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Torus-Torus-Torus

回転する円環の中で。たとえ緩やかなメールシュトロームの底でも。

闘争

”私”

私の唯一の所有物であろう私が何処からやってきたのかということについて。

ここで<私>は崩壊しているかのように見える。

<私>というとき既に、<私そのもの>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私そのもの>というような<存在しないもの>についての問へとすり替わる。

<我>を考えるということは常にこの<我>から分裂した<存在しないもの>を立てることになるのである。

 

母親の胎内から産まれたこの<私>という存在者は、<私自身>に根源を持つものではない。<私自身>が選べず、また親からもどんな子をというように選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける<私>。

人間は生まれたときに根源を失って生まれてくる。

母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、母親を失い、つまり根源<必然性>を失ってこの世に生を受けるのである。

 

そして根源を失った存在者はまたしても、関係に支配される。

<私そのもの>は常に凡ゆるものとの関係の中に支配されている。

個人の道徳観念や感情、意思はすべて、この文化の前に押さえつけられている。

こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。

しかし、この私はこの関係性の前に於いてこそ、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。ということもできるのかもしれない。しかし、この様相は以下のような図式になっている。

この<強いられ>という状況(つまりここでは最早〈存在者そのもの〉ですら〈類〉でしかない)から<存在>が生起する。

この<存在しない私>を立てることができるのは、<存在者そのもの〉が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているからに過ぎない。ここで類といったのは私そのものは単独者として、純粋に"私"ということがわからないくらいに、世界との関係に強いられているからである。

 

つまり私そのものでしかないような私というものは最早存在し得ない。 

それは〈類〉である。 

神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。

人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。

 

このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。

または半開的存在者。

またの名を<私>という。

 

人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。