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映画 「エヴォリューション」

 

これから書くことは、まだこの映画を見ていない人、今後見る予定がある人、または、見る予定がないとも言い切れない人は見る必要がない。更に実際にこれがネタバレなのかどうなのかは私の知ったことではない。

 

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この映画は海の中の視点から開始することで、

観客をイノセントへと引きずり戻すことから始める。

 

ヒトデは種類によって食事の方法が異なる。

一つは口を使って多くの種がそうするように、捕食するもの。

もう一つは口から反転させた胃袋を出して、捕食物を多いかぶせるようにして捕食するもの。

 

あの赤いヒトデはどちらの種に属すのかは知らないが、

この映画はまさに後述のヒトデのような映画である。

反転したイノセント。

反転したイノセントというのはグロテスクである。

イノセントということとグロテスクであるということは同じところに根を持つものであるように思う。

主人公が見た海の中の死体が彼をイノセントへと、グロテスクへと引き戻す。

 

人間の暴力性の発露は自分より非力な生き物を殺す快楽によく見られる。

この暴力性は大人や友人よりも自分が非力である存在であることを隠すために現れる。

守られていると感ずるときむしろ人はそれなりにそれに対して反逆したくなるものなのだ。

 

人は何故ヒトデから受けるグロテスクな死の見た目が反射し、自分も同じように肉が抉れることを想像をできるようになるのか。グロテスクは、自分の肉体もグロテスクであるということを知るのは虫や動物を殺してみることでわかる。そして自分の肉体がグロテスクであると知るのはいつどのようにして知るのか。

これは自分が怪我を受けるときその外傷を見てグロテスクであることを知る。

つまりグロテスクが現れるのは自分の肉体がグロテスクであるという前提を得てグロテスクは作動する。

 恐らく、自分の外傷を観るのでなければ、つまり内部にある血肉を見るのでなければ、人はいくらでも暴力性やグロテスクを平気で眺めることが出来る。つまりグロテスクはそこでは作動しないのではないか。そこではイノセントとして現れる。

 

ここでヒトデの話に戻れば、ヒトデというのは血液を持たない。ヒトデは栄養を運ぶのに外部世界である海水を利用している。更に、ヒトデは身体が切断されると一匹のヒトデが分離し二匹のヒトデとなる種が存在する。この分裂したヒトデは元のヒトデから分裂したヒトデであり、生殖を介さずにこの世に現れ生きている。

 

したがって、主人公の腹の中に眠っていた子、そしてまさに主人公本人も含め、

あの島の子供はヒトデの再生能力、分裂から生まれた親を持たない子である。

つまり何かの分裂体でありコピーである。

 

失われた父性。

それなしで済まされるなら、そうしたい全て。

恐らく複製とグロテスクとは似ている。

アンディ・ウォーホルが行った複製によるグロテスク、表と裏の反転はそういった類のものである。 

根源があるという幻想と根源がないという幻想は、世界は連続的であるか非連続的であるかというものと同じである。

 

エヴォリューションの語源はラテン語の"evolve"「外に開く」であり、この「開く」はこの映画に多く現れる。開かれる腹、開かれる主人公の眼、眼前に開かれる文明世界。

 

開くというのは無論閉じられていなければ開かれない。

開かれていなければ閉じることができない。

あの島は閉じられているように映り、あの文明世界が開かれているように見えるのであれば、我々の眼はすでに閉じられているに等しい。

 

我々観客は主人公と同じように海の上のボートから眺めるのように、

閉じられた映画館の中で彼岸であるこの映画を観ることしかできない。

しかしもう間もなくこのボートは彼岸であるこの島に到達してしまうのではないだろうか。視点が違うだけで主人公と同じボートに乗っていることに変わりはない。

 

ヒトデと同じようにこの血液も世界を通して私の血として今も流れている。

どれだけの人の血が混じっているのだろうか。

このうようにどちらの世界がグロテスクでどちらの世界がイノセントかという問いは意味をなさない。あらゆる過剰の中で根源を失い、内部は外部となってすべてが晒されたとき、まさにこのことによって形成された内部は、恐らくもう何も愛すことなどできない。まるで反転性裂体のようだ。