「さらば、愛の言葉よ」

さらば愛の言葉よ と アルファビル

 

3Dだろうが多機能携帯端末が出てこようがゴダールだった。タイトル見ればわかるんだけどブレない人だと最初から安心して観ていました。

                                  

急に話が飛ぶけれど最近アルファビルを観てなんとなく書いたものを貼り付けておこうと思う。

 

アルファ都市は本来人間が持っている時間軸の逆である。点滅するライトから始まるこの映画は、原初、初動の契機が、何かということを隠しながら終わりに向かって(つまり今回は始まりに向かって)進んでいく。初動の契機である、「愛している」という”始まり”が最後に始まっている。では我々は、とゴダール本人が問いかけるようにして、終わったところで始まっている。ライトの点滅はもはやなぜ点滅しているのか、ONとOFFを繰り返しているのかということがわからなくなってしまうほどに行為を反復している。終われないことから始まっている。ライトは行為の意味をもう覚えていない。だが意味が始まりの結果であるために「なぜ」と問うことは原初に遡行することであり還るということであるために、アルファ都市では「なぜ」とは問うことが許されない。「なぜ」の意味がわからない。彼らには帰るということの意味がわからない。行く、帰るということではなく移動を繰り返しているのだ。それは家から外、外から家という時の関係を持っていない。つまり常に家を出ている。家にいるときにさえ外に出てしまっているのが、アルファ都市であり論理である。恐らくONにすると明るくなることはわかる。そしてOFFになると暗くなるということはわかる。しかし、なぜOFFにするのか、ONにするのかということがわからない。というより覚えていないのだ。行為の反復によって平均を割り出し未知を補う、或いは埋めようとするがそれは歴史的な全体をもっていないために未来を追い越す形で現前することにはならないのだ。だから「元気です ありがとう どういたしまして」と全的な想定をすべてデータベースの中に組み込み、すべてを話すことでどれか一つは正解する。もはやこれは意味ではない。過去を集積し、予め自動販売機に「ありがとうございます」が入っているが、そんなものは嬉しくもありがたくもなんともないのである。これは配慮ではない。次に、なぜカメラを禁止されなかったか。カメラとは現在の瞬間を写真として複製しそのままに保存するものである。彼らの辞書(物語の不在)つまりすべてが並列な現在、から引き抜いている故に写真は歴史性を持つことなく現在流れている時間から完全に切断されている。だから写真の意味がわからないのである。

 

とまぁここで書くのを止めてしまったのでというか、一回観ただけでは消化しきれなかったために書けなかった。今回も無論消化しきれなかったのでこのような形になり、また今回も書ききれない。そして何回観ようが書ききれない。

 

ここからは「さらば、愛の言葉よ」

長くなったけどここから少しだけ書いてみたい。

 

3Dによる試みは、メガネを通すことで、表象すら消し飛ばしたのであるというか消し飛んだ。表を見てわからなければ裏を見ようとするが、もし仮に裏に何もなかったら、というより表に過剰に全てが書かれていたら我々は最早それを読むことができない。言語は常にスクリーンにもなく我々との中間に足場を失うように浮遊していた。スクリーンの突発的な停止→作動は、記憶の容量を越えて動作が中断するように、一度、ロードをするかのように停止するのは、最早現代の速度に対して脳は余りにも遅く、容量を超えているということの皮肉である。小さな問題、少しの停止、少しの遅れであろうと眼前に惨事となって現れる。これは間断なく、次から次へと事件が起きているのだ。並列化された現在は最早何が事件なのかわからないくらいに全てが平坦に事件なのだ。おそらくもうアルファビルの時とは比にならない。そして何よりの問題は「愛」であり「始まり」ということだ。恐らくすべての作品に共通しているのだと思う。そして、この「さらば、愛の言葉よ」において、アルファビルのような設定(仮に便宜上SFとしておく)を採用するまでもなく、現在とはそうなのである。アルファビルでの始まりを取り戻すという物語は終わり、もう始まりが完全に消え失せたという彼の強烈な回顧録だ。私には赤子の叫びは始まりとしての、生誕としての、産声とは思えなかったのである。想定した自由は選択の煩わしさ、鏡の反射として己に帰ってくるということの重さに耐えかねた。記号だけが残り、全てが分断され、瓦解する。私は最早一人の私ではなくなり自己に、もう一人の他者を誕生させた。「通訳を雇うようになる 自分の言語を理解するために」というのは暗喩でもなんでもない。他者と話している時でさえ常に自分との対話というよりもっと言うと関係が発する関係そのものとの対話という形を取らざるを得なくなった我々は、もう同じ“Langue”を持ってなどいない。そして”Langues”が消え失せ、パロールも消えた。だから「私が話せるようにして」なのだ。結局この表明も言語という形象から飛び出ない。言語が飛び出ようとも届かない。抗えぬ川の氾濫、濁流の中で、何を見て、何を聴いて、何を読んで、何を話しているのか。

バタイユ「宗教の理論」での、動物は「水の中に水があるように存在している」というのをなんとなく思い出した。犬も流れていたし。区別に対して肯定的に認識していない動物と、全てを分断させて肯定的に区別し、横に並べた人間。そしてこれはもっと私事であるが、あの万年筆が出てきた時ハッとしたのだ。もし仮に私がそうしたように、意図していたのなら、それが鳥の示すあの意味であるなら、赤子の叫びは意味を変えるのかもしれない。