年の瀬

 


色々あり過ぎてあまり思い出せない。

笑ってしまうくらい、人生とは人生だ。
3日までに何か書ければと思っています。

Nous n’avons d’autre possibilité que l’impossible.

ただ、一つだけ言えることがあるとすれば、
ヨイオトシヲ。
皆、幸多き一年であることを祈っている。

 

 

f:id:torus-torus:20171231185250j:image

エンドレス・ポエトリー / アレハンドロ・ホドロフスキー

 

<ネタバレなのかよくわからないけれどそういうのを避けたいならば読むべきではない>

 

 

「人生なんてお荷物だ」

88歳になっても序盤から暴力と暴力みたいな映像。はりぼての現象と自我の狭間で揺れる、若きホドロフスキー

ビールを普通のジョッキで一杯頼む若きホドロフスキーを横に置いて、「2リットル」といって2リットルのジョッキでビールを豪快に飲み干し「あんたたちはただの無よ」と言い放つ悪魔みたいな孤独の詩人ステラに惹かれながら、アマチュア芸術家集団と詩人エンリケと共に仮面の他者と自我でさえも反射でしかない限界線を破壊する。「詩とは行為である」。従兄弟の家の庭で木を斬り倒そうとすることは、直接的な言葉の使用ではなく、比喩のようであり、それはある種の詩人としての萌芽だったりする。ホドロフスキーの映画の中で一番笑った気がする。何があっても直進する詩人、アマチュア芸術家集団の、超絶ピアニストだといって紹介されたあのピアノをハンマーでぶっ叩いたあとに蹴っ飛ばして破壊して尚、倒れたピアノを打鍵し続けるシーンは笑った。波止場。自分も親父に許すと言いいたい。もし何かの負い目を感じているならば。7歳の時に僕の前からいなくなった、もう生きてるのか死んでるのかもわからない親父に僕もそう言いたい。そもそも僕の中では最後までかっこいい親父だったのだから許すも何もないのだが。「その存在は、完全な光」殆ど形而上学を見ているようだった。はじめてホーリー・マウンテンを見たときの衝撃は今でも覚えている。大好きなゴダールと共に、じいちゃんになっても僕の限界線を破壊する孤独で愉快なじいちゃん。ホドロフスキーに行かないでと止める友人たちのように、開いている柵にしがみつくのはもうごめんだ。

Sortie de l’existence

神は予め世界から退去していなければならない。

 

ブランショの『終わりなき対話Ⅱ』において、語られるシモーヌ・ヴェイユは『重力と恩寵』からの引用は殆どなく、『カイエ4』、『神を待ち望む』が大半を占めている。ブランショヴェイユを語るのは、この『終わりなき対話II』の『4.断片(欲望・不幸)』にあるように、キリスト教的解釈、または宗教的解釈から、神秘的なものから、引きはがすことを目的としている。つまり、宗教でもなく思想でもない、世界そのもの、存在そのもの様相が語られていると考えてよい。それはこの二人(ブランショヴェイユ)がどんなに神の名、または宗教的用語を使って語ろうともそれはそうなのである。

 

「この瞬間から神はもう何もする必要がない。私たちも同じだ。ただ待つこと以外に。」というヴェイユのこの言葉について、ブランショは「ここですら、シモーヌ・ヴェイユが可能なかぎり神の特別な介入をなくすようにしていることが見て取れる。神への不可能な接近を可能にするために、神の影響をなしで済ませようとしていた。それは人間の力に過度の信頼を寄せていたからではない。正反対である。」といっている。ブランショは続けて「機械的必然性が支配し絶対的に神を欠いている世界が、この空虚自体の純粋さによって神の本質にもっとも近いものであるのと同じように、私たちのなかで自然であるものは、私たちがその重みに耐えることに同意するかぎり、超自然に反転する準備がいつでもできている。」ここでブランショが用いている”機械的必然性”という言葉は、ヴェイユに沿って、"神の介入なしで”世界の様相、存在者の様相つまり存在それ自身を語ること、因果性について語っている。ここで私は『重力と恩寵』における、冒頭を引用したいと思う。

