Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?

 

形而上学入門/マルティン・ハイデッガー  訳 川原 栄峰  

 (平凡社ライブラリー

 

以下の引用(四角で囲われた部分)はすべて上記からである。

 

"Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?"

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」

 

 

無いことに困るのは、ある時を、既に知ってしまっているからである。

そして、それが何れ、帰って来るのではないか、或いは、何れその時がやって来るのではないか、というすべての期待(予持)の中に、今まさにその問に対峙しているからである。

 

 

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」.....たとえば深い絶望の中にあって、ものごとからすべての重みが消えうせようとし、あらゆる意味がぼやけてしまうとき、この問いが立ち現れる。

 

         

 

 

この問いが及ぶ領域は最も広範である。この問いはどんな種類の存在者に達しても停止することがない。この問いはすべての存在者を、すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する。

 

 

 

われわれはわれわれの問うことの経過の現在の段階から、さらにもう一つの別のことを見渡すことができる。われれわれはさきに、「存在」という語は、普通の考えに反して、一つの全く限界づけられた意味を持つということを明らかにした。すなわち、存在そのものは一つの特定な仕方で理解されているということである。そのように理解されたものとして、存在はわれわれにとって開けて明らかである。しかしどんな理解も、開示の根本様式の一つとして、一つの特定な視線の中で動いているはずである。この物、たとえば時計は、われわれがあらかじめ既に時間とか、時間の計算とか、時間測定とかいうようなことを知っているのでないかぎり、われわれに対してはそれがあるところのものという点では閉ざされたままである。有様の視線はあらかじめ既に敷設されていなければならない。われわれはこれを先行-視線、「ペルスペクティーヴェ」と名付ける。

 

 

ここでおそらく重要と思われるのは、「すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する」

という記述である。「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問いは"全時間"、"全空間"、に及ぶということである。"むしろ無があるのではないのか?"というこのことは現-存在にとって無が存在しない(認識し得ない)という不可能性を既に感じ取っている。これは無があるかどうかということを差し置いて既に感じ取っている、ということになる。ハイデガーはこの既に感じ取っているこのことのありかたを”先行-視線(フォア・ブックバーン)(ぺルスペクティブ)”と名付けている。”予持”に近いと思われる。どんな理解もな現-存在は終わった過去も未だやってこない未来もここに引き込む威力を持っている。持ってしまっている。しかし、注意しなければならない。

 

 

もっとも、一見鋭そうな、偉そうな顔をして、昔からよく知られている次のような考えを再び持ち出す人があるかもしれない。そもそも「存在」とは最も普遍的な概念である。この概念の妥当範囲はすべての上に延びており、無にまでも達している、無といえども、考えられたもの、言われたものとしては、やはり何かで「ある」のだから。したがって、この最も普遍的な概念たる「存在」の妥当範囲を越えては、この概念そのものをさらに詳しく規定することのできるようなものは、語の厳密な意味においてもはや何ものも存在しない。この最高の普遍性で我慢するより仕方がない。存在の概念が究極のものなのだ。しかもこのことは、概念の外延が広ければ広いほどますますその内包は不定で空虚であるという論理学の一法則にも適っている ーところで「存在」という概念以上に外延の広い概念がありえようか?-と。

この考え方はおよそ正常にものを考える人になら誰でも -われわれはみな正常な人間でありたいのだがー すぐさま文句なしに正しいと思われる。だがこの場合、存在を最も普遍的な概念と決めてかかることは存在の本質を衝いているのか、それとももともと初めから存在の本質を誤解しているために問うことが見込みなくなっているのか、ということがなお問題である。

 

 

昨日のファサードと関連して。 

 

 

 存在はどうなっているのか?存在を見ることができるだろうか?われわれは存在者を、この白墨を見る。しかし、われわれは色や光や闇を見るように存在を見るだろうか?あるいは、われわれは存在を聞き、嗅ぎ、味わい、触れるだろうか?われわれはオートバイを聞く、それが大きな音をたてて通りを疾走するのを聞く。われわれは大雷鳥を、それがそびえる森をすべるように飛び越えていくのを聞く。しかしほんとうは、われわれはただモーターのバタバタという物音や、大雷鳥がたてる物音を聞くだけである。純粋な物音を記述するなどということは大変むずかしく、われわれには不慣れである。というのは、それはわれわれが普通聞いているものではないからである。われわれは〔単なる物音に比べるならば〕いつでもそれより以上を聞いている。

 

 

 

ファン・ゴッホの描いたあの絵、無骨な百姓靴一足のほかには何もない。この絵は本来何ものも呈示していない。にもかかわらず、これを見るや直ちに、われわれ自身が晩秋のたそがれ、じゃがいもの茎を燃やし終えて鍬を肩に野から疲れた足で家路をたどっているかのようにわれわれはこの絵にあるものとひとりで対面する。何がそこで存在的であるのか?画布か?筆触か?色彩か?

