日常性2

 

サルトルの『存在と無』をパラパラとめくる。これを前にして、なお何か言うべきことなどあるだろうか。僕の考察はこの本の手前で座礁するのではないかという恐れ。これを読んだあとに何が残るというのだろうか。この感覚はマリオンの『還元と贈与』を読んだ時の感覚と同じだ。もうそれ以上先を読みたくないほどの鮮明さを持って、僕の前に立ちはだかった。これらの敗北を感じているというこのことは、ただ僕が哲学に詳しい人、哲学の学をやる人、博物学的な平易さであることを拒絶していることの証左になる。でなければ敗北など感じるはずがない。初めから無謀な賭けだったことはわかっていたし、わかっていたつもりだった。言葉が消え去ろうとしている。なおこの後に語るべきことがあるだろうか。誰かが、あなたは正しかったと言ってくれるまでは、私は語り続けなければならない。どのようにかして終わらせなければならない。だからもっと大きな問を呼び込まなければならない。僕には現状それが何なのか、わからない。それは一つの無知を呼び込むこと。でなければ書くことなど可能であるはずがない。しかし、およそどちらも思い上がりであり、欺瞞ではないか。わかったと思うこともわからないと思うことも。幸福であると思うこと不幸であると思うことも。すべては連続性の一断面にすぎない。だが、サルトルのいうように、連続性に無が射しこんでいる。「自由の刑に処せられている」とはそういう意味である。処刑の中にしか自由はない。つまり、結局のところそれすらも連続性の中の出来事に過ぎない。ただ知らないのだ。現存在は世界に解消され得ないとはこういう意味なのだろうか?未だ僕は決定論の中にいる。読解の才能の問題なのかもしれない。僕にはその才能がない。僕はこの円環から出ることはないだろうという確信がある。誰一人として、この連続性の中で純粋に孤独である人間など存在しない。故に人間に純粋な優劣などありはしない。誰一人として純粋意志を持っている人間など存在しない。わからない。すべてはどうでもいい。欺瞞だ。初めから言うべきことなどありはしない。この射し込む無が消えてくれたならどんなによいだろうか。

 

ひとまずの課題として、昨日の件を解消すること。マリオンのいうフッサールの論理学研究におけるデリダハイデガーの視線の差異。つまり、第一研究と第六研究との差異を精読すること。ひとまず、論理学研究の1~4はすべて手元に揃った。そして『存在と無』を。

 

ブランショが"光"に対し、こんな視線を投げかけている。

 

おそらく光そのもののうちにこそニヒリズムは身を隠しているからだ。光は照明する、ということはつまり光は自らを隠すという意味であり、そこにこそ光の皮肉めいた特徴がある。光は照明する。照明されるものはひとつの直接的=無媒介的な現前性のうちに提示されるのだが、そういう直接的現前性は自分を明白に表示する(マニフェステ)するものを[覆いを取って]あらわにすることなしに、自らをあらわにすることなしに、自らをあらわにする。光は自らの痕跡を消してしまう。見えないものである光は、見えるようにする。光はダイレクトな認識を保証し、充満した現前性を確かなものとするのだが、その一方で、光は自信をダイレクトならざるもののうちへと引き下げ、自分を現前性としては廃棄してしまう。それゆえ光の行う欺瞞は、ある種の不在、つまり輝きを放つ不在のうちへと隠れることだろう。この輝きを放つ不在はどんな暗さよりもはるかにいっそう暗いものである。

 

光が見えることなどありはしない。存在とは光であり、不可視であるという意味で無であるところの全連続性である。