄の中身は鞄を持つ私によって世界に既に開かれている。しかし、私にはそれを持っている意味がわかることがない。他者との関係を生まれた時から獲得している、あるいは獲得してしまっている。この獲得してしまっているというのは、在ることの前提条件でもある。私の生誕は私が何一つ選んでないところに根源を有している。しかし既に獲得してしまっているがゆえに何がしかを受け取ることができるのも事実なのである。存在者の自由は先ず、既にして在ることが与えられているということにある。

人間の自由はこんなところにあったのだろうか、僕はこの鞄の主がうらやましかったのだ。そして何か救われたような気がしたのだ。僕らは少し先のことが想定したように実際に起こるかということが、どちらに転ぶにせよ常に隠されている。限りなく0%だろうと。限りなく100%だろうと。そういった意味で僕らは神と異なっている。

 

 

この番組の中で、アナウンサーが「自分と他との関係、、」といったとき安部公房は「ですね」と言った後に「自分とというか、他者というのは何かということ」と訂正した。安部公房がここで意識していたのは何なのか、ということを暫くの間、僕は考えていた。何故、”自分”という言葉を外したのか。環境世界によっていわば作られたのが自分という存在者なのであれば、私が私という存在者にこだわることに何の意味もないのかもしれない。それは私が作り出した私である前に、環境世界が作り出した、私なのだから。私の存在はまずもって、私が世界にあるからこそ私はようやく在る。それは現在も他者(世界)との”関係”に引きずり続けられている。それでも我々はこの存在者を他者と区別して”私”と呼んでいる。しかし、私と呼ぶという必要があるということは呼びかけに「応える”私”」を想定している。

他者の中で他者を見出した時、僕という存在者がようやく姿を現すのかもしれない。それも私の中に現れるのではなく、他者の中にしか現れないようなある何か。鞄を持つ者は自分の鞄の中身を見ることで己を理解するのではない。むしろそんなことは邪魔でしかなく、「他者との通路の回復」は、他性から他性へ送り返すことによってしかなしえないのかもしれない。むしろそういうった風にしか本来は存在していない。自分という存在者は自分の意識の中に十分な私が存在しないことによってどこまでも変化の可能性を持っているのかもしれない。未だにやってこないという意味で。他者へ他者として送り返すこと。倫理。没我の地平。

 

このように25年間生きても当然のようにわからないこの安部公房の「鞄」という「無限の情報」は、当時と変わることなく僕の中で重大な事件として在る。

安部公房自身も自身の作品の大意はわからないように、意味よりも前に”在る”というこのことは、”無限の地図”として目の前に今も変わらず横たわっている。

 

「私は嫌になるほど自由だった。」としか言いようがない。

POPミュージック

明らかに素晴らしい。

この曲の何が素晴らしいかというと、跳躍だ。

跳ねる。水面を壊さないように力いっぱい跳ねる。

なぜ跳躍はこんなにも哀しいのか。

 

ショパン英雄ポロネーズ

 

 

POPミュージックという概念。

大衆音楽はまさに大衆の面前に立つ前に壮絶な孤独を有しているからこそ、大衆に届くという意味で、大衆音楽であると僕は信じている。

僕はそれをPOPと呼ぶ。

ただ水面を壊して跳ねているだけの音楽は大衆の前に言葉を持たない。

そんなものは少し聞けばわかることだと思うのであるが。

現状を鑑みると案外そうでもないらしい。

しかし、確実にそれを反転させるような音楽は常に生まれている。

耳を傾けなければならない。

闘争

”私”

私の唯一の所有物であろう私が何処からやってきたのかということについて。

ここで<私>は崩壊しているかのように見える。

<私>というとき既に、<私そのもの>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私そのもの>というような<存在しないもの>についての問へとすり替わる。

<我>を考えるということは常にこの<我>から分裂した<存在しないもの>を立てることになるのである。

 

母親の胎内から産まれたこの<私>という存在者は、<私自身>に根源を持つものではない。<私自身>が選べず、また親からもどんな子をというように選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける<私>。

人間は生まれたときに根源を失って生まれてくる。

母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、母親を失い、つまり根源<必然性>を失ってこの世に生を受けるのである。

 

そして根源を失った存在者はまたしても、関係に支配される。

<私そのもの>は常に凡ゆるものとの関係の中に支配されている。

個人の道徳観念や感情、意思はすべて、この文化の前に押さえつけられている。

こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。

しかし、この私はこの関係性の前に於いてこそ、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。ということもできるのかもしれない。しかし、この様相は以下のような図式になっている。

この<強いられ>という状況(つまりここでは最早〈存在者そのもの〉ですら〈類〉でしかない)から<存在>が生起する。

この<存在しない私>を立てることができるのは、<存在者そのもの〉が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているからに過ぎない。ここで類といったのは私そのものは単独者として、純粋に"私"ということがわからないくらいに、世界との関係に強いられているからである。

