Sortie de l’existence

神は予め世界から退去していなければならない。

 

ブランショの『終わりなき対話Ⅱ』において、語られるシモーヌ・ヴェイユは『重力と恩寵』からの引用は殆どなく、『カイエ4』、『神を待ち望む』が大半を占めている。ブランショヴェイユを語るのは、この『終わりなき対話II』の『4.断片(欲望・不幸)』にあるように、キリスト教的解釈、または宗教的解釈から、神秘的なものから、引きはがすことを目的としている。つまり、宗教でもなく思想でもない、世界そのもの、存在そのもの様相が語られていると考えてよい。それはこの二人(ブランショヴェイユ)がどんなに神の名、または宗教的用語を使って語ろうともそれはそうなのである。

 

「この瞬間から神はもう何もする必要がない。私たちも同じだ。ただ待つこと以外に。」というヴェイユのこの言葉について、ブランショは「ここですら、シモーヌ・ヴェイユが可能なかぎり神の特別な介入をなくすようにしていることが見て取れる。神への不可能な接近を可能にするために、神の影響をなしで済ませようとしていた。それは人間の力に過度の信頼を寄せていたからではない。正反対である。」といっている。ブランショは続けて「機械的必然性が支配し絶対的に神を欠いている世界が、この空虚自体の純粋さによって神の本質にもっとも近いものであるのと同じように、私たちのなかで自然であるものは、私たちがその重みに耐えることに同意するかぎり、超自然に反転する準備がいつでもできている。」ここでブランショが用いている”機械的必然性”という言葉は、ヴェイユに沿って、"神の介入なしで”世界の様相、存在者の様相つまり存在それ自身を語ること、因果性について語っている。ここで私は『重力と恩寵』における、冒頭を引用したいと思う。

 

たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外されている。

 【重力と恩寵 / シモーヌ・ヴェイユ

 

”恩寵だけが、そこから除外される”と言っているときのヴェイユは多分存在者の側から話している。その上の「たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている」は世界そのものの既決定性から話されている。この重力の既決定性の上でなお、恩寵があり得るのは、というのも変な言い方ではあるが、未だ到来していないという、予持の現在の未達・誤配、予持がいつまでも作動し続けるためである。また、ブランショが『13.時代の変化について』の中で、ニーチェを引用し、「私は未来についての”不確実性”を愛する。」「私は未来についての無知を愛する。」「最高度の欠如の力へと差し出された来たるべきもの《l’à-venir》があるのだから。」の現在における非到来性に見ることもできる。次の現在への予感が存在者に既にある。それは、「無知へのこうした欲望にとって、無知は自らを欲望とする。この欲望は忘却が迎え入れる期待であり、期待がそのなかに入り込むところの忘却である。永遠の円環[annulus æternitatis]「<すべて>が回帰する」ことへの欲望は、それだけで、始まりも終わりもなしに、欲望を回帰させる。」

『6.ニヒリズムについての考察』の中で、”不確実性”を正しく解釈しなければならない。「偶然に左右される予測不可能なもの[alétoire](ただし、偶発的なもの[fortuit]ではないもの)」の[alétoire]として読むべきである。重力の上でなお存在者は未だ恩寵の到来[alétoire]がある。この世界にあるものは [alétoire]であり、[fortuit]ではない。ヴェイユの「重力 ― 一般的に言って、わたしたちが他人に期待するものは、わたしたちの中に動く重力の借用によって決められる。また、わたしたちが他人から受けるのは、他人の中に働く重力の作用によって決められる。ときにはこれが(偶然に)一致することがあるが、多くの場合一致しない。」における”偶然”は、[alétoire]の意味においてある。9.限界-経験において、ブランショバタイユを参照し、終わっていることの”可能性”が論じられるのは[alétoire]のうちでの出来事である。粒子への解体とでもいうべきバタイユの存在者の棄却。バタイユが限界に向かって思考するとき、ヴェイユと出会うのはこの点である。このときヴェイユのなかで何によって駆動しているのか。”多くの場合一致しない”によってである。バタイユが非-知によって駆動するのと同じくヴェイユも同様に、この欠如によって駆動する。何故この欠如があるのか。