 

たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外されている。

 【重力と恩寵 / シモーヌ・ヴェイユ

 

”恩寵だけが、そこから除外される”と言っているときのヴェイユは多分存在者の側から話している。その上の「たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている」は世界そのものの既決定性から話されている。この重力の既決定性の上でなお、恩寵があり得るのは、というのも変な言い方ではあるが、未だ到来していないという、予持の現在の未達・誤配、予持がいつまでも作動し続けるためである。また、ブランショが『13.時代の変化について』の中で、ニーチェを引用し、「私は未来についての”不確実性”を愛する。」「私は未来についての無知を愛する。」「最高度の欠如の力へと差し出された来たるべきもの《l’à-venir》があるのだから。」の現在における非到来性に見ることもできる。次の現在への予感が存在者に既にある。それは、「無知へのこうした欲望にとって、無知は自らを欲望とする。この欲望は忘却が迎え入れる期待であり、期待がそのなかに入り込むところの忘却である。永遠の円環[annulus æternitatis]「<すべて>が回帰する」ことへの欲望は、それだけで、始まりも終わりもなしに、欲望を回帰させる。」

『6.ニヒリズムについての考察』の中で、”不確実性”を正しく解釈しなければならない。「偶然に左右される予測不可能なもの[alétoire](ただし、偶発的なもの[fortuit]ではないもの)」の[alétoire]として読むべきである。重力の上でなお存在者は未だ恩寵の到来[alétoire]がある。この世界にあるものは [alétoire]であり、[fortuit]ではない。ヴェイユの「重力 ― 一般的に言って、わたしたちが他人に期待するものは、わたしたちの中に動く重力の借用によって決められる。また、わたしたちが他人から受けるのは、他人の中に働く重力の作用によって決められる。ときにはこれが(偶然に)一致することがあるが、多くの場合一致しない。」における”偶然”は、[alétoire]の意味においてある。9.限界-経験において、ブランショバタイユを参照し、終わっていることの”可能性”が論じられるのは[alétoire]のうちでの出来事である。粒子への解体とでもいうべきバタイユの存在者の棄却。バタイユが限界に向かって思考するとき、ヴェイユと出会うのはこの点である。このときヴェイユのなかで何によって駆動しているのか。”多くの場合一致しない”によってである。バタイユが非-知によって駆動するのと同じくヴェイユも同様に、この欠如によって駆動する。何故この欠如があるのか。

 

 

神は神としてのその全能を放棄したし、自らを空にした。私たち人間のささやかな力を放棄することによって、私たちは空虚のなかで神と等しくなる。

 

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

神は一個の存在者であることを放棄したのである。ここでヴェイユの神の概念について、ヴェイユを引用しつつ、イツハク・ルリア(イサク・ルリア)の神の世界からの退去を語っているとブランショは言う。「事実、十六世紀の聖人かつ深遠な思想家であるイツハク・ルリア(その影響は大であったと誰もが知っている)こそが、昔のカバラの考え(「ツィムツーム」)を解釈しながら、創造に神の捨て去る行為を認めたのである。…神は創造しながら何かよけいなものを置くのではなく、まずは何かを不足させるのだ。無限の<存在>は必然的に全体である。世界が存在するためには、無限の<存在>は全体であることをやめて、世界に場所をあけなければならない。それは後退や退却の動きを通してであり、「いわば自身の内側のひとつの領域、一種の神秘的な空間を捨て去ることによってである。」言いかえれば、創造の本質的問題は、無の問題なのだ。…..それは犠牲、収縮、制限によるものであり、自分である全体から退去すること、消失するとは言わないまでも自分を消し去り、不在のものとすることについての、神秘的な同意によるものなのだ。(まるで世界の創造や世界の存在が神から神を立ち退かせ、神を神の欠如にし、それゆえ派生したものとして一種の存在論的な無神論が生じるかのようである。この無神論は世界それ自体とともにしか廃棄されることはできないであろう。世界があるところでは、痛ましくも神の欠如があるのだ。)」

 

