Le 9 septembre 2017

 

アーレント研究会 第16回大会

シンポジウム 哲学と政治

   -フランス・イタリア思想におけるアーレント

Le 9  septembre 2017

慶應義塾大学 三田キャンパス 西校舎519教室

  

 

ハンナ・アーレントについて殆ど知識がない。

学者でも元学徒でも何でもない一般人の雑感故、「間違っている死ね。」と言われればこの記事を消去します。

 

3者と聴講者から発せられたものについて、あるいは空間による、雑記。

 

s氏が引っ掛かったといっていたリクールの留保。活動の「多数性」の免れなさ。

 

 

ある人々が活動し、別の人々がそれを被る(que les uns font l'action et que les autres la subissent)ということを含意している 。人間とは、行為者であると同時に犠牲者でもあるのだ(Les hommes sont à la fois des agents et des victimes)

 

k氏がナンシーを引用するように

 

アーレントが「人間の複数性[pluralité humaine]」についての考察によって行った、特異な寄与を思い起こさなければならない」……

 

※考えるという行為の複数性...

「人間の多数性(human plurality)は活動(action)と言論(speech/parole)がともに成り立つ基本的条件であるが、平等(equality)と差異(distinction)という二重の性格をもっている[……]人間の多数性とは、唯一存在の逆説的な多数性である」

 

権力(power/pouvoir)ではないものとして、非-暴力(non violence)としての、善としての活動(action)を称揚することにすべてを乗せることは、善そのものが問われない以上は、難しい。善はつまり真理としての絶対性を認めていることにはならないだろうか。期しくも、アーレントが嫌った意味での哲学的な真理の絶対性と何か異なるだろうか。活動(action)は解体され続ける。日常の対話以外のそもそもの人間が複数いるということ、誰かに差し向けつつ、差し向けられているという”人間の複数性”(アーレント)状況、もっと言ってしまえば一人の人間が現実に存在しているということだけですでに暴力である。さらに加えて暴力存在も同様に暴力に要請されている。という二重の構造になっているといってよいと思われる。それは存在者の構造上、つまり存在の根源としてそういった構造を持っていると言わざるを得ないように思われる。

つまり、ナンシーのいうような「またひとはけっして共同でしか「一つの声」(一つのエクリチュール」)たりえない。

 

特異性のなかで、共同体の文学的体験 -つまり与えられ、賭けられ、誓われ、捧げられ、分有され、放棄された、エクリチュールの、声の、ことばの、「共産主義的」体験- が生起する。ことばというものは、その特異性に応じて共同体的なのであり、共同体というおのれの真理に応じて特異なのである。    

            無為の共同体 / ジャン=リュック・ナンシー  以文社  p134

 

 

従って、それぞれの存在者の最大の"コナトゥス"を"共現前"させることでようやく世界に耳が付けられるだろう。仮にそこから、どんな手や足が付けられるかは、そしてそれらがどのように駆動するのか、何を話し何を聞くのかはやはり同様にわからないと言わざるを得ないが、それでもなお、またk氏と同様に、kk氏のいうような各存在者のなかでの自己欺瞞、自己自身への嘘を辞めること。哲学者としての内在性、two in oneとしての”1”を各人が徹底する以外にないのではないか。

そこにようやく<意見-真理>の"-(空間)"、2(dual)としての1が、世界として現れるのではないだろうか。という以外には。それは決して、全体主義-内在主義に回収されないような場としての。ともかくとして、この3名の登壇者は各々の"外の中"で一致していると思われる。というのは、存在者の暴力性つまり、複数性(一者における”根源的”な”人間の複数性”)を経て、ではどうするかという点である。ナンシーのいう(複数単数存在)として、それからどのような救済の技法がありうるか、或いは3(Trinity)として思考することの可能性。生成される場そのものとして。

 

k氏のいうように「問題は存在(être)の前置詞」である。

 

ともかく、”存在者の根源性(形而上学)”と”政治における決断"の間で振動しているように思われる。それは死に臨む一者の存在と変わりがない。変わりがないとすれば待機・留保でさえも決断であるような決断が下されざるを得ない。複数性を分有する決断。ここを掻い潜るための、実際の、実践の、となるとたちまち、存在者の根源性へと回収されざるを得ないような複雑な構造をなしているが故に、この問題はいつまでも一層困難であるように思われる。

