内的体験

バタイユの内的体験について、もう少し沈黙されなければならないような気がされたため、エントリーは取り下げられた。いかんせんここに書かれた不十分なある問いが発せられた地点は、読まれたのがそこに差し掛かったところであったためである、ということが赦されるかは別として。兎に角、今漠然と去来されたのは、恐るべきエネルギーでこれが書かれたであろうということである。これが読まれたとき、人称を破壊するために書かれた書物のように思われた。

ここでこの文章からなんらかの違和感を感じとられたならば、それはこの書物を読まれた結果だと思っていただければそれは概ね正しく、また、常々の思考が考えられたことと符合された結果でもある。繰り返されるならば、これが読まれたとき、存在を破壊するために書かれた書物のように思われたということである。

 

 

敢えてここでデリダを参照されたが、デリダは殆どそれに達している。

微妙なニュアンスの中でなお、それは”すでに”到達されているといってよい。