 

 

神は神としてのその全能を放棄したし、自らを空にした。私たち人間のささやかな力を放棄することによって、私たちは空虚のなかで神と等しくなる。

 

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

神は一個の存在者であることを放棄したのである。ここでヴェイユの神の概念について、ヴェイユを引用しつつ、イツハク・ルリア(イサク・ルリア)の神の世界からの退去を語っているとブランショは言う。「事実、十六世紀の聖人かつ深遠な思想家であるイツハク・ルリア(その影響は大であったと誰もが知っている)こそが、昔のカバラの考え(「ツィムツーム」)を解釈しながら、創造に神の捨て去る行為を認めたのである。…神は創造しながら何かよけいなものを置くのではなく、まずは何かを不足させるのだ。無限の<存在>は必然的に全体である。世界が存在するためには、無限の<存在>は全体であることをやめて、世界に場所をあけなければならない。それは後退や退却の動きを通してであり、「いわば自身の内側のひとつの領域、一種の神秘的な空間を捨て去ることによってである。」言いかえれば、創造の本質的問題は、無の問題なのだ。…..それは犠牲、収縮、制限によるものであり、自分である全体から退去すること、消失するとは言わないまでも自分を消し去り、不在のものとすることについての、神秘的な同意によるものなのだ。(まるで世界の創造や世界の存在が神から神を立ち退かせ、神を神の欠如にし、それゆえ派生したものとして一種の存在論的な無神論が生じるかのようである。この無神論は世界それ自体とともにしか廃棄されることはできないであろう。世界があるところでは、痛ましくも神の欠如があるのだ。)」

 

仮に”この世界”に神があるとすれば、それは存在の全体性<必然>にしかないだろうと思われる。これはアリストテレスのいう”不動の動者”に近い。歴史の中で”不動の動者”は”存在”という語に置き換えられた。神の外としての”外立”、”実存”(エクゼステンティア)を成すものとしての”存在”として。よってそれはただ”ある”のである。この地点で存在それ自身は最早肯定するとか否定するとかいう次元にあるのではない。ブランショが13.時代の変化について-回帰の要請-で語ったことは、このような存在者の状況になおも「唯一のひび割れである。”けっして”」に既に投じられ続けているという状況にある。この切断。無が射し込むこと、時間の切断、としての幻影が現れる。そして存在者はこの幻影から出ることがない。例えば、それが幻影だと知ったところで、その幻影を排除することができないように。病気の原因がわかっても病気が完治することとは遠く隔たっているように。神は不動の動者として世界として臨在しているのであって、神自らの退去によってもたらされた空間を埋める。神はなんらかの存在者であること、一個の人格を断念したが故に神なのである。その神の欠如は人間における神の不可視性によって保たれる、あるいは神と人間の断絶において、存在者の未だ到来しないものとしての来るべきものとして、神が現象するのである。ここで私はマリオンが存在に先行するものとしての「呼び求め」を提出したときと殆ど同じものを見ているだろうか。声を聴くもの、「不意を突かれる者」として。私はすでに呼び求めによって私を”「“私を”の地位に任命されている者」としての存在者である。存在を可能にするものとしての「呼び求め」を聞く者。存在者とは存在の出口(Sortie de l’existence)に召喚されたものに他ならない。つまり、出口の途中に介入できないもの。声の中に戻ることを禁止されているものとして人間とは非力なのである。そしてこの存在と存在者の隔たりの中に意味が介入するのである。なぜか。存在とは”無“ではない。存在の上に”無”というベールが被さっているがゆえに”不可視に既に在るもの”はつまり、欠如として既に到来している。

 

【問い】

 