 

そうするとサルトルが出てきてもよいのではないかと思ったが、サルトルは出てこなかった。アーレントサルトルを嫌っていたらしい。しかしなお、この問題はサルトルを引き出す必要があるように思われる。あるいはハイデガーのいうsorgenとしての。

 

内的体験

バタイユの内的体験について、もう少し沈黙されなければならないような気がされたため、エントリーは取り下げられた。いかんせんここに書かれた不十分なある問いが発せられた地点は、読まれたのがそこに差し掛かったところであったためである、ということが赦されるかは別として。兎に角、今漠然と去来されたのは、恐るべきエネルギーでこれが書かれたであろうということである。これが読まれたとき、人称を破壊するために書かれた書物のように思われた。

ここでこの文章からなんらかの違和感を感じとられたならば、それはこの書物を読まれた結果だと思っていただければそれは概ね正しく、また、常々の思考が考えられたことと符合された結果でもある。繰り返されるならば、これが読まれたとき、存在を破壊するために書かれた書物のように思われたということである。

 

 

敢えてここでデリダを参照されたが、デリダは殆どそれに達している。

微妙なニュアンスの中でなお、それは”すでに”到達されているといってよい。

「天国は地下 真冬の夜の底」

 

踊ってばかりの国 / 2017_8_31

 

何年前か、代官山UNITで観た踊ってばかりの国

初めて観たときの彼は金色に染められた長い髪を揺らしながら、殆ど啓示にも似た唄でまるでキリストのようだった。衝撃的だった。今日、この場所で、あの時と同じように、違うように、林さんは居なくなって編成は変わっても、彼はより生に近く、全てに寄り添うように力強く存在の全てを賭けて、「生きるぞ!」と言わんばかりに、光を唄っていた。それは去年のキネマ倶楽部で観たときも同じことを感じた。何より数年前のあの時よりも彼は生きている。多分数えきれない哀しみがあったように見える、その前からただでさえそうだっただろうと彼を見ていて思う。それでも彼が楽しそうに唄っているのを見ていると全ての怒りや哀しみは癒えて気が付くと僕も殆ど泣きそうになりながら笑顔になっていた。思えば彼らのライブはいつもそうだ。哀しみの底から救い出したような言葉やメロディを描ける人が、普通あんなに楽しそうに嬉しそうに唄えるはずがない。それでも殆ど存在の燐光の中で、彼は本当に音楽を信じているのだと思う。何より彼自身が多分観客の誰よりも一番にステージの上で音楽を楽しんでいる。どんな景色も楽しんでやろうと。「夏に勝ったぞ!」とか「ここにいる俺たちの勝利だ!」とか叫んだり。彼はずっと良い意味でのイノセントであり続けていた。普通の人が諦めて道に捨てて行くものを彼は絶対に離さなかった。最後に「それで幸せ」「言葉も出ない」を唄える尊さ。「evergreen」「唄の命」「Boy」「バケツの中でも」を聴けて嬉しかった。

 

 

みんなが求めた自由の唄に形がないのなら

ときめく心は大切に 心を大切に

メランコリックワールドにおいでよ evergreen night

天国は地下 真冬の夜の底

 

 

涙と笑顔のその間で人知れず揺れて笑うあなたと

 

 

それを見てつい数日前ほとんど絶望にあった僕はまだ生きたいと思ったし、強くならなければならないと思い出した。

 

ロシア語と白黒の写真でデザインされたブックカバーとナボコフの「青白い炎」に今日のチケットを折って栞みたいに挟んで、誕生日プレゼント、なんて馬鹿みたいに洒落た友人に感謝している。キネマ倶楽部絶対行くぞ。

 

 

映画16

 

なんか映画観たいが何観ていいかわからないのでこのリストをゴトリと置いておくことによって、取り敢えず人間を以下四つに分断したいと思う。

・「俺もわからん」人

・「あれがねぇぞ糞野郎」人

・「何それ観てみる」人

・「興味ない」人

 

 

好きな映画16

 

