眼の現象

眼は背景からそれを切断し対象を引きずり出す。対象が事件として、現れた時ようやく、眼が現れる。というよりは"事件"の発生なくして視るという現象は発生しないのである。

「見て」とは眺めることをではなく、事件の目撃者であれと存在者に要求している。全く関係のない対象を見た時にも別の対象が現れ得るのは、記憶が断片的でありこの対象の断片たちは脳内を常に彷徨っているからである。

完全に連結した記憶を持たぬために、記憶が断片的であるが故に、その断片の狭間に対象を滑り込ませることができる。これを歴史の生成と呼ぶ。眼は対象を切断し、この断絶の空白を埋めるためにある。しかし眼の可能性は、対象の内部で対象を切断しその時初めて眼が現れ、存在者は視線に曝され、このときようやく存在者の眼は開かれ対象を視ることができる。

 

強度"1"あるいは存在者の眼による選別

強度”1”は存在を超えている。強度"1"にとってジャンルは下位構造である。

”深度-拡大”は相互に影響を与え合い、次第に存在者の内で”強度”を生成する。この”強度”は存在とほぼ同値である。

”拡大-深度”の量的、数的な競争は意味への到達にはならない。数量で推し量ることが常に挫折するのは存在の”強度”は"それ"を知らなくても”強度”として存在しているということのことによる。

”強度”は"0"から始まることがなく、"1"から始まる。この"1"は強度の中に、存在の中に既に常に紛れている。これは”拡大-深度”による”強度”の生成の中に既に紛れているために変化を被ることがない。この”1”により始まりを予感するのである。存在が常に正数であるのはこのためである。

この"1"による"1"の発見は無論、数的、量的な尺度からは遠ざかっており加算されることはない。

これは”眼の発見”、”眼の獲得”ともいうべきものである。”眼”は最初からあり、それから事物を見るのではない。事物とともに対象の中の眼が現れ、その次に存在者の眼はようやく見ることを許され、事物が現れる、という事件なのだ。存在が事物を認識するときには純粋な事物としてあるのではなく、常に事件として存在者に現象する。

主観客観の行使はこの泥に塗れている事件を、純粋な事物、多数決的に分離する試みに過ぎない。だが、そもそもとして"1"が存在に既に紛れているようにしてあらゆる事物は存在の認識の中に既に塗れている。これが眼の悲劇であり、眼の可能性でもある。

切断された対象の記憶はその空席をもって、忘却を根拠に、不在を根拠に歴史の生成を行っている。

 認識は対象の内部の眼が対象を切断し、解体したあとに始まる。この発生は存在者の強度と対象物そのものに宿る眼の力に関わっている。内部に眠っていた眼が現れこの眼と存在者の視線が衝突する時、存在者は視ることを、認識することを、余儀なくされるのである。

 

存在者が同じ事物を見るとき、別の意味を取り得るのはこのためではないか。