2018年

 

明けましておめでとうございます。人間はメタ時間により年を越します。 最後まで改行なし。タイトルに反して2017年の簡易な振り返りが主。 年明け最初に観たのがyoung magicで、ずっと待ってたのですが、ようやく。狭いだろと思ってたのですが、やっぱり狭くて、もっと大きいところでやってもと思ったのですが、その閉塞した場がなんともいえぬ彼らの呪術感と解けており、開始早々、メラさんが両手を前方に上げて、手の裏を返して、空間を裂くように、また、虚空を貫くような眼光であの音と映像なのだから、滾る以外の道は途絶えたのだった。今年も1月28日に来日するそうなので、行ける方はぜひ。僕はもう一つがあるので今年は観れない。残念。あとは二つの哲学のシンポジウムに行けたのは大きな収穫かなと思います。僕みたいな素人でも参加できるシンポジウムがこうして開催されていることが嬉しい。今年はピエール・クロソウスキーのあれがあるそうなので、ひょこっと行こうと思います。ブログでも書きましたが、夏の休暇で一人、京都に行った。なぜか修学旅行などでは京都に行くことがなかったので、人生初京都となりました。全部書きたかったのですが、なんだか途中で書けなくなってやめてしまった。とても良い旅でした。記憶が少しでもあるうちにいつか3日目を書きたいと思います、、、。あとはブログに書けなかったのですが、大好きなslowdiveを観ることができた。高校生の頃、二枚目のアルバムのsouvlakiに衝撃を受けた小生はそれこそ擦り切れるくらいずっと聴いていた。僕にとって彼らの音楽は天界の音であり、何処までも天空を貫く音だった。再結成してから、もしかしたらといつかと思っていたのですが、フジロックで二度来日して、なんで単独公演がないんだと嘆いていたのですが、ある日渋谷駅の入り組んだ地下の構造を通っていたら、slowdiveの単独公演のポスターが貼られていて、視線に入った瞬間に感極まり、僕はちょっと泣きそうになっていた。ポスターはメンバーのアーティスト写真なんだけれど、なんか家族写真というか全然覇気がないんだけど、slowdiveの全てを包むような優しい空の音のようでありなんだかほっとしたのだった。最高だった。なんだかあまり語ると逃げていきそうなので、取っておこうと思います。あとはいろいろありましたが、そのいろいろは僕だけが。後はほんの少しでも力になれれば。今はヴィトゲンシュタインフッサールを読みなおしています。クリスマスだろうが、正月だろうが読んでいます。敬虔です。書けるかわかりませんが、近いうちに、ちょこちょこ書いていこうかなと思います。足し引きして毎年変わらず虚無のような気がしますが、気のせいだろうか。今年は誰の眼に映っても良いことがあるといいなと欲に塗れておる。どうやったらそうなるかよくわかりませんが漠然と、2018年はもうちょっと学的になれたらなと思います。仕事のことを書かないのは相変わらずシンドイ以外の感想がないからです。。。年明け早々忙しくなりそうで、もう勘弁。このままでは虚無こそが普遍であるというのが人生のあれになってしまうので、なんとかせねばね。。。すべて、粛々と。

 

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年の瀬

 


色々あり過ぎてあまり思い出せない。

笑ってしまうくらい、人生とは人生だ。
3日までに何か書ければと思っています。

Nous n’avons d’autre possibilité que l’impossible.

ただ、一つだけ言えることがあるとすれば、
ヨイオトシヲ。
皆、幸多き一年であることを祈っている。

 

 

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終わりなき対話シリーズ

こればかりは多分引き寄せられているのだとしかいいようがないのですが、ブランショの終わりなき対話Ⅲが売っていたので買いました。これで全部揃いました。うれしい。なんでかよくわからないのですが、終わりなき対話を買おうと思って本屋に行くわけではないのですが、たまたま本屋に行くと発売していて、すべて発売日一週間以内に買えているのちょっと感動。まぁそれなりに本屋には足を運んでいるのでそれもそうか。毎回条件反射的に本棚から手に取って、気付いたらレジに並んでいる。読む。ヴェイユ論をあのテンションで書いておいて難ですがⅡをまだ読み終えていません。。。こうして日本語で読めること、訳者の方々には本当に感謝したい。

 

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エンドレス・ポエトリー / アレハンドロ・ホドロフスキー

 

<ネタバレなのかよくわからないけれどそういうのを避けたいならば読むべきではない>

 

 

「人生なんてお荷物だ」

88歳になっても序盤から暴力と暴力みたいな映像。はりぼての現象と自我の狭間で揺れる、若きホドロフスキー

ビールを普通のジョッキで一杯頼む若きホドロフスキーを横に置いて、「2リットル」といって2リットルのジョッキでビールを豪快に飲み干し「あんたたちはただの無よ」と言い放つ悪魔みたいな孤独の詩人ステラに惹かれながら、アマチュア芸術家集団と詩人エンリケと共に仮面の他者と自我でさえも反射でしかない限界線を破壊する。「詩とは行為である」。従兄弟の家の庭で木を斬り倒そうとすることは、直接的な言葉の使用ではなく、比喩のようであり、それはある種の詩人としての萌芽だったりする。ホドロフスキーの映画の中で一番笑った気がする。何があっても直進する詩人、アマチュア芸術家集団の、超絶ピアニストだといって紹介されたあのピアノをハンマーでぶっ叩いたあとに蹴っ飛ばして破壊して尚、倒れたピアノを打鍵し続けるシーンは笑った。波止場。自分も親父に許すと言いいたい。もし何かの負い目を感じているならば。7歳の時に僕の前からいなくなった、もう生きてるのか死んでるのかもわからない親父に僕もそう言いたい。そもそも僕の中では最後までかっこいい親父だったのだから許すも何もないのだが。「その存在は、完全な光」殆ど形而上学を見ているようだった。はじめてホーリー・マウンテンを見たときの衝撃は今でも覚えている。大好きなゴダールと共に、じいちゃんになっても僕の限界線を破壊する孤独で愉快なじいちゃん。ホドロフスキーに行かないでと止める友人たちのように、開いている柵にしがみつくのはもうごめんだ。