気狂いピエロ

・他人の顔

アンダーグラウンドエミール・クストリッツァ

・あやつり糸の世界

奇跡の海

ホーリーマウンテン

・さらば、愛の言葉よ

・掟によって

・アルファビル

・アタック・オブ・ザ・キラー・トマト

アンチクライスト

砂の女

レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ

・ベルリン天使の詩

・ガス燈

・イーダ

 

 

京都0815_16_17_2017

 

【京都】

 

※はじめに

3日分まとめて書こうと思っていたが長くなり体力が尽きたので、

途中ながらアップロードすることに。初日分。

残りの二日分はこの頁に加筆・修正していきます。

こんなことをしていたら連休が終わってしまう。。。。つらい。。。。

 

【現状】_2日目途中_最終更新_22:19

0820_21:45【】現在書いておりますが、連休が潰える明日からのすべてが嫌すぎて京都に帰りたい故かただただ記憶が遠くなる故か感想が雑になっていく。

 

 

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2017年 8月15日

人生初の京都。 

新幹線で京都へ向かう。

駅に降りて、京都を見つけるのにかなり時間がかかった。

新幹線を降りて駅の構内を出たのは八条口だった。八条口に降りて、あれ京都ってこんな感じだっけというくらいにはまぁまぁ閑散としていて、ちょっと不安になった。(失礼)

 

最初は東寺だった。受付で通行料を払って、大きな樹が目の前に現れた。

不二の桜。無論時期ではないため、深緑の葉ではあったが、庭に突然と一本、人工に支えられながらも枝が垂れている姿というのはなんとも異様で不気味なものだった。

 

 

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少し歩いて、右手に寺が二つあるのを飛ばして庭園の中を奥へ進む。

 

水面に浮かぶ苔?と裂開する水面と鯉。

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東寺の五重塔があった。

茶黒く厳かな重さを備えている。

なんとも奥行のあるものだった。

産まれてから殆ど全てを東京で生活しているために意識にのぼることがなかったが、東京の建物のほとんどは二次元化された平面に張り付かざるを得ない。恐らく都市がそのように見える理由がある。都市のファサードは背景が存在しないというより、すべてが背景化している。つまり建物と建物の間の間隙が殆ど存在しない故に家やビルですら対象ではなく限りなくすべてが背景と化している。無限の情報量は、全てを背景化する。この五重塔だけでなく、京都のいわゆる有名な観光名所といわれる寺や庭のファサードは、巨大なミニマリズムといってもよいと思う。巨大なミニマリスムという言葉を使ってみたが、これは矛盾するものではないと思う。究極的にミニマリスムというのは質量や大きさ、角や奥行きなどの多量な情報量をそぎ落とすことなく、表現することができる。視線の中に対象物が一つ、それしかなければそれはミニマリスムとして成り立ち得る。ミニマリスムというのは本来奇妙なものだと思う。自然は対象物一つ、それしかないということが殆どできない。すべてが背景化しているからである。そういった意味で言えば究極的に都市化(多量な情報量)を推し進めると、人工ではなくむしろ全てが背景となり自然となる。すべてが背景に等しい。対象物が一つあるというのは殆ど人工的に作為的にしなければ現れることがない。それは対象を決めてみるとか、敢えて意図的にそういったことをしなければ現れない。都市はすべての建築物をそのように意味として敷き詰めたが故に、むしろすべてが前面に迫り出し対象が消える。ミニマリスムは一種のシュルレアリスムのように、不気味に背景から対象が浮き上がる。

 

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東寺金堂の中に入り、腰を掛けて、暫くの間、七仏薬師像と左右に仕える二体の菩薩を眺めていた。東寺講堂に移り21体の仏像を見る。

 

東寺を出てから、東本願寺の門を潜ったが、砂利道を歩き通り過ぎる。

暫く歩き、京都駅の方へ戻る。

京都駅 鳥丸口に出た。気分的にはステレオタイプ故に八条口ではなく、烏丸口京都タワー側)に出てようやく京都に来たという実感を得た。(失礼part2)

 

 

14時のチェックインの前に少しだけ時間があったので下の喫茶店でコーヒーを飲み、一息入れてホテルに到着。幾つかの情報があるが気にしないことにする。とても落ち着いていて綺麗なホテルだった。禁煙部屋。

