Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?

 

形而上学入門/マルティン・ハイデッガー  訳 川原 栄峰  

 (平凡社ライブラリー

 

以下の引用(四角で囲われた部分)はすべて上記からである。

 

"Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?"

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」

 

 

無いことに困るのは、ある時を、既に知ってしまっているからである。

そして、それが何れ、帰って来るのではないか、或いは、何れその時がやって来るのではないか、というすべての期待(予持)の中に、今まさにその問に対峙しているからである。

 

 

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」.....たとえば深い絶望の中にあって、ものごとからすべての重みが消えうせようとし、あらゆる意味がぼやけてしまうとき、この問いが立ち現れる。

 

         

 

 

この問いが及ぶ領域は最も広範である。この問いはどんな種類の存在者に達しても停止することがない。この問いはすべての存在者を、すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する。

 

 

 

われわれはわれわれの問うことの経過の現在の段階から、さらにもう一つの別のことを見渡すことができる。われれわれはさきに、「存在」という語は、普通の考えに反して、一つの全く限界づけられた意味を持つということを明らかにした。すなわち、存在そのものは一つの特定な仕方で理解されているということである。そのように理解されたものとして、存在はわれわれにとって開けて明らかである。しかしどんな理解も、開示の根本様式の一つとして、一つの特定な視線の中で動いているはずである。この物、たとえば時計は、われわれがあらかじめ既に時間とか、時間の計算とか、時間測定とかいうようなことを知っているのでないかぎり、われわれに対してはそれがあるところのものという点では閉ざされたままである。有様の視線はあらかじめ既に敷設されていなければならない。われわれはこれを先行-視線、「ペルスペクティーヴェ」と名付ける。

 

 

ここでおそらく重要と思われるのは、「すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する」

という記述である。「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問いは"全時間"、"全空間"、に及ぶということである。"むしろ無があるのではないのか?"というこのことは現-存在にとって無が存在しない(認識し得ない)という不可能性を既に感じ取っている。これは無があるかどうかということを差し置いて既に感じ取っている、ということになる。ハイデガーはこの既に感じ取っているこのことのありかたを”先行-視線(フォア・ブックバーン)(ぺルスペクティブ)”と名付けている。”予持”に近いと思われる。どんな理解もな現-存在は終わった過去も未だやってこない未来もここに引き込む威力を持っている。持ってしまっている。しかし、注意しなければならない。

 

 

もっとも、一見鋭そうな、偉そうな顔をして、昔からよく知られている次のような考えを再び持ち出す人があるかもしれない。そもそも「存在」とは最も普遍的な概念である。この概念の妥当範囲はすべての上に延びており、無にまでも達している、無といえども、考えられたもの、言われたものとしては、やはり何かで「ある」のだから。したがって、この最も普遍的な概念たる「存在」の妥当範囲を越えては、この概念そのものをさらに詳しく規定することのできるようなものは、語の厳密な意味においてもはや何ものも存在しない。この最高の普遍性で我慢するより仕方がない。存在の概念が究極のものなのだ。しかもこのことは、概念の外延が広ければ広いほどますますその内包は不定で空虚であるという論理学の一法則にも適っている ーところで「存在」という概念以上に外延の広い概念がありえようか?-と。

この考え方はおよそ正常にものを考える人になら誰でも -われわれはみな正常な人間でありたいのだがー すぐさま文句なしに正しいと思われる。だがこの場合、存在を最も普遍的な概念と決めてかかることは存在の本質を衝いているのか、それとももともと初めから存在の本質を誤解しているために問うことが見込みなくなっているのか、ということがなお問題である。

 

 

昨日のファサードと関連して。 

 

 

 存在はどうなっているのか?存在を見ることができるだろうか?われわれは存在者を、この白墨を見る。しかし、われわれは色や光や闇を見るように存在を見るだろうか?あるいは、われわれは存在を聞き、嗅ぎ、味わい、触れるだろうか?われわれはオートバイを聞く、それが大きな音をたてて通りを疾走するのを聞く。われわれは大雷鳥を、それがそびえる森をすべるように飛び越えていくのを聞く。しかしほんとうは、われわれはただモーターのバタバタという物音や、大雷鳥がたてる物音を聞くだけである。純粋な物音を記述するなどということは大変むずかしく、われわれには不慣れである。というのは、それはわれわれが普通聞いているものではないからである。われわれは〔単なる物音に比べるならば〕いつでもそれより以上を聞いている。