仮に”この世界”に神があるとすれば、それは存在の全体性<必然>にしかないだろうと思われる。これはアリストテレスのいう”不動の動者”に近い。歴史の中で”不動の動者”は”存在”という語に置き換えられた。神の外としての”外立”、”実存”(エクゼステンティア)を成すものとしての”存在”として。よってそれはただ”ある”のである。この地点で存在それ自身は最早肯定するとか否定するとかいう次元にあるのではない。ブランショが13.時代の変化について-回帰の要請-で語ったことは、このような存在者の状況になおも「唯一のひび割れである。”けっして”」に既に投じられ続けているという状況にある。この切断。無が射し込むこと、時間の切断、としての幻影が現れる。そして存在者はこの幻影から出ることがない。例えば、それが幻影だと知ったところで、その幻影を排除することができないように。病気の原因がわかっても病気が完治することとは遠く隔たっているように。神は不動の動者として世界として臨在しているのであって、神自らの退去によってもたらされた空間を埋める。神はなんらかの存在者であること、一個の人格を断念したが故に神なのである。その神の欠如は人間における神の不可視性によって保たれる、あるいは神と人間の断絶において、存在者の未だ到来しないものとしての来るべきものとして、神が現象するのである。ここで私はマリオンが存在に先行するものとしての「呼び求め」を提出したときと殆ど同じものを見ているだろうか。声を聴くもの、「不意を突かれる者」として。私はすでに呼び求めによって私を”「“私を”の地位に任命されている者」としての存在者である。存在を可能にするものとしての「呼び求め」を聞く者。存在者とは存在の出口(Sortie de l’existence)に召喚されたものに他ならない。つまり、出口の途中に介入できないもの。声の中に戻ることを禁止されているものとして人間とは非力なのである。そしてこの存在と存在者の隔たりの中に意味が介入するのである。なぜか。存在とは”無“ではない。存在の上に”無”というベールが被さっているがゆえに”不可視に既に在るもの”はつまり、欠如として既に到来している。

 

【問い】

 

存在者と存在を自明のように区別しているが一体何が自明なのだろうか。これは長い間、「存在論的差異」と呼ばれるているものである。そしてこれらは一貫して現在に至るまで「存在の問い」から放たれている矢である。何かがある。であれば、何かがあることの原因がなければならない。それが”存在”というただ一言で受け継がれてきたことである。存在者。これは現在において、何かがあるというときそれは名指しによって存在者として任命される。しかし、名指される前からそれは在るのである。例えば、眼の前にあるコップがある。このコップは3秒前もコップである。無論、このコップが作られたときから変わらずに(傷などの損傷はおいておくとして)コップである。さらに3秒前のコップ(存在者)は、現在のコップにとっての存在の一要素であるだろう。であるならば、コップは存在者でありつつ、存在でなければならない。コップでありつつ、既にコップであるにも関わらず、コップにならなければいけないもの。つまり、時間概念の導入によって、というよりは認識によってのみ、存在と存在者とは区別され得るだけである。「"コップ(存在者)"が"ある(存在)"」の”ある”が存在であるならばそれは名指すこと(留めること)で、つまり名指すことが存在から存在者を区別するのではないだろうか。物体だからわかりやすいという意味でそうしているだけであり、コップからそれを区別するものなどそもそも存在しないのではないのか。“存在”が、それがそうであるようにしている全てのこと、であるならば、その全てを”存在者”、ということも可能であるはずである。しかし、我々はそれを一個の何かとして保存することが出来ない。というよりは挙げるときりがない存在の存在性たちは、現在においてすら、その存在者と、何は関係があって、何が関係がないのか、の判断(裁断)は殆ど不可能であり、そうしたその都度の命名(すべてを命名すること)はすべてを差異化することで、全くの非-意味的な記号にすぎないからである。つまり存在者の前に存在があるということを一旦おいておくとしても、存在/存在者の区分というものが在り得るのは現存在の規定によるものではないのだろうか。つまり認識が現在に依存せざるを得ないのと同様に、認識とは存在者を任命するための亀裂を入れるための道具であるように。従って、全てはどちらかである。存在しかこの世界に存在しないか、それとも存在者しか存在しないのか、である。そしてこれはどちらも同じことを指しているに過ぎない。おそらく断言しなければならない。世界にあるものは、時間と空間による生成変化だけであり、それをその都度捉えて、何らかの意味を介入させ、なんらかの法則を見出し、愛という言葉で語られるそれらは、全て、存在なき存在の戯れであると。そして人間だけがそこに何等かの意味を見出す(してしまう)のだと。神が消し去ったものがあるとするならば、人間において、病にでもかからないかぎり、意味が消えうせることが絶対にないということである。それは死はこの生の中にない。という意味で、死が特権的な地位をもたないものである。我々は終わりなき駆動する記憶である。

