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アドラシオン

 

 

何故、GWにこんなことを考えているのかよくわかりませんが、

全く静かに流れていました。 

ほんの少しだけツイッターから遠ざかっていました。(とはいえ、ちょこちょこといじってはいましたが。)今日ツイッターを辞める。

以下、馬鹿だねぇ、若造が、と思って読んでくれれば幸いである。

基本的にはいつもそう思っている。

 

生きていれば僕と同じ年齢であった若き批評家のことについて考えていました。僕らの思考というものは多分に他者の言葉、それは沈黙、非言語も含む、身の回りの環境、あるいは気分によって、宇宙的にみれば本当に小さな個人の身体の中に、私の思考はあり、それらと融け合うか融け合わないか、ぎりぎりのところあるいは融けあっているところ、混迷の中で生きている。アンケートで聞いておいて君の意見はどうなんだ、と言われればそうなので、あまりはっきりとしたあれがあるわけでもないので、ただ一つ応え得る、というよりは長い間考えていたことの一つとして、決定論・自由意志の話をしようと思います。僕は"固い決定論の中に意志は在る"以上のことは言えない。ここで"自由"という言葉を使わなかったのは、彼の言うところの意味でそうしている。また、散々このブログでも述べてきた(と直接には提示していないかもしれないが、僕はそう思っている)。"柔らかい決定論"とは少しだけ異なると考えている。だから「"固い"決定論」とした。僕の我儘かもしれない。あのアンケートで一票も入らなかった回答の一つ、"固い決定論"。"固い決定論"を信ずるというとどこか宗教的なあるいはロマン的な雰囲気を呈するのかもしれない。僕は意志を否定することなく、"固い決定論"の立場を取る。これは世界を巨視化したときに起こるものだということもわかっている。つまり、空間的時間的に巨視的に眺める、ということに他ならない。神の位相、スピノザのいう"永遠の相の下"、またはキェルケゴールのいう"永遠の相の下"。これは人間には不可能である。不可能であるが故に、人間には意志があるのだろうか。可能であったとて人間には関係がないのかもしれないとも思う。知っているということと実際にその時が訪れ、体感するということとはあまりにも遠く隔たっている。意識が存在する限りにおいて。「存在とは時間である。」というテーゼは殆どこの意味において、存在は"永遠の相の下"にすら"先立っている"という意味に近いのかもしれない。それでも尚、すべての物理法則、または法則ならざるカオス性、ランダム性を含む、ある法則の下にすべてが動いているとして、私の意志とは何の関係もない。それがそうであろうと何の関係もない。

 

最近感じることの一つに思考の判断の一瞬、その一瞬私の思考から私が剥がされる感覚がある。これは作品が作者の手から離れる(作品としての終わり、または完成)の感覚に近いのかもしれない。自由という言葉を使うとすればこの一瞬にあるように思う。また、"予持"ということについて、僕らは何らかの"予持"を既に持ち合わせている。この"予持"の内でその期待が外れたり、期待通りになったり、またはその他だったりする。本質的にいって、”予持”はその予想していたこうなるであろう、ということ通りになったとしても存在者はそれに尚、驚き、失望し、喜ぶことができる。"予期"はしたがって、常に裏切られるような形でしか存在していない。ハイデガーの"了解"という言葉はこの既に与えられている"予持"を裏切る形で存在していることも含めて存在者は既に"非-了解"="了解"的に存在しているということであるかもしれない。

僕はあまりにも僕から遠ざかっている。殆ど制御不能であるような地点。だが、僕は、存在者の"存在"にそれでもなお、マリオンの言うように、「私は既に私を知っている」、と言い得るところの"存在者"である。

 

個人的な話。

再びフランス語学校に通うことにしました。何故かはわかりません。

前にもそうしていたのでわかりますが、仕事をしながらの勉強は少し堪えるものがあります。大学生は凄い。今学生の皆さんは、これから師に出会うと思います。もう出逢っているかもしれない。この人についていく、この人を越えたいと、思うかもしれない。その直観は最終的に師との決別だとしても、それは絶対に正しい。しかし、最後まで、本当に最後の瞬間まで、それは留保し見極めなければいけない。でなければ到達することは叶わない。これは仕事場の上司でも同じことである。自分が死なない程度に。

丁度、四半世紀を過ぎた人間が、この年になって今更、といえばそうかもしれない。僕は間違っているのかもしれない。しかし、間違っているかどうかなど僕には関係がない。むしろ、人はいつでも正しく、いつでも間違っている。僕は辛うじて地面それ自体ではなく、地面の上を歩いている。僕は"固い決定論"の中で蠢いている、非-力な存在者である。キェルケゴールはいうだろうか、「どんな選択をしても後悔するだろう」と。しかし僕は、後悔を既に"了解"している。「世界が決定論であった場合、責任というものは存在しない」というものがある。だが、この不可避の”了解"は絶えず、意味を問い直す機能を有すために、固い決定論の責任の回避を逃れる。この責任は「存在者から存在へ、存在から存在者」へ絶えず責任を問い直す。

 

僕は死んだ若き批評家に会ったこともなければ、彼について殆ど何も知らない。僕はこの批評家が望むところで死んだにせよ何にせよ、言語の中で、最期の刹那、言語の外で命を絶ったのだと思う。存在者における死は、最後まで死が死の中断、として現れる。その意味で、僕は彼の自由意志を問うことは絶対にできない。疑うべきは寧ろ自由意志と柔らかい決定論だと思っている。

 

書き終えて、殆どこれが意味をなしているのかわからない。全く間違った解釈であり破綻しているのかもしれない。僕は今、固い決定論から限りなく手を放しながら、固い決定論と手を結んでいることを感じている。

 

 

最後に、皆さんのご武運とご多幸を祈っております。