 

 

 

ファン・ゴッホの描いたあの絵、無骨な百姓靴一足のほかには何もない。この絵は本来何ものも呈示していない。にもかかわらず、これを見るや直ちに、われわれ自身が晩秋のたそがれ、じゃがいもの茎を燃やし終えて鍬を肩に野から疲れた足で家路をたどっているかのようにわれわれはこの絵にあるものとひとりで対面する。何がそこで存在的であるのか?画布か?筆触か?色彩か?

いまわれわれが列挙したもののすべての中で、一体、存在者の存在とは何なのか?こんなことさえわからないとは、一体、われわれはなんという愚かなうぬぼれと賢さとをもって、この世界の中であちこち走ったり立ち止まったりしているというのか?

 

 

過去にあった、未来に必ずそうなる、というようなことはどんなことがあっても現存在に十全に正しく通達されることは在り得ない。同じように眼の前にあるものを見やるとき、存在者を見るとき同じように、十全に正しく通達されることは在り得ない。この十全に正しく通達されないことが存在者に残された唯一の可能性である。

現存在は現在という時間に貼り付けられている。全く目が離せないでいる。過去や未来を想像しているときですら、それは現在というその瞬間においてそうしている。ただし、規定されていることを知らずにそうしている。存在者はは"存在"によってすべてが支えられている。この存在は現存在の根拠である。何かがあることの根拠としての。無が"ある"の前で(根拠)、"無"は"ある"。存在とは殆ど無である。ニーチェが言った存在とは幻であるというのはそういったことである。意志の手前の意志や、環世界というものが、ニーチェフッサールハイデガーが言っている"存在"という言葉ではないかと私は考える。

 

"既にあるもの"のみならず、"かつて存在したもの"および"将来存在するはずのもの"、という記述はすべての時間を包摂しているように見えるが、これは現存在にとってそうではない。"かつて存在したもの"は確かに過去である。また、"将来存在するはずのもの"は未来である。しかし、"存在したもの"が存在したものであるために一個の現存在を必要とする。つまり、現在を必要とする。同じように将来存在するはずのものというものも、未だやってきていないという点で、過去の存在したもの同様に憶測に過ぎない。だが尚、存在したもの、存在するはずのもの、が現存在に、つまり観測者に関係なく”ある”のだとすれば(これも私という観測者の憶測の域をでない)のだが、世界は既に全体性として、すべてが完了している(これも私という観測者の憶測の域をでない)。それはちょうど、今私がこのキーボードを打っている、打鍵している意志の手前の意志によって、または環世界によって既に終わっていなければ可能ではないことなのである。更に例を挙げるならば、物を動かすエネルギーによってどれだけの距離を移動するかということが、環世界と共に規定されている。実際に物がその距離を移動し終える前に、エネルギーを加えた瞬間に決まっている。そのようにして人間の意志を含むすべての物理法則によって動く前からすでに動いている、ちょうどピンボールのように弾き出されている。そうやってはじまりのはじまりのはじまりの...というように無限に退行してゆく。広く言われている決定論が責任の概念を回避し得るという理論はこれである。ラプラスの魔物もここに属している。これに乗っ取るのならば始まりは既に終わっている。それでもなお、現存在の自由というものがあるとすれば、未だその瞬間がまだ実際に結果していない、という現在地点においてのみ、終わっていないという地点においてのみ、担保されているのである。故に現在という時間は、現存在にとってのみ全く何者にも規定されていないのである。いや規定されているが、現存在はそれを知り得ないということに規定されている。

 

では、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」

 に対する、私のこの記述に対する同意は、同じように現存在の観測者の憶測の域をでない。

 

世界は等の昔に終わっているが故に、何も始まっていない。

何かが始まっているのは勝手に存在者が誤解の上で始まっているに過ぎない。

現存在は何処までも非-知によって守られているに過ぎない。人はそれを可能性と呼んでいるに過ぎない。

 

