哲学

ロラン・バルトへ

内側から見てドアが開いているとき、外から見たドアは閉まっていると見せかけて、普通に開いているものである。ところで何かを考えるには遮断する必要がある。遮断するとき人は襲撃される。なぜなら遮断されている場こそ襲撃には都合がよいからである。思考…

受動的発生/能動的発生

例えばデリダが『フッサール哲学における発生の問題』で提出したこのことは、 つまりデリダがいうように「フッサールを不安にさせるもの」は、いわば”発生の起源”という問題はどんなところにも及んでおり、未だ人間は"発生"というこのことがどこからやってく…

la chose même / les choses même

マリオンは『存在者と現象』において、ハイデガーを引用してこう述べている。 われわれは現象学に専心しているのではない。現象学そのものが専心しているものに、専心しているのである。(ハイデガー) 現象学の対象とは現象学ではない。それは諸事象そのもの<les choses même></les>…

題未定_形而上学_2018_05_09

ぼくが存在しているのは、何百万もの人々がぼくのまわりに存在し、かつて存在した―これからやって来ようとする者たちのことはさておき―からにすぎない。そのことは観念というようなものではない。現実の一片、現実の単なる一片なのだ。彼らにこそぼくはすべ…

『論理学研究』エドムント・フッサール_序論_(1)

備忘録ということを踏まえて簡潔に書いていければと考えている。タイトルにあるように、ここでは『論理学研究』の序論で語られていることの概要をまとめていこうと思う。まったく個人的なことではあるが、最終目標として、ジャン=リュック・マリオンの『還元…

Sortie de l’existence

神は予め世界から退去していなければならない。 ブランショの『終わりなき対話Ⅱ』において、語られるシモーヌ・ヴェイユは『重力と恩寵』からの引用は殆どなく、『カイエ4』、『神を待ち望む』が大半を占めている。ブランショがヴェイユを語るのは、この『終…

Le 9 septembre 2017

アーレント研究会 第16回大会 シンポジウム 哲学と政治 -フランス・イタリア思想におけるアーレント Le 9 septembre 2017 @慶應義塾大学 三田キャンパス 西校舎519教室 ハンナ・アーレントについて殆ど知識がない。 学者でも元学徒でも何でもない一般人の雑…

Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?

形而上学入門/マルティン・ハイデッガー 訳 川原 栄峰 (平凡社ライブラリー) 以下の引用(四角で囲われた部分)はすべて上記からである。 "Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?" 「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではな…

前-存在者性

ジャン=リュック・マリオン 『還元と贈与』 を読んだ。 私が読んだものの中で、自身が考えていた"存在者"の認識に、 "私"というものの"存在者"の認識に近いものだった。 予め言っておくと僕の圧倒的力不足により、マリオンの意図していることではないのであ…

2016-8-29

存在者は忘却<埋葬-再生>を根源に生きている。生きることは皮膚を垢で隠し皮膚に亀裂を入れ、日々自己を埋葬-再生することでしかない。再生は埋葬のエネルゲイアとして、埋葬は再生のデュナミスとして、或いは埋葬は再生のエネルゲイアとして、再生は埋葬…

闘争

”私” 私の唯一の所有物であろう私が何処からやってきたのかということについて。 ここで<私>は崩壊しているかのように見える。 <私>というとき既に、<私そのもの>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私そのもの>というような<存在し…

眼の現象

眼は背景からそれを切断し対象を引きずり出す。対象が事件として、現れた時ようやく、眼が現れる。というよりは"事件"の発生なくして視るという現象は発生しないのである。 「見て」とは眺めることをではなく、事件の目撃者であれと存在者に要求している。全…

死・神・存在

自己を否定していくことで行き着く先が死であるように、それと同じだけ世界の否定(対象のなさ)は自己の否定へ向かっている。 死による存在の拒絶は存在”自身”の意味解除を果たすが、世界の側はその存在の意味を解除することができない。たしかに「彼はあった…

81番目の備忘録

<前> ただただ個人的なメモとして保存していたもの。 私が考えてきたことであると同時にそれはつまり私以外の存在が考えたことである。飽く迄もこれは備忘録に過ぎないということを断っておく。 書いた時期がバラバラなので論理的整合性などというものは一…