死・神・存在

自己を否定していくことで行き着く先が死であるように、それと同じだけ世界の否定(対象のなさ)は自己の否定へ向かっている。

死による存在の拒絶は存在”自身”の意味解除を果たすが、世界の側はその存在の意味を解除することができない。たしかに「彼はあった」と第三者は語るのである。存在の悲劇は自己の意思で生まれてきたのでないにも関わらず、死ですら正しくないということにある。死ですら全てを解除することにはならない。後悔は死後にはない、この後悔は死の直前、最後の一呼吸、、それよりも短い最期の瞬間まで訪れる。しかし死そのものは決して存在の中”のみ”にはない。誕生と死は世界の側にある。存在は世界と関わってしまった瞬間から、意味を互いに持ち始める。存在が重いのではなく、関係だけがブクブクと膨れあがるのだ。存在は存在と世界の結果、変化し続ける"状態"のことである。

変更可能性という時、私は私を変えることができるということではなく、変更を受ける、受動的な可能性ということだ。「あの人はああいう人でした」(死者がどういう人間だったか)という回想がいよいよ畏まった形でなされる事態が葬式の際に発生するのは、自分を語るということに自分は出席できない、自分の終わりに間に合わない故にどうしようもなく世界の側から他者が語るのである。

鞄の重さは筋力との関係の中で決定される。長い時間持ち歩き、鞄を手から離したときに起こる疲労、手の軽さ、震え。この手の震え(終わった結果発見される起こったこと)によってしか私は「重い鞄を疲労するまでに持っていたのだ。」ということを終わりから発見するのである。私は重い鞄を現在持っているという時ですら、存在は現在から事象を発見することはできない。通りを走る車の現在位置から1メートル先、或いは数センチ、数ミリ等々、それは過去からアクセルを踏み続けている現在からほぼ決定されている。過去から、現在を素通りして、常に終わった現在から、現在を発見しているに過ぎない。おそらく私というのはいつも私に対して遅いのだ。それはまた知らないことを常に残しながら知ってしまっていくということである。恐らくこれが存在に残された可能性ということであり、延長ということであるのかもしれない。

「~をしている」、「~をする」というとき、観測者は(例え自分が今それを行っているとしても)その動詞つまり行為や意思そのものに対して遅れている。これは言語的に遅れているというより、もっといえば、そもそも人間というものが世界に対して遅れているのだ。

何処で誰のもとに産まれてそしていつ死ぬかということを決定することができない。そしてこの生きている現在、意思の存在は疑わしいものである。いつからか、何かを考えて実行することが出来るのだ、という認識にすり替わったのではないか。人間が思考したり実行したりするということは、本来選ばれたあとに選んでいるに過ぎないのではないか。それを訓練によって或いは習慣化することで逆転しているように見せているだけではないのか。本来人間というものは、選択などしておらず、人間に意思など存在しないのではないか。あるのは”状態”、”行状”だけなのではないだろうか。人間の発見とは過去を、再認という形で発見し続けているにすぎない。だがそこにある些細なズレである最も重要な事象は、他性であり、常に理性を超えている。

"全的に知ることなく経験しかできない人間"と、"経験することなく既に知っている神"は、永遠に交わることがない。故に恐らく両者ともに何かを自らの力のみで選んだことは一度もない。世界の他性。世界が他性であるならば、この世界のうちにある、この自己自身という存在者も他性であるに違いないのである。そこでむしろこの「”始原の喪失”から始まっているような形で存在している存在者」。このことにしか希望はないのではないか。”全的に知ることがないというこの”半開状態”このこと。存在は他性の到来するそのときをただ待てば良いというのか。