 

何故私は「に過ぎない」というのだろうか。 

何故、ハイデガーが、「存在」と「思考」という形で対立させたのかそれがわかるだろうか。

 

Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?ということしかできない現存在の全体性において。この全体性は現-存在として発することしかできないという地点において。つまり、(世界-内-存在)の全体性において。

 

 

特に意味はない

 雑記

 

書きたいという欲望だけが先行する。書く事もない。

見たい感動もなければ聞きたい感動もない。

嘘だね。

行きたい場所はあれど、行ける場所ではなく、

逢いたい人がいれど、逢える人でもない。

新しい五感を探している。新しい芸術或いは新しい感動の仕方。

独りでいることだ。なるべく。

 

大型連休だ。

喫茶店にはいつもと同じ人がいる。いつもと違う人がいる。

会話は圧縮された空間に吸い込まれ破裂する。

言葉は錆びた鉄になり、叩いても鳴らない。

 

 

ファサード】:街を形成するもの全て。

        視線の最初の到達地点。

        それ以降、決して目の前に現れることのないもの。

 

視線は慣れ親しんだ外貌に留まることができない。

視線は物体の外貌を貫き意味へと刺さる。

 

生活が見えないのと同じように。

空でいえる詩は?

デザインとは外貌の話で済むものではない。

文体とは意味であるように、

慣れ親しんだ街を歩き、外貌に驚くのは難しい。

使い古されたものを新品のように再生させる力が失われていく。

たしかアンディ・ウォーホルは「外と内の反転。」

「意味が消え去るまで繰り返し同じ映像を見ることが好き」

というようなことを言っていたようなと思い出す。

 

見ることも終わってくれず、聞くことも終わってくれない。

マテリアルだけが勝手に終わっていく。

外貌を見ているのではない。

外貌を聞いているのではない。

そうすることは出来ない。

 

外貌は最初からファサードに塗れているものとしてしか存在していない。

誰一人として外貌それだけを見たことがない。

外貌は、ファサードは既に意味になってしまった。

 

見慣れているのはコーヒーカップではない。

見慣れているのは喫茶店ではない。

見慣れているのはこの街ではない。

物は絶えず初めてそこに存在している。

それと同じように、僕は絶えず初めてそこに存在しているだろうか。

僕は僕に見慣れてしまった。

僕を見慣れた僕というのは誰なのか。

ファサードは僕が変えるしかない。

ファサードは意味である。

8月の前日

 

 

 

生活を閉じた。

 

 

高慢への献身的な復習者ボオドレエルやランボウの砂漠のなかに、人間の背後の砂漠の上に冷く散歩するライプニッツの精巧なロボットがどんな性能と容貌を持っているかはラプラスの魔物だけが識っているのかも知れないのです。             

                                 白の思想 / 北園克衛

 

昨日はボンネットに空を乗せられるような天気ではなかった。

ジメジメとした熱い外気と対抗するかのように喫茶店の中は酷く冷えている。

店員は慌ただしく動いているためか、客の体温は知らない。

店内の冷気が、適切に防御反応を起こした私の腕に、鳥肌となって現れた。

店内に入ったときの気分はアイスコオヒイを飲みたいのだが、席に着いて15分もすればもう飲みたくなくなっている。氷は解けて半分以上残ったガラスのコップを下げ台に乗せる。寒さに耐えかねて、街を変え、喫茶店から喫茶店へ移り、終いには疲れ果て、目的もなくただ体力の続く限り繰り返す。

 

いつも通りだ。

だからこそ尊いと思えるような体力などもう残っていないのに。

 

