Le 9 septembre 2017

 

アーレント研究会 第16回大会

シンポジウム 哲学と政治

   -フランス・イタリア思想におけるアーレント

Le 9  septembre 2017

慶應義塾大学 三田キャンパス 西校舎519教室

  

 

ハンナ・アーレントについて殆ど知識がない。

学者でも元学徒でも何でもない一般人の雑感故、「間違っている死ね。」と言われればこの記事を消去します。

 

3者と聴講者から発せられたものについて、あるいは空間による、雑記。

 

s氏が引っ掛かったといっていたリクールの留保。活動の「多数性」の免れなさ。

 

 

ある人々が活動し、別の人々がそれを被る(que les uns font l'action et que les autres la subissent)ということを含意している 。人間とは、行為者であると同時に犠牲者でもあるのだ(Les hommes sont à la fois des agents et des victimes)

 

k氏がナンシーを引用するように

 

アーレントが「人間の複数性[pluralité humaine]」についての考察によって行った、特異な寄与を思い起こさなければならない」……

 

※考えるという行為の複数性...

「人間の多数性(human plurality)は活動(action)と言論(speech/parole)がともに成り立つ基本的条件であるが、平等(equality)と差異(distinction)という二重の性格をもっている[……]人間の多数性とは、唯一存在の逆説的な多数性である」

 

権力(power/pouvoir)ではないものとして、非-暴力(non violence)としての、善としての活動(action)を称揚することにすべてを乗せることは、善そのものが問われない以上は、難しい。善はつまり真理としての絶対性を認めていることにはならないだろうか。期しくも、アーレントが嫌った意味での哲学的な真理の絶対性と何か異なるだろうか。活動(action)は解体され続ける。日常の対話以外のそもそもの人間が複数いるということ、誰かに差し向けつつ、差し向けられているという”人間の複数性”(アーレント)状況、もっと言ってしまえば一人の人間が現実に存在しているということだけですでに暴力である。さらに加えて暴力存在も同様に暴力に要請されている。という二重の構造になっているといってよいと思われる。それは存在者の構造上、つまり存在の根源としてそういった構造を持っていると言わざるを得ないように思われる。

つまり、ナンシーのいうような「またひとはけっして共同でしか「一つの声」(一つのエクリチュール」)たりえない。

 

特異性のなかで、共同体の文学的体験 -つまり与えられ、賭けられ、誓われ、捧げられ、分有され、放棄された、エクリチュールの、声の、ことばの、「共産主義的」体験- が生起する。ことばというものは、その特異性に応じて共同体的なのであり、共同体というおのれの真理に応じて特異なのである。    

            無為の共同体 / ジャン=リュック・ナンシー  以文社  p134

 

 

従って、それぞれの存在者の最大の"コナトゥス"を"共現前"させることでようやく世界に耳が付けられるだろう。仮にそこから、どんな手や足が付けられるかは、そしてそれらがどのように駆動するのか、何を話し何を聞くのかはやはり同様にわからないと言わざるを得ないが、それでもなお、またk氏と同様に、kk氏のいうような各存在者のなかでの自己欺瞞、自己自身への嘘を辞めること。哲学者としての内在性、two in oneとしての”1”を各人が徹底する以外にないのではないか。

そこにようやく<意見-真理>の"-(空間)"、2(dual)としての1が、世界として現れるのではないだろうか。という以外には。それは決して、全体主義-内在主義に回収されないような場としての。ともかくとして、この3名の登壇者は各々の"外の中"で一致していると思われる。というのは、存在者の暴力性つまり、複数性(一者における”根源的”な”人間の複数性”)を経て、ではどうするかという点である。ナンシーのいう(複数単数存在)として、それからどのような救済の技法がありうるか、或いは3(Trinity)として思考することの可能性。生成される場そのものとして。

 

k氏のいうように「問題は存在(être)の前置詞」である。

 

ともかく、”存在者の根源性(形而上学)”と”政治における決断"の間で振動しているように思われる。それは死に臨む一者の存在と変わりがない。変わりがないとすれば待機・留保でさえも決断であるような決断が下されざるを得ない。複数性を分有する決断。ここを掻い潜るための、実際の、実践の、となるとたちまち、存在者の根源性へと回収されざるを得ないような複雑な構造をなしているが故に、この問題はいつまでも一層困難であるように思われる。

 

そうするとサルトルが出てきてもよいのではないかと思ったが、サルトルは出てこなかった。アーレントサルトルを嫌っていたらしい。しかしなお、この問題はサルトルを引き出す必要があるように思われる。あるいはハイデガーのいうsorgenとしての。