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ホテルは京都市下京区四条通である。

四条通は若者の街ではあるが、雰囲気は東京でいう銀座みたいなものだと思ってもらえばよいと思う。

 

金閣寺の場所を調べて、その方面まで歩く。

何故バスに乗らないのかと言われると、タイミングが合わなかった。何処かで乗れるだろうと思ってずっと歩いていた。

 

途中、少し雨が降ってきてコンビニで傘を買う。店員のおばさんに「雨降ってきた?」と聞かれ、「パラパラと降ってきましたね。」と答えた。「天気予報当たったね。」と言われ、気の利いたことも言えず「そうですね。」というのがやっとだった。お金を払い傘を受け取り「ありがとうございます。」と言って外に出ると、少しだけ雨脚が強くなっていた。

 

四条大宮駅まで歩き、京都で初めて電車に乗る。電車と言っても二両編成の路面電車。車両の前と後ろの二点にしかドアがないため椅子は長い。四条大宮から西大路三条までわずか二駅。降りて再び歩く。ここからが長かった。そのあと益々強くなる雨の中、金閣寺まで歩いた。西大路通は長い。金閣寺まで直線に歩く。緩やかな坂になっている。漸く金閣寺付近まで来て金閣寺の入り方がわからず道を間違える。敷地内に入り少し上を見上げると塀の上から金閣寺鳳凰が見えた。通行料を払う。海外の観光客がとても多く、騒がしかったが、それを抜きにしても金閣寺を観て何か巨大なエネルギーのようなものは感じられなかった。それでも写真にはよくうつっていた。

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上手く写せなかったが金閣寺よりも、その裏に突然現れた「安民澤と白蛇の塚」の方に惹かれた。

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金閣寺から四条烏丸まで再び歩いて戻る。

 

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アオサギが居た。

 

その後は四条通りをうろうろし特になにもせず、17時頃ホテルに戻る。

着替えて祇園を歩いたりしましたが、写真は特にありません。

夜の四条通りで寂しさを得る。

21時頃ドトールに入り休憩。その後も特に何もせず、近くで遅い夕食を取る。再びホテルに戻る。受付にて「煙草を吸えるところはありますか」と伺ったところ「ホテルは喫煙可能な部屋以外は禁煙です」ということだったので、近くの煙草屋で喫む。

再びホテルに戻り風呂に入り就寝。

 

 

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8月16日

 

余り寝付けず8時起床。

銀閣寺」「南禅寺水路閣」「哲学の道」を観たい。

取り敢えず、下の喫茶店に入る。

昨日は相当に歩いたので今日はバスに乗るぞと決意する。

 

四条通のバス停から銀閣寺行きのバスを見つけて乗車する。

バスの料金は230円。

京都の有名な観光名所に行くならば、殆ど230円で行ける。

一日乗車券を買えば500円で乗り放題。

 

銀閣寺道で下車。

哲学の道を歩く。

すぐに終わるかと思っていたが、哲学の道は長い。

哲学の道は民家と公道に挟まれながら続く。

ちょっと行けば終わるかと思っていたので、銀閣寺へ延びる道を曲がらずに進んでみたが調べてみると終わりそうにないので、引き返して銀閣寺へ向かった。

哲学の道の途中、西田幾多郎の詩が刻まれた石に出会う。

  

人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を吾は行くなり 

 

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西田幾多郎という人がどの年代の人なのかといえば、「ハイデガー」と「フッサール」「ベルクソン」の間に位置する1870年生まれ。つまりハイデガーは1889年であるからハイデガーよりも前の人である。「善の研究」が1911年。「存在と時間」が1927年。

