メモランダム

選ぶというこのことが可能であるのは、選ぶリスト、事件、が目の前に既にあるという受動的可能態であることに他ならない。故に何時でも選択は受動態である。選択する存在そのものが世界から遅れてあるということにより選択は可能性としてある。というよりは世界に対して遅れているからこそやってくるのだ。キルケゴールの「あれか、これか」における”永遠の相の下”とは、例えば神のようにあらゆる事物に先行するという優越性に立つということではない。というよりはそこに優越性がないことが人間存在であり、寧ろ受動態である存在者は常に眼前の選択との間、境界に晒されている。選択がまさに可能性として開かれるのは、この境界に踏み止まるときである。では如何にして存在者はそこに踏み止まることができるのか。”永遠の相の下”に踏み止まるというこのことは如何にして可能なのか。という問は意味を持たない。存在は常に境界にたたされているのである。何かを知る代わりに未だやってこない問を残している。存在は完結を常に回避している。全知である神は未来を組み尽くしているために驚くことができない。驚くということが遅れてやってくるものであり、受動態だからである。存在は知らないということにより驚く。未だやってこない何者かを予視、配視することができるのは何がしかを”それなり”に終え知っているからである。予めとは、なんらかの時間空間の内における現象、つまり事件を予感すること、を現在において持つということであるが、神は全時間的、全空間的に”ある”ために、つまりは時間、空間の非在、非知を排除しているために、事件はおこることなく神の視線を免れる。神は境界にあるのではなく全ての埒外の並列化された現在にある。神は全現在なのである。