神話・共同体・虚構

 

 

ジョルジュ・バタイユ生誕120年記念国際シンポジウム

 

神話・共同体・虚構 

 ジョルジュ・バタイユからジャン=リュック・ナンシー

 

慶應義塾大学 三田キャンパス 南校舎ホール

 

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残念ながらジャン=リュック・ナンシーをこの眼で見ることは叶いませんでした。

ですが、この来日のために、書かかれたテクストをナンシーの妻である、エリーヌ・ナンシーが、読み上げました。日本語で書かれたテクストをスクリーンに投影し、それはまさに詩のような文章で書かれており、また、エリーヌ・ナンシーによって、彼のテクストが朗読され、我々の眼前にありありと、ジャン=リュック・ナンシーを蘇生させました。ナンシーの不在を埋めるような、愛のような祈りでした。

 

パロールは発話者が居なければ聞くことがない。また、聴くものがいなければ、話すこともない。そういった意味でエクリチュールよりも、パロールのほうが、限定性が高いと言える。エクリチュールは、特定のある人に宛てるでもなく、宛先なく、宛先の受領なしに、在ることができる。(parole adressée à-.)でもおそらく、一人ではないという複数性をもって書いている。今私は誰かに向かって書いている、いくつかの想定し得る人を思って書いている。さらに無名の名指し得る、未だ出会ったことのない誰かに向かって、いつでも僕は有る何か、に向かって書いている。決して、無に書くことはできない。無の有としてしか存在しない。おそらく独白は、純粋に独白として存在することができない。

 

教授が言っていたように、同じテクストをジャン・リュック=ナンシー本人がここで読み上げることと、エリーヌ・ナンシーが読み上げることの何が違うのか。また、そういった意味で、ナンシー本人がいないにも関わらず、ナンシーの言葉が語られているというこの事態は一体なんなのかというこの問いは、奇しくもこの公演のタイトルである、『神話・共同体・虚構』と符合してしまった。

 

この三つはどれも人称性を欠いているのです。"宛先のない"ものであり、”発話者が存在していない"地点でもあるわけです。

つまり、これらは誰が書いてもよかったものでもあるわけです。さらに、誰が読んでもよかったものでもある、そういう風にあったわけです。

神話とは師から弟子へという伝承とは違う方法で、語り継がれている。

神話とは、ある特定の誰かに宛てられたものでは最早ない。神話自体、誰が書いてもよかったわけです。そういった神話の複数性が問題にあるわけです。ですから、神話は誤配の誤配でもあるのです。にもかかわらず、神話それ自体は、無傷のまま存在している。神話が語り継がれるのに失敗するという事態はもうとっくに終わっている。神話が記録された時点で、神話の誤配はオリジンの神話の派生としてしか存在することができない。それは別の神話にすぎないわけです。故に神話は永久に無傷のまま留まる。

 

ジョルジュ・バタイユ氏だろうか、否、ニーチェ氏に関してバタイユ自身がそう言っているように、バタイユ氏はそっとしておこう。

こと心臓に関わる限り「なになに氏」はそこにそっとしておかなければならない。

 

作品とは、ドゥルーズが書くことについて語った言葉を借りれば、「人は知っていることと知らないことの先端でしか書かない。」ということになるだろうか。最早可能性として、"祈り"として書く。これは書くことに留まることではないのです。人間の生そのものが、知っていることと知らないことの狭間で問いに付されている。もっといえば、というより寧ろ、知識ではなく、体験していない。未だやってこないということの方が本質的な事態であるように思われます。

 

このシンポジウムは、ある種の神話としてあったのだろうか。

宛先なしに、存在していたのだろうか。私は大学生であったことが一度もない。

にもかかわらず、この場は、無名の私、一般人である私に対しても開かれていた。

そうした意味でも確かにこの知は閉ざされておらず、開かれていた。当たり前のことだが、僕が居なくてもこのシンポジウムは開催されている。登壇者である教授が一人欠けようとも、開催される。何しろ、今回の主役である、ジャン=リュック・ナンシーが不在であるという事態でさえ、このシンポジウムは止まることがない。誰が居てもよかったにも関わらず。ある名指し得ぬある何かに向かって。語りつくし得ぬ不可能性の可能性へ向かって。 

 

複数性。何も神話だけではないように思える。それはナンシー自身が1991年に心臓移植を受けたこの物理的な問題を待つまでもなく、「他人の心臓が私の心臓の内で...」という様相の許にある存在。

今もなおその他者の心臓で自己が作動している主体。心臓が入れ替わってなお、駆動する私という存在者。その中で主体とは何かを問われ問い続けている。一個の存在者に関してすら。僕の中に無限の存在者が流れている。他の存在者もそうなのであるならば、存在者があるということは一体、どういった相貌なのか。世界があるとは何なのか。一体、誰が語っており、誰が話しているのだろうか。世界と存在を隔てるものは果たしてなんなのか。外皮は剥がれ、むき出しの肉も剥がれ、灰となった骨、自己を差し出した先にある、複数性の呼び声、複数性の応答。誰もが産まれ終わっており、死も生の外にある、始点と終点を逸している存在者。存在。

 

あの空間にナンシーは不在の有として存在していたように思います。

確かに他者を通して、ナンシー自身が語り、他者を通して、ナンシー自身を聴いていた。それはむしろ、はっきりとした形で現れた。ナンシーの強大なエネルゲイアとして。

 

このシンポジウムのナンシーの最後のスライドは確かに普通の意味で時間軸として終わりの言葉です。しかし尚、終わり得ぬと言わんばかりに、言葉の意味はむしろスライドの最後であるという通常の時間軸に逆らうように、開かれた神話のように。

また、Adorashion(祈り)のように。

 

技術者たちは世界を変容させただけだ。

いまや不可能なものを世界に輝かせなければならないのである。

                                                                 ジャン=リュック・ナンシー