 

「存在の出口(Sortie de l’existence)に召喚されたもの」としての存在者は一体誰に、召喚されたのか。先ほどのコップの例を取るならば、その都度召喚しているのはこの私に他ならない。そして、現存在は誰によって、呼び出されているのか。これも同様に私、ということになるだろうか。そうではない。私は私自身、何ものかによって呼び出されているのである。全てはそう名指すように既に呼び出されているのである。その時この呼び求めは最も高貴な神性として現れる。この声は一体誰の声か。

マリオンが存在/存在者に先行するものを見たものと同じものを見たと言ってもよいだろうか。贈与。愛。存在に先行する「呼び求め」。或いは、

 

ヴェイユに戻ることにしよう。 

ブランショが引用した、ヴェイユの言葉とその先の少し。

 

 

「完全に神を欠いたものとしての世界は、神自身である」

 

重力と恩寵 /シモーヌ・ヴェイユ

 

 

「捨て去ることで神は私たちと別れるのだが、この捨て去りは私たちを愛撫する神のやり方である。私たちの唯一の悲惨である時間は、神の手からなる接触そのものである。それは神が私たちを存在させる放棄である。」

 

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

 

神はわたしを存在の外見をまとった非存在として創造した。自分の存在だと思いこんでいるものを愛によって放棄し、わたしが虚無から抜けでることができるためである。

そのとき、もはや「わたし」はない。「わたし」は虚無に属している。しかしそのことを知る権利はわたしにはない。もしわたしが知っているなら、放棄する意味すらなくなるだろうからだ。わたしはついぞ知ることはないだろう。

他のひとびともまたかれら自身にとっては存在の幻影でしかない。

このように考えることは、人びとの存在の実在性を損なうどころか強めるのである。なぜなら、かれらを彼ら自身とのかかわりでみているのであって、わたしとのかかわりでみているのではないからである。

 

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

堕落論 /坂口安吾

 

4.5年前くらいに書いた堕落論についての所感が発掘されたので微妙に修正して載せておこうと思う。

 