存在者と存在を自明のように区別しているが一体何が自明なのだろうか。これは長い間、「存在論的差異」と呼ばれるているものである。そしてこれらは一貫して現在に至るまで「存在の問い」から放たれている矢である。何かがある。であれば、何かがあることの原因がなければならない。それが”存在”というただ一言で受け継がれてきたことである。存在者。これは現在において、何かがあるというときそれは名指しによって存在者として任命される。しかし、名指される前からそれは在るのである。例えば、眼の前にあるコップがある。このコップは3秒前もコップである。無論、このコップが作られたときから変わらずに(傷などの損傷はおいておくとして)コップである。さらに3秒前のコップ(存在者)は、現在のコップにとっての存在の一要素であるだろう。であるならば、コップは存在者でありつつ、存在でなければならない。コップでありつつ、既にコップであるにも関わらず、コップにならなければいけないもの。つまり、時間概念の導入によって、というよりは認識によってのみ、存在と存在者とは区別され得るだけである。「"コップ(存在者)"が"ある(存在)"」の”ある”が存在であるならばそれは名指すこと(留めること)で、つまり名指すことが存在から存在者を区別するのではないだろうか。物体だからわかりやすいという意味でそうしているだけであり、コップからそれを区別するものなどそもそも存在しないのではないのか。“存在”が、それがそうであるようにしている全てのこと、であるならば、その全てを”存在者”、ということも可能であるはずである。しかし、我々はそれを一個の何かとして保存することが出来ない。というよりは挙げるときりがない存在の存在性たちは、現在においてすら、その存在者と、何は関係があって、何が関係がないのか、の判断(裁断)は殆ど不可能であり、そうしたその都度の命名(すべてを命名すること)はすべてを差異化することで、全くの非-意味的な記号にすぎないからである。つまり存在者の前に存在があるということを一旦おいておくとしても、存在/存在者の区分というものが在り得るのは現存在の規定によるものではないのだろうか。つまり認識が現在に依存せざるを得ないのと同様に、認識とは存在者を任命するための亀裂を入れるための道具であるように。従って、全てはどちらかである。存在しかこの世界に存在しないか、それとも存在者しか存在しないのか、である。そしてこれはどちらも同じことを指しているに過ぎない。おそらく断言しなければならない。世界にあるものは、時間と空間による生成変化だけであり、それをその都度捉えて、何らかの意味を介入させ、なんらかの法則を見出し、愛という言葉で語られるそれらは、全て、存在なき存在の戯れであると。そして人間だけがそこに何等かの意味を見出す(してしまう)のだと。神が消し去ったものがあるとするならば、人間において、病にでもかからないかぎり、意味が消えうせることが絶対にないということである。それは死はこの生の中にない。という意味で、死が特権的な地位をもたないものである。我々は終わりなき駆動する記憶である。

 

「存在の出口(Sortie de l’existence)に召喚されたもの」としての存在者は一体誰に、召喚されたのか。先ほどのコップの例を取るならば、その都度召喚しているのはこの私に他ならない。そして、現存在は誰によって、呼び出されているのか。これも同様に私、ということになるだろうか。そうではない。私は私自身、何ものかによって呼び出されているのである。全てはそう名指すように既に呼び出されているのである。その時この呼び求めは最も高貴な神性として現れる。この声は一体誰の声か。

マリオンが存在/存在者に先行するものを見たものと同じものを見たと言ってもよいだろうか。贈与。愛。存在に先行する「呼び求め」。或いは、

 

ヴェイユに戻ることにしよう。 

ブランショが引用した、ヴェイユの言葉とその先の少し。

 

 

「完全に神を欠いたものとしての世界は、神自身である」

 

重力と恩寵 /シモーヌ・ヴェイユ

 

 

「捨て去ることで神は私たちと別れるのだが、この捨て去りは私たちを愛撫する神のやり方である。私たちの唯一の悲惨である時間は、神の手からなる接触そのものである。それは神が私たちを存在させる放棄である。」

 

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

 

神はわたしを存在の外見をまとった非存在として創造した。自分の存在だと思いこんでいるものを愛によって放棄し、わたしが虚無から抜けでることができるためである。

そのとき、もはや「わたし」はない。「わたし」は虚無に属している。しかしそのことを知る権利はわたしにはない。もしわたしが知っているなら、放棄する意味すらなくなるだろうからだ。わたしはついぞ知ることはないだろう。

他のひとびともまたかれら自身にとっては存在の幻影でしかない。

このように考えることは、人びとの存在の実在性を損なうどころか強めるのである。なぜなら、かれらを彼ら自身とのかかわりでみているのであって、わたしとのかかわりでみているのではないからである。

 

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