 

つまり私そのものでしかないような私というものは最早存在し得ない。 

それは〈類〉である。 

神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。

人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。

 

このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。

または半開的存在者。

またの名を<私>という。

 

人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。

Dr.ストレンジラブ

 

喫茶店に入った時の話だ。

私は変わらず煙草に火をつけて、本を手に取りその周りをぐるぐると回っていた。

本の中に入り込むのは難しいのだ。

 

年配の老夫婦が部屋の中心にある円卓に腰を下ろして会話をしていた。

夫人はサングラスを掛けていた。

博士の異常な愛情のストレンジラブ博士のような人だった。

 

婦人はあまり覚えていない。

 

爺さんがいった。

「この前○○さんから貰った、カステラ、もう食べたか。」

婆さんが応えた。

「一昨日食べたわよ。美味しかったけれど、賞味期限が近かったから、ザラメが溶けちゃって寂しいわね。」

 

その後、爺さんが

「お前最近家で寝てばっかりいるだろ。何か趣味でも始めたらどうだ。」

といった。

 

婆さんは

「昔は本を読んでたわよ、音楽とかも聞いていたし。」

「でも、最近は何もやっていないわ。」

 

更に爺さんが何故かときくと

「だって、私が本を読んでいたら、『なんでそんなくだらん本を読んでいるんだ』、とか、音楽を聴いていた時だって、『そんなつまらん音楽を聴くな。うるさいぞ。』とか、何をやってても止めろっていうから、私、もう何にも興味を持たないことにしたのよ。だってその方がいいでしょ。どうせあなたに止められるんだもの。」

 

こんな会話が耳を通り脳を貫いたものだから、私は本の周りをぐるぐる回るしかなかったのだ。

 

キューブリックの捉える中心。

あそこにはいつも何も写っていないように見える。

虚空。

 

気づいたときにはもうザラメは溶けている。

眼の現象

眼は背景からそれを切断し対象を引きずり出す。対象が事件として、現れた時ようやく、眼が現れる。というよりは"事件"の発生なくして視るという現象は発生しないのである。

「見て」とは眺めることをではなく、事件の目撃者であれと存在者に要求している。全く関係のない対象を見た時にも別の対象が現れ得るのは、記憶が断片的でありこの対象の断片たちは脳内を常に彷徨っているからである。

完全に連結した記憶を持たぬために、記憶が断片的であるが故に、その断片の狭間に対象を滑り込ませることができる。これを歴史の生成と呼ぶ。眼は対象を切断し、この断絶の空白を埋めるためにある。しかし眼の可能性は、対象の内部で対象を切断しその時初めて眼が現れ、存在者は視線に曝され、このときようやく存在者の眼は開かれ対象を視ることができる。

 

強度"1"あるいは存在者の眼による選別

強度”1”は存在を超えている。強度"1"にとってジャンルは下位構造である。

”深度-拡大”は相互に影響を与え合い、次第に存在者の内で”強度”を生成する。この”強度”は存在とほぼ同値である。

”拡大-深度”の量的、数的な競争は意味への到達にはならない。数量で推し量ることが常に挫折するのは存在の”強度”は"それ"を知らなくても”強度”として存在しているということのことによる。

”強度”は"0"から始まることがなく、"1"から始まる。この"1"は強度の中に、存在の中に既に常に紛れている。これは”拡大-深度”による”強度”の生成の中に既に紛れているために変化を被ることがない。この”1”により始まりを予感するのである。存在が常に正数であるのはこのためである。

この"1"による"1"の発見は無論、数的、量的な尺度からは遠ざかっており加算されることはない。

これは”眼の発見”、”眼の獲得”ともいうべきものである。”眼”は最初からあり、それから事物を見るのではない。事物とともに対象の中の眼が現れ、その次に存在者の眼はようやく見ることを許され、事物が現れる、という事件なのだ。存在が事物を認識するときには純粋な事物としてあるのではなく、常に事件として存在者に現象する。

主観客観の行使はこの泥に塗れている事件を、純粋な事物、多数決的に分離する試みに過ぎない。だが、そもそもとして"1"が存在に既に紛れているようにしてあらゆる事物は存在の認識の中に既に塗れている。これが眼の悲劇であり、眼の可能性でもある。

切断された対象の記憶はその空席をもって、忘却を根拠に、不在を根拠に歴史の生成を行っている。

 認識は対象の内部の眼が対象を切断し、解体したあとに始まる。この発生は存在者の強度と対象物そのものに宿る眼の力に関わっている。内部に眠っていた眼が現れこの眼と存在者の視線が衝突する時、存在者は視ることを、認識することを、余儀なくされるのである。

 

存在者が同じ事物を見るとき、別の意味を取り得るのはこのためではないか。