僕は書かなくて済むようになるために書いている。そうしたところで蛇が自らの尻尾を呑み込むのと変わりがない結果になるだろうことはなんとなくわかっている。僕は生活をしたくないがために書いている。書いている内容が生活であるか生活でないかは関係がない。僕が書くときは生活から遠ざかりたいときだ。僕は絶望しているときにしか書かない。滑稽なことに、僕が、僕は僕であると思う瞬間はこのときしか存在しない。あとは全く僕の僕とかけ離れている。あまりにもかけ離れている。それ以外の僕はあまりにも気味が悪く思う。滑稽である。そんな存在は僕の中にしか存在しないのだから。僕の中に愛というものが存在しないのだろうということがわかってくる。僕がこの世界でできたことは好きになることだけだったのかもしれない。行く先々で男性の左手の薬指を目で追っているのに気づく。愛することのできる人間というのはどういう人間なのだろうと考える。僕には生活が出来そうにない。ただ生活はある。眠れない。仕事に行きたくないと心から思う。

 

神話・共同体・虚構

 

 

ジョルジュ・バタイユ生誕120年記念国際シンポジウム

 

神話・共同体・虚構 

 ジョルジュ・バタイユからジャン=リュック・ナンシー

 

慶應義塾大学 三田キャンパス 南校舎ホール

 

----------------------------------------------------------------------------------------------

 

残念ながらジャン=リュック・ナンシーをこの眼で見ることは叶いませんでした。

ですが、この来日のために、書かかれたテクストをナンシーの妻である、エリーヌ・ナンシーが、読み上げました。日本語で書かれたテクストをスクリーンに投影し、それはまさに詩のような文章で書かれており、また、エリーヌ・ナンシーによって、彼のテクストが朗読され、我々の眼前にありありと、ジャン=リュック・ナンシーを蘇生させました。ナンシーの不在を埋めるような、愛のような祈りでした。

 

パロールは発話者が居なければ聞くことがない。また、聴くものがいなければ、話すこともない。そういった意味でエクリチュールよりも、パロールのほうが、限定性が高いと言える。エクリチュールは、特定のある人に宛てるでもなく、宛先なく、宛先の受領なしに、在ることができる。(parole adressée à-.)でもおそらく、一人ではないという複数性をもって書いている。今私は誰かに向かって書いている、いくつかの想定し得る人を思って書いている。さらに無名の名指し得る、未だ出会ったことのない誰かに向かって、いつでも僕は有る何か、に向かって書いている。決して、無に書くことはできない。無の有としてしか存在しない。おそらく独白は、純粋に独白として存在することができない。

 

教授が言っていたように、同じテクストをジャン・リュック=ナンシー本人がここで読み上げることと、エリーヌ・ナンシーが読み上げることの何が違うのか。また、そういった意味で、ナンシー本人がいないにも関わらず、ナンシーの言葉が語られているというこの事態は一体なんなのかというこの問いは、奇しくもこの公演のタイトルである、『神話・共同体・虚構』と符合してしまった。

 

この三つはどれも人称性を欠いているのです。"宛先のない"ものであり、”発話者が存在していない"地点でもあるわけです。

つまり、これらは誰が書いてもよかったものでもあるわけです。さらに、誰が読んでもよかったものでもある、そういう風にあったわけです。

神話とは師から弟子へという伝承とは違う方法で、語り継がれている。

神話とは、ある特定の誰かに宛てられたものでは最早ない。神話自体、誰が書いてもよかったわけです。そういった神話の複数性が問題にあるわけです。ですから、神話は誤配の誤配でもあるのです。にもかかわらず、神話それ自体は、無傷のまま存在している。神話が語り継がれるのに失敗するという事態はもうとっくに終わっている。神話が記録された時点で、神話の誤配はオリジンの神話の派生としてしか存在することができない。それは別の神話にすぎないわけです。故に神話は永久に無傷のまま留まる。

 

ジョルジュ・バタイユ氏だろうか、否、ニーチェ氏に関してバタイユ自身がそう言っているように、バタイユ氏はそっとしておこう。

こと心臓に関わる限り「なになに氏」はそこにそっとしておかなければならない。

 

作品とは、ドゥルーズが書くことについて語った言葉を借りれば、「人は知っていることと知らないことの先端でしか書かない。」ということになるだろうか。最早可能性として、"祈り"として書く。これは書くことに留まることではないのです。人間の生そのものが、知っていることと知らないことの狭間で問いに付されている。もっといえば、というより寧ろ、知識ではなく、体験していない。未だやってこないということの方が本質的な事態であるように思われます。

 