この道の周辺に西田幾多郎田辺元などの哲学者や文人が住まうようになった。

後に西田を中心として西田哲学に影響を受けた哲学者を(新)京都学派と呼ぶようになり、西田はその創始者ということになるが、新カント学派ほどの意味しかない。

西田の「善の研究」を少し捲ると、「統一」「純粋経験」という概念はカントの「超越論的統覚」によく似ている。或いはベルクソンの「持続」の契機としての「統一」。知覚あるいは自己においてこれ以上分割できないものとして置かれている。西田は主/客の対立を嫌う。ここまで書いておいて念のため断っておくと状況はもっと入り組んでいる。また、西田のいう自由とは希望のある状態でもなく、何か非制約的に純粋に自由というのは在り得ないといっている。むしろ没我の状態。寝食を忘れて没頭している状態。そこに没頭しているとき。何らかの対象に無心にのめり込んでいるときこそ自由であるということを書いている。「善の研究」がよいのは、12章「善の動機」と13章「善の目的」である。西田/ハイデガースピノザに近いと思われるが両者共にスピノザの因果を排除しているが、彼らがそこまでいって何故そうなるのかよくわからない。

 

 

それはそれとして、銀閣寺に向かう。

銀閣寺の庭や裏山を含めて、金閣寺よりも銀閣寺の方がやっぱりよかった。

 

銀閣寺に入る。

この写真に写る向月台はやはり不気味だ。

 

 

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庭師さんがダリの絵のあれみたいになっていて気に入っている。

 

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洗月泉

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何か立札があって言及されているわけではないが、この二本の樹はとても印象に残っている。なんなのだろう。明らかに切られたのではなく折れている。

詳細を知る人がいれば教えてほしい。裏山の道の途中に現れる二本の樹。

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銀閣寺のお土産屋さんで冷たい抹茶を飲んだ。 

とても甘くて美味しい。

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この「抹茶愛す」というのも甘くて美味しかった。氷でキンキンに冷やされていた。無糖と甘いのがあったが、無糖が美味しい。坂道の途中のアイスクリーム屋によく売られているっぽい。2日目と3日目に出会い、とても助かった。何れも「高級な甘さ」という感じ。

 

 

銀閣寺を降りて哲学の道を再び歩く。

永観寺に寄った。お寺の写真はないが頗るよかった。

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永観寺の横に居る、「滝に打たれているように見せかけて打たれてない像」

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哲学の道に再び戻り南禅寺水路閣へ向かう。

 

現れた。南禅寺水路閣

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水路閣というからには橋の上は水路になっている。

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count

 

Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?

 

形而上学入門/マルティン・ハイデッガー  訳 川原 栄峰  

 (平凡社ライブラリー

 

以下の引用(四角で囲われた部分)はすべて上記からである。

 

"Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?"

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」

 

 

無いことに困るのは、ある時を、既に知ってしまっているからである。

そして、それが何れ、帰って来るのではないか、或いは、何れその時がやって来るのではないか、というすべての期待(予持)の中に、今まさにその問に対峙しているからである。

 

 

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」.....たとえば深い絶望の中にあって、ものごとからすべての重みが消えうせようとし、あらゆる意味がぼやけてしまうとき、この問いが立ち現れる。

 

         

 

 

この問いが及ぶ領域は最も広範である。この問いはどんな種類の存在者に達しても停止することがない。この問いはすべての存在者を、すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する。

 

 

 

われわれはわれわれの問うことの経過の現在の段階から、さらにもう一つの別のことを見渡すことができる。われれわれはさきに、「存在」という語は、普通の考えに反して、一つの全く限界づけられた意味を持つということを明らかにした。すなわち、存在そのものは一つの特定な仕方で理解されているということである。そのように理解されたものとして、存在はわれわれにとって開けて明らかである。しかしどんな理解も、開示の根本様式の一つとして、一つの特定な視線の中で動いているはずである。この物、たとえば時計は、われわれがあらかじめ既に時間とか、時間の計算とか、時間測定とかいうようなことを知っているのでないかぎり、われわれに対してはそれがあるところのものという点では閉ざされたままである。有様の視線はあらかじめ既に敷設されていなければならない。われわれはこれを先行-視線、「ペルスペクティーヴェ」と名付ける。

 

 

ここでおそらく重要と思われるのは、「すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する」

という記述である。「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問いは"全時間"、"全空間"、に及ぶということである。"むしろ無があるのではないのか?"というこのことは現-存在にとって無が存在しない(認識し得ない)という不可能性を既に感じ取っている。これは無があるかどうかということを差し置いて既に感じ取っている、ということになる。ハイデガーはこの既に感じ取っているこのことのありかたを”先行-視線(フォア・ブックバーン)(ぺルスペクティブ)”と名付けている。”予持”に近いと思われる。どんな理解もな現-存在は終わった過去も未だやってこない未来もここに引き込む威力を持っている。持ってしまっている。しかし、注意しなければならない。

