日常性4

 

仕事は順調といえば順調。休み、先日某お手伝いをしましたが、あまり役に立てなかったような気がします。楽しかったことを幾つか伝えたけれど、何よりも会えたのが一番うれしかったのだ。それだけで。最近はあまり本を読んでいません。岩波文庫からフォイエルバッハの『将来の哲学の根本問題』が出ていたので買いました。時枝誠記の『国語学史』も出ていましたが、見送りました。今月はたくさん買い物をしました。机。焦げ茶色の。白い本のページが映えるので、とても気に入っています。黒でもよいのですが、やっぱり机は木製の焦げ茶色のものがよいです。黒は少しあたたかくないので。日の光で焼けたり、擦れて薄くならないようにコーティングのようなものを施した方がよさそうだな、という感じですがまだ検討中です。組み立てるのは結構大変でしたが、プラモデルを作っているみたいな感覚で楽しかったです。とてもよくできました。使っていた机の幅が80cmだったのですが、本を置いたりパソコンを置いたりするとすぐに沢山になってしまうので不便をしていました。新しい机は100cmあるので快適です。欲を言うと120cmくらいあると便利かもしれません。椅子も買いました。8年くらい使っていたのですが背もたれが壊れてしまったので。それとコートを買ったり、スーツを買ったり、リュックを買ったり。なんでこんなに買い物してるのか。寂しいのかもしれない。くだらない。僕は幸せになるべき人間でもないし、そうあってはいけないのだ。幸せも不幸もどうだっていい。全てはあるべきところに収斂する。ただそれだけ。友人がランダム性のつまり、偶然性の話を、カオスがあるというようなことを話してくれましたが、それは少し違うと思っています。実験のし過ぎ、精度が低いだけに過ぎないと僕は思います。僕の哲学的命題はとっくに終わっていたのだと思う。結論を覆すものは何もないと思っています。このことに気づいたときにはもう終わっていた。あとは都合のいいようにつぎはぎして自分の論を固めていくものに過ぎなかった。何もなかった。そんなのは4年も前からわかっていた。何を読んでも変わらないだろうという確信がある。久々に家にあったル・クレジオの『物質的恍惚』を開くと黄色い線が引かれていた。自分が4年前に引いた線。

 

 

ぼくが存在しているのは、何百万もの人々がぼくのまわりに存在し、かつて存在した―これからやって来ようとする者たちのことはさておき―からにすぎない。そのことは観念というようなものではない。現実の一片、現実の単なる一片なのだ。彼らにこそぼくはすべてを、文字通りすべてを負っている。ぼくの名、ぼくの住所、ぼくの鼻、ぼくの皮膚、ぼくの髪の色、ぼくの生命と最も秘かな思考、ぼくの夢、そしてぼくの死の場所と時間さえも。     

                                『物質的恍惚 』/ ル・クレジオ

 

 

何を感じ、どう思うか、楽しいと思ったり、悲しいと思ったり、どうだっていいと思うことすらも、何も思わないことすらも、これを今こう書くことも、正しかろうが正しくなかろうが、全てはこの現在がやってくる前に既に終わっている。人生なんかどうだっていい。ただ、僕以外の全ての人生が幸せであればよいと思っている。