このシンポジウムは、ある種の神話としてあったのだろうか。

宛先なしに、存在していたのだろうか。私は大学生であったことが一度もない。

にもかかわらず、この場は、無名の私、一般人である私に対しても開かれていた。

そうした意味でも確かにこの知は閉ざされておらず、開かれていた。当たり前のことだが、僕が居なくてもこのシンポジウムは開催されている。登壇者である教授が一人欠けようとも、開催される。何しろ、今回の主役である、ジャン=リュック・ナンシーが不在であるという事態でさえ、このシンポジウムは止まることがない。誰が居てもよかったにも関わらず。ある名指し得ぬある何かに向かって。語りつくし得ぬ不可能性の可能性へ向かって。 

 

複数性。何も神話だけではないように思える。それはナンシー自身が1991年に心臓移植を受けたこの物理的な問題を待つまでもなく、「他人の心臓が私の心臓の内で...」という様相の許にある存在。

今もなおその他者の心臓で自己が作動している主体。心臓が入れ替わってなお、駆動する私という存在者。その中で主体とは何かを問われ問い続けている。一個の存在者に関してすら。僕の中に無限の存在者が流れている。他の存在者もそうなのであるならば、存在者があるということは一体、どういった相貌なのか。世界があるとは何なのか。一体、誰が語っており、誰が話しているのだろうか。世界と存在を隔てるものは果たしてなんなのか。外皮は剥がれ、むき出しの肉も剥がれ、灰となった骨、自己を差し出した先にある、複数性の呼び声、複数性の応答。誰もが産まれ終わっており、死も生の外にある、始点と終点を逸している存在者。存在。

 

あの空間にナンシーは不在の有として存在していたように思います。

確かに他者を通して、ナンシー自身が語り、他者を通して、ナンシー自身を聴いていた。それはむしろ、はっきりとした形で現れた。ナンシーの強大なエネルゲイアとして。

 

このシンポジウムのナンシーの最後のスライドは確かに普通の意味で時間軸として終わりの言葉です。しかし尚、終わり得ぬと言わんばかりに、言葉の意味はむしろスライドの最後であるという通常の時間軸に逆らうように、開かれた神話のように。

また、Adorashion(祈り)のように。

 

技術者たちは世界を変容させただけだ。

いまや不可能なものを世界に輝かせなければならないのである。

                                                                 ジャン=リュック・ナンシー 

 

 

 

前-存在者性

 

 

ジャン=リュック・マリオン

 

『還元と贈与』

 

を読んだ。

 

私が読んだものの中で、自身が考えていた"存在者"の認識に、

"私"というものの"存在者"の認識に近いものだった。

予め言っておくと僕の圧倒的力不足により、マリオンの意図していることではないのであろうから、読んだ結果喚起された雑感ということで許されたい。

 

仮に未だ透徹した視線が存在するならば、あまりに直観的にすぎる判断を下すならば、どんな思想もこの"前-存在論"または"非-存在論"とも呼ぶべきものを基盤としてしか現れることがなく、今のところこれ以上に遡行することができないものだと思っている。

 

一般的な存在論はこの基盤の上での遊戯にすぎない。しかし、何かを悲観したり、何かを楽観する必要も、最早ない。なぜならば、すべての存在者はこの遊戯が遊戯であるということを知ったところで、この遊戯から逃れることがなく、また当然、ここに記す全てもこの遊戯場で起こる遊戯に過ぎないからである。もしかするとこの場は “知っている”ということが無力となる地点なのかもしれない。そしてともすれば存在論が世界論として現れるのかもしれない。だからこそ思想・哲学は、“これ以降“のという形で進展させようとするならば、形而下の出来事にすぎない。

 

 

過去に書いた記事を加筆修正する形ではあるが、

ここにもう一度、再記する。

 

※<私自身><前-存在者性>という概念は、<呼び求め>を発するもののことである。

還元と贈与の中で、<呼び求めるもの>ではな<呼び求め>としているのかについての感覚はここで掴めるものと思っている。また、なぜ、<前-存在者>ではなく<前-存在者”性”>なのかということについても同様である。

 

私が何処からやってくるのかということについて。

 