 

 

もっとも、一見鋭そうな、偉そうな顔をして、昔からよく知られている次のような考えを再び持ち出す人があるかもしれない。そもそも「存在」とは最も普遍的な概念である。この概念の妥当範囲はすべての上に延びており、無にまでも達している、無といえども、考えられたもの、言われたものとしては、やはり何かで「ある」のだから。したがって、この最も普遍的な概念たる「存在」の妥当範囲を越えては、この概念そのものをさらに詳しく規定することのできるようなものは、語の厳密な意味においてもはや何ものも存在しない。この最高の普遍性で我慢するより仕方がない。存在の概念が究極のものなのだ。しかもこのことは、概念の外延が広ければ広いほどますますその内包は不定で空虚であるという論理学の一法則にも適っている ーところで「存在」という概念以上に外延の広い概念がありえようか?-と。

この考え方はおよそ正常にものを考える人になら誰でも -われわれはみな正常な人間でありたいのだがー すぐさま文句なしに正しいと思われる。だがこの場合、存在を最も普遍的な概念と決めてかかることは存在の本質を衝いているのか、それとももともと初めから存在の本質を誤解しているために問うことが見込みなくなっているのか、ということがなお問題である。

 

 

昨日のファサードと関連して。 

 

 

 存在はどうなっているのか?存在を見ることができるだろうか?われわれは存在者を、この白墨を見る。しかし、われわれは色や光や闇を見るように存在を見るだろうか?あるいは、われわれは存在を聞き、嗅ぎ、味わい、触れるだろうか?われわれはオートバイを聞く、それが大きな音をたてて通りを疾走するのを聞く。われわれは大雷鳥を、それがそびえる森をすべるように飛び越えていくのを聞く。しかしほんとうは、われわれはただモーターのバタバタという物音や、大雷鳥がたてる物音を聞くだけである。純粋な物音を記述するなどということは大変むずかしく、われわれには不慣れである。というのは、それはわれわれが普通聞いているものではないからである。われわれは〔単なる物音に比べるならば〕いつでもそれより以上を聞いている。

 

 

 

ファン・ゴッホの描いたあの絵、無骨な百姓靴一足のほかには何もない。この絵は本来何ものも呈示していない。にもかかわらず、これを見るや直ちに、われわれ自身が晩秋のたそがれ、じゃがいもの茎を燃やし終えて鍬を肩に野から疲れた足で家路をたどっているかのようにわれわれはこの絵にあるものとひとりで対面する。何がそこで存在的であるのか?画布か?筆触か?色彩か?

いまわれわれが列挙したもののすべての中で、一体、存在者の存在とは何なのか?こんなことさえわからないとは、一体、われわれはなんという愚かなうぬぼれと賢さとをもって、この世界の中であちこち走ったり立ち止まったりしているというのか?

 

 

過去にあった、未来に必ずそうなる、というようなことはどんなことがあっても現存在に十全に正しく通達されることは在り得ない。同じように眼の前にあるものを見やるとき、存在者を見るとき同じように、十全に正しく通達されることは在り得ない。この十全に正しく通達されないことが存在者に残された唯一の可能性である。

現存在は現在という時間に貼り付けられている。全く目が離せないでいる。過去や未来を想像しているときですら、それは現在というその瞬間においてそうしている。ただし、規定されていることを知らずにそうしている。存在者はは"存在"によってすべてが支えられている。この存在は現存在の根拠である。何かがあることの根拠としての。無が"ある"の前で(根拠)、"無"は"ある"。存在とは殆ど無である。ニーチェが言った存在とは幻であるというのはそういったことである。意志の手前の意志や、環世界というものが、ニーチェフッサールハイデガーが言っている"存在"という言葉ではないかと私は考える。

 