日常性6

iPhoneがXになり、Androidの8インチタブレットが1000円で手に入ったので、折り畳めるBluetoothキーボードを買ってこれを書いています。まぁまぁです。エンターキーが押しづらく難儀しています。これでMSのアプリ入るし、Surface持ち歩かなくてもよいのかもなと思ったりしています。と思ったけどやっぱり打ちづらい。慣れです。よっぽどのことでない限り人間は慣れてしまうものだ。ついでにキーボードに小さなタッチパッドが付いており、マウス要らない設計になっている。小スペースで済む。結構前に、安藤忠雄展を見に行きました。例に漏れず光の教会を目当てに行ったのですが、あまり衝撃を受けませんでした。それどころか少しがっかりしました。やはり、本物とはかけ離れているように思います。安藤忠雄のデッサンや設計図があってそっちのほうが衝撃だった。シュルレアリスムの絵のようだった。安藤忠雄のコンクリートって全然冷たく感じない不思議。中之島のあれと上海のあれが好き。踊ってばかりの国、キネマクラブで。相変わらず最高だった。それとLillies and Remainsを見に行きました。とてもよかったです。もっとライブやってください。リリーズのライブではノベンバの小林さんと一緒にSmithsのカバーをやったり、ヒカシューの巻上さんとパイクをやったり、ジョリッツのメンバーと巻上さんとリリーズのメンバーでJoy DivisionのDisorderをやったり、いったいここはいつでどこなんだと思いながら至福の時間だった。Wreckcageと小林さんとやったTransは本当に最高だった。

日常性5

時間が実在するとは思えないですね。

時間なんかただの錯覚ですよ。

日常性4

 

仕事は順調といえば順調。休み、先日某お手伝いをしましたが、あまり役に立てなかったような気がします。楽しかったことを幾つか伝えたけれど、何よりも会えたのが一番うれしかったのだ。それだけで。最近はあまり本を読んでいません。岩波文庫からフォイエルバッハの『将来の哲学の根本問題』が出ていたので買いました。時枝誠記の『国語学史』も出ていましたが、見送りました。今月はたくさん買い物をしました。机。焦げ茶色の。白い本のページが映えるので、とても気に入っています。黒でもよいのですが、やっぱり机は木製の焦げ茶色のものがよいです。黒は少しあたたかくないので。日の光で焼けたり、擦れて薄くならないようにコーティングのようなものを施した方がよさそうだな、という感じですがまだ検討中です。組み立てるのは結構大変でしたが、プラモデルを作っているみたいな感覚で楽しかったです。とてもよくできました。使っていた机の幅が80cmだったのですが、本を置いたりパソコンを置いたりするとすぐに沢山になってしまうので不便をしていました。新しい机は100cmあるので快適です。欲を言うと120cmくらいあると便利かもしれません。椅子も買いました。8年くらい使っていたのですが背もたれが壊れてしまったので。それとコートを買ったり、スーツを買ったり、リュックを買ったり。なんでこんなに買い物してるのか。寂しいのかもしれない。くだらない。僕は幸せになるべき人間でもないし、そうあってはいけないのだ。幸せも不幸もどうだっていい。全てはあるべきところに収斂する。僕の哲学的命題はとっくに終わっていたのだと思う。結論を覆すものは何もないと思っています。このことに気づいたときにはもう終わっていた。あとは都合のいいようにつぎはぎして自分の論を固めていくものに過ぎなかった。何もなかった。そんなのは4年も前からわかっていた。何を読んでも変わらないだろうという確信がある。久々に家にあったル・クレジオの『物質的恍惚』を開くと黄色い線が引かれていた。自分が4年前に引いた線。

 

 

ぼくが存在しているのは、何百万もの人々がぼくのまわりに存在し、かつて存在した―これからやって来ようとする者たちのことはさておき―からにすぎない。そのことは観念というようなものではない。現実の一片、現実の単なる一片なのだ。彼らにこそぼくはすべてを、文字通りすべてを負っている。ぼくの名、ぼくの住所、ぼくの鼻、ぼくの皮膚、ぼくの髪の色、ぼくの生命と最も秘かな思考、ぼくの夢、そしてぼくの死の場所と時間さえも。     

                                『物質的恍惚 』/ ル・クレジオ

 

 

何を感じ、どう思うか、楽しいと思ったり、悲しいと思ったり、どうだっていいと思うことすらも、何も思わないことすらも、これを今こう書くことも、正しかろうが正しくなかろうが、全てはこの現在がやってくる前に既に終わっている。人生なんかどうだっていい。ただ、僕以外の全ての人生が幸せであればよいと思っている。