いまわれわれが列挙したもののすべての中で、一体、存在者の存在とは何なのか?こんなことさえわからないとは、一体、われわれはなんという愚かなうぬぼれと賢さとをもって、この世界の中であちこち走ったり立ち止まったりしているというのか?

 

 

過去にあった、未来に必ずそうなる、というようなことはどんなことがあっても現存在に十全に正しく通達されることは在り得ない。同じように眼の前にあるものを見やるとき、存在者を見るとき同じように、十全に正しく通達されることは在り得ない。この十全に正しく通達されないことが存在者に残された唯一の可能性である。

現存在は現在という時間に貼り付けられている。全く目が離せないでいる。過去や未来を想像しているときですら、それは現在というその瞬間においてそうしている。ただし、規定されていることを知らずにそうしている。存在者はは"存在"によってすべてが支えられている。この存在は現存在の根拠である。何かがあることの根拠としての。無が"ある"の前で(根拠)、"無"は"ある"。存在とは殆ど無である。ニーチェが言った存在とは幻であるというのはそういったことである。意志の手前の意志や、環世界というものが、ニーチェフッサールハイデガーが言っている"存在"という言葉ではないかと私は考える。

 

"既にあるもの"のみならず、"かつて存在したもの"および"将来存在するはずのもの"、という記述はすべての時間を包摂しているように見えるが、これは現存在にとってそうではない。"かつて存在したもの"は確かに過去である。また、"将来存在するはずのもの"は未来である。しかし、"存在したもの"が存在したものであるために一個の現存在を必要とする。つまり、現在を必要とする。同じように将来存在するはずのものというものも、未だやってきていないという点で、過去の存在したもの同様に憶測に過ぎない。だが尚、存在したもの、存在するはずのもの、が現存在に、つまり観測者に関係なく”ある”のだとすれば(これも私という観測者の憶測の域をでない)のだが、世界は既に全体性として、すべてが完了している(これも私という観測者の憶測の域をでない)。それはちょうど、今私がこのキーボードを打っている、打鍵している意志の手前の意志によって、または環世界によって既に終わっていなければ可能ではないことなのである。更に例を挙げるならば、物を動かすエネルギーによってどれだけの距離を移動するかということが、環世界と共に規定されている。実際に物がその距離を移動し終える前に、エネルギーを加えた瞬間に決まっている。そのようにして人間の意志を含むすべての物理法則によって動く前からすでに動いている、ちょうどピンボールのように弾き出されている。そうやってはじまりのはじまりのはじまりの...というように無限に退行してゆく。広く言われている決定論が責任の概念を回避し得るという理論はこれである。ラプラスの魔物もここに属している。これに乗っ取るのならば始まりは既に終わっている。それでもなお、現存在の自由というものがあるとすれば、未だその瞬間がまだ実際に結果していない、という現在地点においてのみ、終わっていないという地点においてのみ、担保されているのである。故に現在という時間は、現存在にとってのみ全く何者にも規定されていないのである。いや規定されているが、現存在はそれを知り得ないということに規定されている。

 

では、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」

 に対する、私のこの記述に対する同意は、同じように現存在の観測者の憶測の域をでない。

 

世界は等の昔に終わっているが故に、何も始まっていない。

何かが始まっているのは勝手に存在者が誤解の上で始まっているに過ぎない。

現存在は何処までも非-知によって守られているに過ぎない。人はそれを可能性と呼んでいるに過ぎない。

 

 

何故私は「に過ぎない」というのだろうか。 

何故、ハイデガーが、「存在」と「思考」という形で対立させたのかそれがわかるだろうか。

 

Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?ということしかできない現存在の全体性において。この全体性は現-存在として発することしかできないという地点において。つまり、(世界-内-存在)の全体性において。