"既にあるもの"のみならず、"かつて存在したもの"および"将来存在するはずのもの"、という記述はすべての時間を包摂しているように見えるが、これは現存在にとってそうではない。"かつて存在したもの"は確かに過去である。また、"将来存在するはずのもの"は未来である。しかし、"存在したもの"が存在したものであるために一個の現存在を必要とする。つまり、現在を必要とする。同じように将来存在するはずのものというものも、未だやってきていないという点で、過去の存在したもの同様に憶測に過ぎない。だが尚、存在したもの、存在するはずのもの、が現存在に、つまり観測者に関係なく”ある”のだとすれば(これも私という観測者の憶測の域をでない)のだが、世界は既に全体性として、すべてが完了している(これも私という観測者の憶測の域をでない)。それはちょうど、今私がこのキーボードを打っている、打鍵している意志の手前の意志によって、または環世界によって既に終わっていなければ可能ではないことなのである。更に例を挙げるならば、物を動かすエネルギーによってどれだけの距離を移動するかということが、環世界と共に規定されている。実際に物がその距離を移動し終える前に、エネルギーを加えた瞬間に決まっている。そのようにして人間の意志を含むすべての物理法則によって動く前からすでに動いている、ちょうどピンボールのように弾き出されている。そうやってはじまりのはじまりのはじまりの...というように無限に退行してゆく。広く言われている決定論が責任の概念を回避し得るという理論はこれである。ラプラスの魔物もここに属している。これに乗っ取るのならば始まりは既に終わっている。それでもなお、現存在の自由というものがあるとすれば、未だその瞬間がまだ実際に結果していない、という現在地点においてのみ、終わっていないという地点においてのみ、担保されているのである。故に現在という時間は、現存在にとってのみ全く何者にも規定されていないのである。いや規定されているが、現存在はそれを知り得ないということに規定されている。

 

では、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」

 に対する、私のこの記述に対する同意は、同じように現存在の観測者の憶測の域をでない。

 

世界は等の昔に終わっているが故に、何も始まっていない。

何かが始まっているのは勝手に存在者が誤解の上で始まっているに過ぎない。

現存在は何処までも非-知によって守られているに過ぎない。人はそれを可能性と呼んでいるに過ぎない。

 

 

何故私は「に過ぎない」というのだろうか。 

何故、ハイデガーが、「存在」と「思考」という形で対立させたのかそれがわかるだろうか。

 

Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?ということしかできない現存在の全体性において。この全体性は現-存在として発することしかできないという地点において。つまり、(世界-内-存在)の全体性において。

 

 

神話・共同体・虚構

 

 

ジョルジュ・バタイユ生誕120年記念国際シンポジウム

 

神話・共同体・虚構 

 ジョルジュ・バタイユからジャン=リュック・ナンシー

 

慶應義塾大学 三田キャンパス 南校舎ホール

 

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残念ながらジャン=リュック・ナンシーをこの眼で見ることは叶いませんでした。

ですが、この来日のために、書かかれたテクストをナンシーの妻である、エリーヌ・ナンシーが、読み上げました。日本語で書かれたテクストをスクリーンに投影し、それはまさに詩のような文章で書かれており、また、エリーヌ・ナンシーによって、彼のテクストが朗読され、我々の眼前にありありと、ジャン=リュック・ナンシーを蘇生させました。ナンシーの不在を埋めるような、愛のような祈りでした。

 

パロールは発話者が居なければ聞くことがない。また、聴くものがいなければ、話すこともない。そういった意味でエクリチュールよりも、パロールのほうが、限定性が高いと言える。エクリチュールは、特定のある人に宛てるでもなく、宛先なく、宛先の受領なしに、在ることができる。(parole adressée à-.)でもおそらく、一人ではないという複数性をもって書いている。今私は誰かに向かって書いている、いくつかの想定し得る人を思って書いている。さらに無名の名指し得る、未だ出会ったことのない誰かに向かって、いつでも僕は有る何か、に向かって書いている。決して、無に書くことはできない。無の有としてしか存在しない。おそらく独白は、純粋に独白として存在することができない。

 