坂口安吾堕落論を貫いているものは「それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。」ということであり、社会的秩序、伝統、流行といったある種の固定概念的な枠の押しつけがましさに対する、坂口安吾の抵抗であると考える。そういった枠が我々に降りかかるときにどう生きるべきか、ということがこの堕落論ということになるだろうと思われる。
秩序や伝統というものの枠に収まるとき、人間の進歩はないと考える。さて伝統という枠が今現在の状況に耐え得るかということである。それは太宰治が戯作者であるときに、優れた作品が生み出されたと考え、宮本武蔵が勝つために(つまり生きるか死ぬかに於いて生を選び貫く為に)は、現在まで殆ど形を変えずに受け継がれてきた伝統という枠がいつまでも社会に生きる上で適用できるか、または現在に於いてもそれが有効か、ということである。その既存の枠を常に疑い、坂口安吾堕落論というまた別の枠を作り上げる。坂口安吾の“堕落“という言葉には世間一般の常識から見れば堕落であろう、というある種の皮肉が含まれていると思われる。人間は堕落する生き物であるがそれを社会や政治に向け、その所為にするのではなく「自分自身を発見し、救わなければならない。」ということである。坂口安吾の眼には、社会が個人の上に乗っかっているものとすれば、余りにも個人が社会の考え方に飲み込まれ人間本来の自我が消え去っているように見えていたのかもしれない。そして、社会と自己の間に家族という共同体が存在する。つまり共同幻想から、自己への堕落の過程として、坂口安吾は家庭を持つことで一つの足場を獲得したのだと思われる。坂口安吾は家庭を持つということが「実際は美徳よりも悪徳にちかいものではないかという気が、私にはしてならなかった。」と言っている。しかし、坂口安吾はその後結婚し子供を授かる。彼が嫌悪していたものは社会的な道徳的秩序であり一般的な常識である。それを守り通すことが美徳という古来よりの伝統を嫌悪していた。彼にとって結婚するということは、制度上で測られるような問題ではなく、そういったものを規定されることを拒んでいただけのように思う。制度によってその愛という感情を量或いは質化することを拒んでいたのだと思われる。何故なら、「私は決して家庭が悪いと断言しない。断言できないのだ。」と言っていることからも明らかであり、そして「もし、家庭というものに安眠しうる自分を予想することができるなら、どんなに幸福であろうか。」、「スタンダールの墓碑銘の『生き、書き、愛せり』ということが改めてハッキリ僕の生活になったのだ。だが、愛せり、は蛇足かもしれぬ。生きることのシノニイムだ。もっとも、生きることが愛することのシノニイムだと言っていい。」という文面からも推察できる。そして結婚しようがしまいが「絶対だの永遠の幸福などというものがあるはずはない。」ということを知っていたからである。故に、彼自身が結婚したということはそこに幸せがあるだの不幸があるだのどちらをも全て引き受ける力、覚悟の現れが見える。「実際の生活が根を下ろしているかぎり」美徳なのである。美徳は幸不幸を超えている。「僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるがゆえに、また、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのである。この孤独は、あに独身者のみならんや。魂のあるところ、常に共にあるものは、ただ、孤独のみ。」独身状態の心境は彼自身が一番よく知っていたであろう。結局はどちらにしても孤独なのだ。坂口安吾は孤独の先、孤独の根底にあるものの話をしている。

「私は生きているのだぜ。さっきも言うとおり、人生五十年、タカがしれてらァ。そう言うのがあんまりやさしいから、そう言いたくないと言っているじゃないか。幼稚でも青くさくても、泥くさくても、なんとか生きているアカシを立てようと心がけているのだ。年中酔い通すぐらいなら、死んでらい。」という言葉に坂口安吾の太宰に対しての思いが含まれている。太宰治はこれを酔わずに言うことができなかった。言えたとしても赤面逆上するのだと。この上記の文体は坂口安吾の言う戯作者としての、また立派なMCとしての遊び心的なものであると思われる。そして、「私は年中酔い通すぐらいなら、死んでらい。」というのは忘れたい過去や不幸というものを背負ってでも虚弱に負けず生きて欲しかったという孤独な人間にしかわからない、坂口安吾のメッセージであり、それは我々に対するものでもあるのだと思われる。つまり、孤独から来る(虚無主義‐フツカヨイのMC‐救われぬ)に溺れるのではなく、それでも必死に踠き続けなければならない。それが坂口安吾の言う“強靭なMC”である。酒の力を借りずに自分自身の眼で見続けるということだ。

自己と世界の関係について坂口安吾は「終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、みずからの不可解な限定とその不自由さに気付くであろう。」「政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。天皇制というカラクリを打破して新たな制度をつくっても、それも所詮カラクリの一つの進化にすぎないこともまぬがれがたい運命なのだ。人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される。」そして自己と世界のあるべき関係に於いては、次のように述べている。「我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何者かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。」それはどうしても自己のみでは生きては行けず、意識的にも無意識的にも人間は個々の人間の関係にも制度を見出してしまう。それらの”関係”が常に私に付き纏っているのがそもそも人間なのであるということである。制度が存在し、それを堕落という審美眼でもって破壊し、そして再び制度という母胎を再生し続ける。現在の私という主体が”堕落し続ける“(常に人間自身に還り続ける)ことが必要である、というのがこの堕落の意味だと考える。それは力強い底なしの堕落であり、”関係の回復”の唯一の道である。堕落とは愛による”関係の回復”なのかもしれない。

