堕落論 /坂口安吾

 

4.5年前くらいに書いた堕落論についての所感が発掘されたので微妙に修正して載せておこうと思う。

 

坂口安吾堕落論を貫いているものは「それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。」ということであり、社会的秩序、伝統、流行といったある種の固定概念的な枠の押しつけがましさに対する、坂口安吾の抵抗であると考える。そういった枠が我々に降りかかるときにどう生きるべきか、ということがこの堕落論ということになるだろうと思われる。
秩序や伝統というものの枠に収まるとき、人間の進歩はないと考える。さて伝統という枠が今現在の状況に耐え得るかということである。それは太宰治が戯作者であるときに、優れた作品が生み出されたと考え、宮本武蔵が勝つために(つまり生きるか死ぬかに於いて生を選び貫く為に)は、現在まで殆ど形を変えずに受け継がれてきた伝統という枠がいつまでも社会に生きる上で適用できるか、または現在に於いてもそれが有効か、ということである。その既存の枠を常に疑い、坂口安吾堕落論というまた別の枠を作り上げる。坂口安吾の“堕落“という言葉には世間一般の常識から見れば堕落であろう、というある種の皮肉が含まれていると思われる。人間は堕落する生き物であるがそれを社会や政治に向け、その所為にするのではなく「自分自身を発見し、救わなければならない。」ということである。坂口安吾の眼には、社会が個人の上に乗っかっているものとすれば、余りにも個人が社会の考え方に飲み込まれ人間本来の自我が消え去っているように見えていたのかもしれない。そして、社会と自己の間に家族という共同体が存在する。つまり共同幻想から、自己への堕落の過程として、坂口安吾は家庭を持つことで一つの足場を獲得したのだと思われる。坂口安吾は家庭を持つということが「実際は美徳よりも悪徳にちかいものではないかという気が、私にはしてならなかった。」と言っている。しかし、坂口安吾はその後結婚し子供を授かる。彼が嫌悪していたものは社会的な道徳的秩序であり一般的な常識である。それを守り通すことが美徳という古来よりの伝統を嫌悪していた。彼にとって結婚するということは、制度上で測られるような問題ではなく、そういったものを規定されることを拒んでいただけのように思う。制度によってその愛という感情を量或いは質化することを拒んでいたのだと思われる。何故なら、「私は決して家庭が悪いと断言しない。断言できないのだ。」と言っていることからも明らかであり、そして「もし、家庭というものに安眠しうる自分を予想することができるなら、どんなに幸福であろうか。」、「スタンダールの墓碑銘の『生き、書き、愛せり』ということが改めてハッキリ僕の生活になったのだ。だが、愛せり、は蛇足かもしれぬ。生きることのシノニイムだ。もっとも、生きることが愛することのシノニイムだと言っていい。」という文面からも推察できる。そして結婚しようがしまいが「絶対だの永遠の幸福などというものがあるはずはない。」ということを知っていたからである。故に、彼自身が結婚したということはそこに幸せがあるだの不幸があるだのどちらをも全て引き受ける力、覚悟の現れが見える。「実際の生活が根を下ろしているかぎり」美徳なのである。美徳は幸不幸を超えている。「僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるがゆえに、また、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのである。この孤独は、あに独身者のみならんや。魂のあるところ、常に共にあるものは、ただ、孤独のみ。」独身状態の心境は彼自身が一番よく知っていたであろう。結局はどちらにしても孤独なのだ。坂口安吾は孤独の先、孤独の根底にあるものの話をしている。

「私は生きているのだぜ。さっきも言うとおり、人生五十年、タカがしれてらァ。そう言うのがあんまりやさしいから、そう言いたくないと言っているじゃないか。幼稚でも青くさくても、泥くさくても、なんとか生きているアカシを立てようと心がけているのだ。年中酔い通すぐらいなら、死んでらい。」という言葉に坂口安吾の太宰に対しての思いが含まれている。太宰治はこれを酔わずに言うことができなかった。言えたとしても赤面逆上するのだと。この上記の文体は坂口安吾の言う戯作者としての、また立派なMCとしての遊び心的なものであると思われる。そして、「私は年中酔い通すぐらいなら、死んでらい。」というのは忘れたい過去や不幸というものを背負ってでも虚弱に負けず生きて欲しかったという孤独な人間にしかわからない、坂口安吾のメッセージであり、それは我々に対するものでもあるのだと思われる。つまり、孤独から来る(虚無主義‐フツカヨイのMC‐救われぬ)に溺れるのではなく、それでも必死に踠き続けなければならない。それが坂口安吾の言う“強靭なMC”である。酒の力を借りずに自分自身の眼で見続けるということだ。決して小林秀雄的なものではない(とはいえ小林秀雄とはここで書かれているような人ではないように思うが)。

自己と世界の関係について坂口安吾は「終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、みずからの不可解な限定とその不自由さに気付くであろう。」「政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。天皇制というカラクリを打破して新たな制度をつくっても、それも所詮カラクリの一つの進化にすぎないこともまぬがれがたい運命なのだ。人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される。」そして自己と世界のあるべき関係に於いては、次のように述べている。「我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何者かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。」それはどうしても自己のみでは生きては行けず、意識的にも無意識的にも人間は個々の人間の関係にも制度を見出してしまう。それらの”関係”が常に私に付き纏っているのがそもそも人間なのであるということである。制度が存在し、それを堕落という審美眼でもって破壊し、そして再び制度という母胎を再生し続ける。現在の私という主体が”堕落し続ける“(常に人間自身に還り続ける)ことが必要である、というのがこの堕落の意味だと考える。それは力強い底なしの堕落であり、”関係の回復”の唯一の道である。堕落とは愛による”関係の回復”なのかもしれない。