教授が言っていたように、同じテクストをジャン・リュック=ナンシー本人がここで読み上げることと、エリーヌ・ナンシーが読み上げることの何が違うのか。また、そういった意味で、ナンシー本人がいないにも関わらず、ナンシーの言葉が語られているというこの事態は一体なんなのかというこの問いは、奇しくもこの公演のタイトルである、『神話・共同体・虚構』と符合してしまった。

 

この三つはどれも人称性を欠いているのです。"宛先のない"ものであり、”発話者が存在していない"地点でもあるわけです。

つまり、これらは誰が書いてもよかったものでもあるわけです。さらに、誰が読んでもよかったものでもある、そういう風にあったわけです。

神話とは師から弟子へという伝承とは違う方法で、語り継がれている。

神話とは、ある特定の誰かに宛てられたものでは最早ない。神話自体、誰が書いてもよかったわけです。そういった神話の複数性が問題にあるわけです。ですから、神話は誤配の誤配でもあるのです。にもかかわらず、神話それ自体は、無傷のまま存在している。神話が語り継がれるのに失敗するという事態はもうとっくに終わっている。神話が記録された時点で、神話の誤配はオリジンの神話の派生としてしか存在することができない。それは別の神話にすぎないわけです。故に神話は永久に無傷のまま留まる。

 

ジョルジュ・バタイユ氏だろうか、否、ニーチェ氏に関してバタイユ自身がそう言っているように、バタイユ氏はそっとしておこう。

こと心臓に関わる限り「なになに氏」はそこにそっとしておかなければならない。

 

作品とは、ドゥルーズが書くことについて語った言葉を借りれば、「人は知っていることと知らないことの先端でしか書かない。」ということになるだろうか。最早可能性として、"祈り"として書く。これは書くことに留まることではないのです。人間の生そのものが、知っていることと知らないことの狭間で問いに付されている。もっといえば、というより寧ろ、知識ではなく、体験していない。未だやってこないということの方が本質的な事態であるように思われます。

 

このシンポジウムは、ある種の神話としてあったのだろうか。

宛先なしに、存在していたのだろうか。私は大学生であったことが一度もない。

にもかかわらず、この場は、無名の私、一般人である私に対しても開かれていた。

そうした意味でも確かにこの知は閉ざされておらず、開かれていた。当たり前のことだが、僕が居なくてもこのシンポジウムは開催されている。登壇者である教授が一人欠けようとも、開催される。何しろ、今回の主役である、ジャン=リュック・ナンシーが不在であるという事態でさえ、このシンポジウムは止まることがない。誰が居てもよかったにも関わらず。ある名指し得ぬある何かに向かって。語りつくし得ぬ不可能性の可能性へ向かって。 

 

複数性。何も神話だけではないように思える。それはナンシー自身が1991年に心臓移植を受けたこの物理的な問題を待つまでもなく、「他人の心臓が私の心臓の内で...」という様相の許にある存在。

今もなおその他者の心臓で自己が作動している主体。心臓が入れ替わってなお、駆動する私という存在者。その中で主体とは何かを問われ問い続けている。一個の存在者に関してすら。僕の中に無限の存在者が流れている。他の存在者もそうなのであるならば、存在者があるということは一体、どういった相貌なのか。世界があるとは何なのか。一体、誰が語っており、誰が話しているのだろうか。世界と存在を隔てるものは果たしてなんなのか。外皮は剥がれ、むき出しの肉も剥がれ、灰となった骨、自己を差し出した先にある、複数性の呼び声、複数性の応答。誰もが産まれ終わっており、死も生の外にある、始点と終点を逸している存在者。存在。

 

あの空間にナンシーは不在の有として存在していたように思います。

確かに他者を通して、ナンシー自身が語り、他者を通して、ナンシー自身を聴いていた。それはむしろ、はっきりとした形で現れた。ナンシーの強大なエネルゲイアとして。

 

このシンポジウムのナンシーの最後のスライドは確かに普通の意味で時間軸として終わりの言葉です。しかし尚、終わり得ぬと言わんばかりに、言葉の意味はむしろスライドの最後であるという通常の時間軸に逆らうように、開かれた神話のように。

また、Adorashion(祈り)のように。

 

技術者たちは世界を変容させただけだ。

いまや不可能なものを世界に輝かせなければならないのである。

                                                                 ジャン=リュック・ナンシー