私という位相は、何故に特異な地点なのか。私が「私」というとき、名指すものがいつの間にか名指されているものになっているということであるだろうか。それは一方から他方へということが順番に行われているが故に、自己は分断し差異化するという意味で交わることがないということなのだろうか。これは言語のひいては思考の形式によるものの錯誤なのだろうか。または、自分の顔を直接に見ることが私にはできないというような意味なのだろうか。単に、分裂するという点で言えば、私といわずとも、テーブルだろうが、友人だろうが、常に現実存在そのものとして、事物そのものへ、という意味ではいつでも捉え損ねており、また過剰でもあるという点でこれらには差異がない。私が<私>というとき既に、<私自身>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私>というような対象化された<存在しないもの>についての問へとすり替わる。いつの間にか対象と化した私は、前-私的な存在者が作り上げた-私、なのだろうか。ともかく、何よりもまず、私自身というものが、<呼び求め>、である場合、その呼び求めを唯一聞きうるものとして、呼び求め、つまり私自身に、私は優位を保っているのである。

 

呼び求めは、なおも対象ならざる対象として存している。それはゴーレムやペガサスやケンタウロスよりもなお、対象ならざる対象として存在している。そういう意味で、私自身という存在は全き他性であるようなところのものである。

 

“私が私を名指し得ない特異な場所に私自身が存在していることを直感しうるところの存在者“

 

存在者の権能は他者に対するよりも無力であり、他者よりも全く他者だという点にある。私という存在者はまずもって、私自身に、存在に、呼び声に、明け渡され任じられ、全うする以外の道がないということである。したがって、どこまで行っても世界的に存在者は受動性に塗れている。存在者の能動性はそれを十全に感知し得ない点にのみ担保されているに過ぎない殆ど幻視である。

 

ここでの課題は、名指し得ぬ存在者を前-存在論的に存在者の前に引きずり出し、召喚することにある。

そして、この<私自身>を<前-存在者性>と名付ける。

 

どんな存在者も自分の生を私は選べず、また親からもどんな子をというようには選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける。

母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、根源である母親を失いこの世に生を受けるのである。これは一般的にいって、私が違う国、時代で生を受けていれば、ここにいる私とは全く異なる性格を有していることと同様である。さらに、現在も未だ私を選ぶことが出来ないように外部を選ぶことができないように。そして<私自身>というものは<私>という窓と共に変更を被っている。存在者は絶えず世界からの影響を受けて生きている。

 

それでもなお、存在者に優位があるのは、ジャンケレヴィッチの用語を借りれば、半開的存在者としてあるということにある。これは端的にいうとして、世界に対して半分開いており、半分は自己に閉じこもっているという単純な意味で、そのようにして私というものが存在しているからに他ならない。これはどんなに先のことを予知(そのときの感情さえも)できていたとしても、実際にその瞬間になるまでは(体験するまでは)それを良い意味でも悪い意味でも、知ってはいても、了解していない、ということにある。常にその経験は事象そのものよりも欠けており、隔たっており、時に過剰でありうる。さらに、どんな存在者も知っていることと知らないことを合わせれば総体量は同じ(比率が違うだけ)ということからも半開的なのである。また、その瞬間に知覚していること、知覚していないこと、という意味でも半開的である。こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。前-存在者は一人称単数ではなく、むしろ、変容し続ける三人称複数として存在しているが、存在者はこれを捉えることが出来ない。

これをこそ存在者の基盤の上に重くのしかかかる<前-存在者性>というべきものである。

この<前-存在者性>は純粋に私と呼べるようなものではない。更に、私以外の誰それというわけでもない。マリオンは、端的に、<存在の問い>を、「蝶番のように存在している。」と記しているが、しかしこれは、この<呼び求め>、<前-存在者性>すらも、蝶番のように存在している。そこにつながれているのが対象化された<私>である。

