『論理学研究』エドムント・フッサール_序論_(1)

 

備忘録ということを踏まえて簡潔に書いていければと考えている。タイトルにあるように、ここでは『論理学研究』の序論で語られていることの概要をまとめていこうと思う。まったく個人的なことではあるが、最終目標として、ジャン=リュック・マリオンの『還元と贈与』への理解につながればと考えている。ゆっくりやっていこうと思う。このペースでやったら一生かかりそうですが、生暖かい眼で見守っていただければ幸いである。

 

■原典

エドムント・フッサール(1968)『論理学研究』(立松弘孝訳) みすず書房

 

 

『論理学研究』の序論は以下の3つで構成されている。

・第一節 論理学の定義とその諸理論の本質的内容とをめぐる論争

・第二節 原理的諸問題を改めて究明する必要性

・第三節 論争問題。取るべき道

 

■ 第一節 論理学の定義とその諸理論の本質的内容とをめぐる論争」

フッサールは、以下のJ.Sミルの『論理学体系』を引用し、"論理学"が抱えている問題の呈示から始める。

 

「多くの著者が論理学の定義に用いた方法や論理学の細部の論じ方には、彼らの間に大きな見解の相違がある。このようなことは、異なる観念を表現するのに同じ言葉が用いられているような論題については当然予想されることである。」

 

フッサールは現状の"論理学"がJ.S.ミルの時代の"論理学"が同じ姿であるとはいわないと留意しつつ、未だ解決に至っていないというのがここでのフッサールの見解である。

 J.S.ミルの『論理学体系』が世に出たのは、1843年であるから、フッサールの『論理学研究』(1900年)との間は50年以上に及ぶ。

 

続けてフッサールは"論理学"について、三主要傾向として”心理学主義的”、”形式的”、"形而上学的"の3つを挙げる。問題となっているのは、"論理学"とは何かという未だ定まらぬ定義と論理学の射程である。この3つの陣営でも一致しないこと、また、最も活発であり多数である、心理学主義的論理学についても、この学内での目標と方法が示されるに留まっており、"論理学"とは何か、という統一的な見解、としての"現代論理学"は未だに解答がない、というのが、この『論理学研究』の序論の「第一節 論理学の定義とその諸理論の本質的内容」である。

 

これらを受けて、「第二節 原理的諸問題を改めて究明する必要性」に続く。

 

■第二節 原理的諸問題を改めて究明する必要性 

論理学はこのように個人的な確信と、一般に承認せざるを得ない真理とを区別できかねる状態にあるので、原理的な諸問題への帰還は依然として常に新たに着手されるべき一つの課題である。 

 

フッサールの関心は"論理学"とは何か、また、"個人的な確信"と"一般に承認せざるを得ない真理"の<差異-非差異>というところから開始されている。

 

そして、フッサールは論理学のこうした現状から、学問へと領域を広げ、こう語っている。

 

ところである学問の諸目標の捉え方はその学問の定義のうちに表現されている。勿論ある学科の実り多い研究にはその領域の十全的な概念規定が先立たねばならない、と言うつもりはない。ある学問の種々の定義はその発展の諸段階を反映するものであり、学問と共に、その諸対象の概念的特性の認識やその領域の限定と位置づけの認識も、学問の発展につれて進歩するものである。しかしその逆に定義の適合度や定義に表明される領域の捉え方の適合度も学問そのものの歩みに影響を及ぼすのであり、この逆影響はそれらの定義が真理から逸脱する方向に応じて、学問の進歩発展に大小さまざまな影響を与えうるのである。

 

フッサールはここで何らかの<絶対的/客観的/真理的な"学問">を想定していることは間違いないように思われる。

 

一つの学問の領域というものは客観的に完結した統一体(eine objektiv geschlossene Einheit)であり、真理の領域をどこでどう限定するかは、われわれの恣意にゆだねられてはいない。

 

 しかしながら、学問の射程または、それを捉える際になお間違える可能性というものがあるがゆえにフッサールはそこへ到達すべくなすべきであるというのがフッサールの見解である。

 

■ 第三節 論争問題 取るべき道

 

まずフッサールは「論理学の限定に関する伝統的な論争問題」を4つあげたうえで、それを批判し、一つの方法を選ぶ。

 

(一) 「論理学は理論的な学科であるのか、あるいは実用的な学科(<<技術学 Kunstlenhre>>)であるのか。 」

 

(二) 「論理学は他の諸学から、特に心理学や形而上学から独立した学であるかどうか。」

 

(三) 「論理学は形式的学科であるかどうか、換言すれば、通常理解されているように<<認識の形式のみ>>を問題にするのであろうか、それとも認識の<<質量>>をも考慮すべきであろうか。」

 

(四) 「論理学はアプリオリな論証的学科の性格を有するのか、それとも経験的帰納的学科の性格を有するのであろうか。」

 

フッサールはこの論争に参加することが目標ではないとし、「しかし、本来ここには二つの党派があるのみである。」としている。

 

(一) 論理学は心理学に依存しない理論学であり、それと同時に形式的論証的な学科である。

 

(二) 論理学は心理学に依存する技術学であり、したがって論理学が、反対派が模範とする算術学と同じ意味で、形式的論証的学科の性格を有するというような考え方はおのずから排除される。

 

ここでフッサールが選択したのは、(二)である。

 

現在殆ど一般に承認されている技術学としての論理学という規定を出発点として、その既定の意味と権利を確立することにしたい。当然それにはこの学科の理論的根拠についての、また殊に心理学に対する関係についての問が結び付いている。

 

 序論の最後にフッサールは、

 

この点に関するわれわれの研究成果は<学問的認識のあらゆる技術学にとって最も重要な土台を成し、アプリオリな純粋論証的学の性格を備えた、新しい純粋論理学>を析出したことである。これこそ、カントその他の<<形式的>>ないし<<純粋>>論理学の代表者たちによって志向されながらも、その内容や範囲を正しく把握され規定されなかった学問である。

これらの考察の究極的成果として、論争の的となったこの学科の本質的な内実に関する明晰に描き出された理念が得られ、またそれによって<提起された論争問題>に対する明晰な立場がおのずから与えられたのである。

 

 として結んでいる。『論理学研究』で見出された、 <学問的認識のあらゆる技術学にとって最も重要な土台を成し、アプリオリな純粋論証的学の性格を備えた、新しい純粋論理学>とはなにか。