Le 9 septembre 2017

 

アーレント研究会 第16回大会

シンポジウム 哲学と政治

   -フランス・イタリア思想におけるアーレント

Le 9  septembre 2017

慶應義塾大学 三田キャンパス 西校舎519教室

  

 

ハンナ・アーレントについて殆ど知識がない。

学者でも元学徒でも何でもない一般人の雑感故、「間違っている死ね。」と言われればこの記事を消去します。

 

3者と聴講者から発せられたものについて、あるいは空間による、雑記。

 

s氏が引っ掛かったといっていたリクールの留保。活動の「多数性」の免れなさ。

 

 

ある人々が活動し、別の人々がそれを被る(que les uns font l'action et que les autres la subissent)ということを含意している 。人間とは、行為者であると同時に犠牲者でもあるのだ(Les hommes sont à la fois des agents et des victimes)

 

k氏がナンシーを引用するように

 

アーレントが「人間の複数性[pluralité humaine]」についての考察によって行った、特異な寄与を思い起こさなければならない」……

 

※考えるという行為の複数性...

「人間の多数性(human plurality)は活動(action)と言論(speech/parole)がともに成り立つ基本的条件であるが、平等(equality)と差異(distinction)という二重の性格をもっている[……]人間の多数性とは、唯一存在の逆説的な多数性である」

 

権力(power/pouvoir)ではないものとして、非-暴力(non violence)としての、善としての活動(action)を称揚することにすべてを乗せることは、善そのものが問われない以上は、難しい。善はつまり真理としての絶対性を認めていることにはならないだろうか。期しくも、アーレントが嫌った意味での哲学的な真理の絶対性と何か異なるだろうか。活動(action)は解体され続ける。日常の対話以外のそもそもの人間が複数いるということ、誰かに差し向けつつ、差し向けられているという”人間の複数性”(アーレント)状況、もっと言ってしまえば一人の人間が現実に存在しているということだけですでに暴力である。さらに加えて暴力存在も同様に暴力に要請されている。という二重の構造になっているといってよいと思われる。それは存在者の構造上、つまり存在の根源としてそういった構造を持っていると言わざるを得ないように思われる。

つまり、ナンシーのいうような「またひとはけっして共同でしか「一つの声」(一つのエクリチュール」)たりえない。

 

特異性のなかで、共同体の文学的体験 -つまり与えられ、賭けられ、誓われ、捧げられ、分有され、放棄された、エクリチュールの、声の、ことばの、「共産主義的」体験- が生起する。ことばというものは、その特異性に応じて共同体的なのであり、共同体というおのれの真理に応じて特異なのである。    

            無為の共同体 / ジャン=リュック・ナンシー  以文社  p134

 

 

従って、それぞれの存在者の最大の"コナトゥス"を"共現前"させることでようやく世界に耳が付けられるだろう。仮にそこから、どんな手や足が付けられるかは、そしてそれらがどのように駆動するのか、何を話し何を聞くのかはやはり同様にわからないと言わざるを得ないが、それでもなお、またk氏と同様に、kk氏のいうような各存在者のなかでの自己欺瞞、自己自身への嘘を辞めること。哲学者としての内在性、two in oneとしての”1”を各人が徹底する以外にないのではないか。

そこにようやく<意見-真理>の"-(空間)"、2(dual)としての1が、世界として現れるのではないだろうか。という以外には。それは決して、全体主義-内在主義に回収されないような場としての。ともかくとして、この3名の登壇者は各々の"外の中"で一致していると思われる。というのは、存在者の暴力性つまり、複数性(一者における”根源的”な”人間の複数性”)を経て、ではどうするかという点である。ナンシーのいう(複数単数存在)として、それからどのような救済の技法がありうるか、或いは3(Trinity)として思考することの可能性。生成される場そのものとして。

 

k氏のいうように「問題は存在(être)の前置詞」である。

 