対象化された私というのは、つまり、この<呼び求め>、<前-存在者性>に対象化されているところのものである。マリオンのいう、<呼び求め>つまり、この<前-存在者性>が私に<呼び声(呼び声の不在でさえ)>を送付する。私はこの送付に対してどのような態度を取るかということを強いられている。私はここでもっとも思い切った形でこれを言わなければならない。この呼び声を送付された私の態度決定、回答は、既にして終わっているといってもよい。世界があることの知覚は既にして、物理的にいって、世界の客観的、超越的にはすでに終わっているものを人間存在は知覚している。これは世界に対して存在者が遅れを取っているということと同じである。

 

それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。

 

しかし、この私はこの関係性の前に於いて、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。それは半開の無知によって成し得ている。この様相は以下のような構成になっている。

 

この<強いられ>という状況、<呼び求め>から<存在者>が生起する。"呼び声を聞かざるを得ない者"として生起する。

 

この<存在しない私>を立てることができるのは、<私自身>が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているからに過ぎない。ここで類といったのは、私そのものは単独者として、純粋に"私"ということが、できないくらいに、世界との関係に強いられているからである。

 

つまり<私自身>でしかないような、純粋自我などのような存在者というものは最早存在し得ない。

 

私は一人称単数であっても、<前-存在者性>は変容し続ける三人称複数によって存在している。”に対して”存在している、ということはもはやここでは意味を逸失しているだろうか。

 

<前-存在者性>を存在者は捉えることが出来ない。それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。

 

<私自身(前-存在者性)>は便宜上、1人称単数の形をとっているが、この箱の蓋を開ければ、<三人称複数> なのである。それは非人称的な〈類〉である。恐らく、存在者が神のような絶対者を必要とするのは存在者が根源的に<類>だからである。

ジュリアン・ジェインズのいうように、神からの声は、この前-存在者性から発せられていたものに過ぎない。

 

神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。全時空間的に存在しており、全てが成し遂げ終えているようなところのものである。故に神が存在するということは人間には認識し得ない。それどころか、神は存在者ではない。神はすべてを完了してしまっているが故に、全時空間的にあるが故に、何がしかの存在者ではない。神は驚異の念を抱くことができない。

 

人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。

 

関係<必然>としなかったのは存在者から見て、何事もその瞬間まで<偶然>に過ぎないからである。偶然と必然の遊戯は存在者の位相を取るか、世界の位相を取るかということであるだろう。世界は超越論的には必然であるが、その時が未だや来ていないという点で存在者の認識はすべて偶然的に映るに過ぎない。過去現在未来の時制は、存在者が世界を知覚する地点にしか存在しない。過去→現在→未来のようには時間は過ぎ去っていない。存在者の優位性はすべてを現下に引きずり出す性格によって、存在者は存在している。超越的に見て、世界は何らの時制をもってはない。存在者の過去・現在・未来は次のような様態で存在している。

過去が未来から現在に招来する形で現在に存在している。過去の過去性は厳密に完了していることであるが、世界は、なんら完了していないように見える形で存在者に送付されているが、すべてが完了している。ゆえに完了しているのは過去だけではなく、現在、未来、も既に完了している。これは存在者の意志ですら逃れることがない。存在者にはそうは映らないという点でのみ(未だ訪れていないという点でのみ)存在者の優位性は保証されている。

このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。

または半開的存在者。

またの名を<私>という。

 

しかし、<前-存在者性>と<私>の区別は一体何によって成り立っているのだろうか。これは意識が区別させるものなのだろうか。この区別に何らかの意味があるのだろうか。この区別は<私>を<前-存在者性>に対するようにして存在者が存在していることの謂われであろうか。仮にこの遮蔽幕を取り払い、<前-存在者性>を<私>と同一のものと見なすならば、我々は何かを得るのだろうか。それは、私を含めて、<世界>が<状態>としてあり何の差異も存在しないということと同じであろうか。<私>が現在も尚、この<前-存在者性>より生み出されたものだとして、<私>が、<私>と言うことの権利は残っているのだろうか。反応ではなく抵抗であるという点でのみ、私は私なのだろうか。前-存在者性と私の間に存するものが私なのだろうか。それは現存在と何が違うのだろうか。そこではもはや大した区別ではないのではないだろうか。人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。しかし、確かに存在の声、呼び求められるものとして、なお依然として、存在者としてあるというこの事態。

映画 「エヴォリューション」

 