ともかく、”存在者の根源性(形而上学)”と”政治における決断"の間で振動しているように思われる。それは死に臨む一者の存在と変わりがない。変わりがないとすれば待機・留保でさえも決断であるような決断が下されざるを得ない。複数性を分有する決断。ここを掻い潜るための、実際の、実践の、となるとたちまち、存在者の根源性へと回収されざるを得ないような複雑な構造をなしているが故に、この問題はいつまでも一層困難であるように思われる。

 

そうするとサルトルが出てきてもよいのではないかと思ったが、サルトルは出てこなかった。アーレントサルトルを嫌っていたらしい。しかしなお、この問題はサルトルを引き出す必要があるように思われる。あるいはハイデガーのいうsorgenとしての。

 

内的体験

バタイユの内的体験について、もう少し沈黙されなければならないような気がされたため、エントリーは取り下げられた。いかんせんここに書かれた不十分なある問いが発せられた地点は、読まれたのがそこに差し掛かったところであったためである、ということが赦されるかは別として。兎に角、今漠然と去来されたのは、恐るべきエネルギーでこれが書かれたであろうということである。これが読まれたとき、人称を破壊するために書かれた書物のように思われた。

ここでこの文章からなんらかの違和感を感じとられたならば、それはこの書物を読まれた結果だと思っていただければそれは概ね正しく、また、常々の思考が考えられたことと符合された結果でもある。繰り返されるならば、これが読まれたとき、存在を破壊するために書かれた書物のように思われたということである。

 

 

敢えてここでデリダを参照されたが、デリダは殆どそれに達している。

微妙なニュアンスの中でなお、それは”すでに”到達されているといってよい。

「天国は地下 真冬の夜の底」

 

踊ってばかりの国 / 2017_8_31

 

何年前か、代官山UNITで観た踊ってばかりの国

初めて観たときの彼は金色に染められた長い髪を揺らしながら、殆ど啓示にも似た唄でまるでキリストのようだった。衝撃的だった。今日、この場所で、あの時と同じように、違うように、林さんは居なくなって編成は変わっても、彼はより生に近く、全てに寄り添うように力強く存在の全てを賭けて、「生きるぞ!」と言わんばかりに、光を唄っていた。それは去年のキネマ倶楽部で観たときも同じことを感じた。何より数年前のあの時よりも彼は生きている。多分数えきれない哀しみがあったように見える、その前からただでさえそうだっただろうと彼を見ていて思う。それでも彼が楽しそうに唄っているのを見ていると全ての怒りや哀しみは癒えて気が付くと僕も殆ど泣きそうになりながら笑顔になっていた。思えば彼らのライブはいつもそうだ。哀しみの底から救い出したような言葉やメロディを描ける人が、普通あんなに楽しそうに嬉しそうに唄えるはずがない。それでも殆ど存在の燐光の中で、彼は本当に音楽を信じているのだと思う。何より彼自身が多分観客の誰よりも一番にステージの上で音楽を楽しんでいる。どんな景色も楽しんでやろうと。「夏に勝ったぞ!」とか「ここにいる俺たちの勝利だ!」とか叫んだり。彼はずっと良い意味でのイノセントであり続けていた。普通の人が諦めて道に捨てて行くものを彼は絶対に離さなかった。最後に「それで幸せ」「言葉も出ない」を唄える尊さ。「evergreen」「唄の命」「Boy」「バケツの中でも」を聴けて嬉しかった。

 

 

みんなが求めた自由の唄に形がないのなら

ときめく心は大切に 心を大切に

メランコリックワールドにおいでよ evergreen night

天国は地下 真冬の夜の底

 

 

涙と笑顔のその間で人知れず揺れて笑うあなたと

 

 

それを見てつい数日前ほとんど絶望にあった僕はまだ生きたいと思ったし、強くならなければならないと思い出した。

 

ロシア語と白黒の写真でデザインされたブックカバーとナボコフの「青白い炎」に今日のチケットを折って栞みたいに挟んで、誕生日プレゼント、なんて馬鹿みたいに洒落た友人に感謝している。キネマ倶楽部絶対行くぞ。