これから書くことは、まだこの映画を見ていない人、今後見る予定がある人、または、見る予定がないとも言い切れない人は見る必要がない。更に実際にこれがネタバレなのかどうなのかは私の知ったことではない。

 

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

この映画は海の中の視点から開始することで、

観客をイノセントへと引きずり戻すことから始める。

 

ヒトデは種類によって食事の方法が異なる。

一つは口を使って多くの種がそうするように、捕食するもの。

もう一つは口から反転させた胃袋を出して、捕食物を多いかぶせるようにして捕食するもの。

 

あの赤いヒトデはどちらの種に属すのかは知らないが、

この映画はまさに後述のヒトデのような映画である。

反転したイノセント。

反転したイノセントというのはグロテスクである。

イノセントということとグロテスクであるということは同じところに根を持つものであるように思う。

主人公が見た海の中の死体が彼をイノセントへと、グロテスクへと引き戻す。

 

人間の暴力性の発露は自分より非力な生き物を殺す快楽によく見られる。

この暴力性は大人や友人よりも自分が非力である存在であることを隠すために現れる。

守られていると感ずるときむしろ人はそれなりにそれに対して反逆したくなるものなのだ。

 

人は何故ヒトデから受けるグロテスクな死の見た目が反射し、自分も同じように肉が抉れることを想像をできるようになるのか。グロテスクは、自分の肉体もグロテスクであるということを知るのは虫や動物を殺してみることでわかる。そして自分の肉体がグロテスクであると知るのはいつどのようにして知るのか。

これは自分が怪我を受けるときその外傷を見てグロテスクであることを知る。

つまりグロテスクが現れるのは自分の肉体がグロテスクであるという前提を得てグロテスクは作動する。

 恐らく、自分の外傷を観るのでなければ、つまり内部にある血肉を見るのでなければ、人はいくらでも暴力性やグロテスクを平気で眺めることが出来る。つまりグロテスクはそこでは作動しないのではないか。そこではイノセントとして現れる。

 

ここでヒトデの話に戻れば、ヒトデというのは血液を持たない。ヒトデは栄養を運ぶのに外部世界である海水を利用している。更に、ヒトデは身体が切断されると一匹のヒトデが分離し二匹のヒトデとなる種が存在する。この分裂したヒトデは元のヒトデから分裂したヒトデであり、生殖を介さずにこの世に現れ生きている。

 

したがって、主人公の腹の中に眠っていた子、そしてまさに主人公本人も含め、

あの島の子供はヒトデの再生能力、分裂から生まれた親を持たない子である。

つまり何かの分裂体でありコピーである。

 

失われた父性。

それなしで済まされるなら、そうしたい全て。

恐らく複製とグロテスクとは似ている。

アンディ・ウォーホルが行った複製によるグロテスク、表と裏の反転はそういった類のものである。 

根源があるという幻想と根源がないという幻想は、世界は連続的であるか非連続的であるかというものと同じである。

 

エヴォリューションの語源はラテン語の"evolve"「外に開く」であり、この「開く」はこの映画に多く現れる。開かれる腹、開かれる主人公の眼、眼前に開かれる文明世界。

 

開くというのは無論閉じられていなければ開かれない。

開かれていなければ閉じることができない。

あの島は閉じられているように映り、あの文明世界が開かれているように見えるのであれば、我々の眼はすでに閉じられているに等しい。

 

我々観客は主人公と同じように海の上のボートから眺めるのように、

閉じられた映画館の中で彼岸であるこの映画を観ることしかできない。

しかしもう間もなくこのボートは彼岸であるこの島に到達してしまうのではないだろうか。視点が違うだけで主人公と同じボートに乗っていることに変わりはない。

 

ヒトデと同じようにこの血液も世界を通して私の血として今も流れている。

どれだけの人の血が混じっているのだろうか。

このうようにどちらの世界がグロテスクでどちらの世界がイノセントかという問いは意味をなさない。あらゆる過剰の中で根源を失い、内部は外部となってすべてが晒されたとき、まさにこのことによって形成された内部は、恐らくもう何も愛すことなどできない。まるで反転性裂体のようだ。