日常性7

 

東京では久々に雪が降っている。今年はもう降らないかな、とここ数日呑気なことを思っていたら、帰宅命令が出るくらいには降った。ビルの窓から見える外の雪は斜線を引くように流れ、過剰からくる諧謔のように見えて笑うしかない。そうやって一先ず笑っていられたのも一つの路線を乗り換えるときまでが限界で、その線を超えてしまったと気付いたのは、私が車両に乗っている列車が輸送に手をこまねいていたときだった。情報が実感となった。つり革をあと何十分捕まっていればよいのだろうか。車内放送とインターネットによれば僕の向かっている先では、ホームで人が溢れているという。溢れているから到着できないという。当然、到着しても溢れるからだ。一駅、一駅、着いては数十分止まる。おそらく乗るタイミングが一番悪かった時間帯だった。幾つかある帰宅経路の中で最悪なものを選んでしまったと思った。今更乗り換えるのもなんだか癪で、ただ耐える。漸く噂の溢れたホームに到着してみると、線路に投げ出されてはいないものの、ホームへの階段は人が沢山。駅が地上なものだから、今日の風は屋根などお構いなし。僕らの頭上に雪を運んでくる。身体は冷え切りこんなに人がいても、いやそれゆえに、なんとも侘しい風景だった。とろとろと人を運ぶ、列車を二本見送り、ようやく乗れると思った頃にはもう、心身ともに草臥れていた。車内に詰め込まれると、草臥れた、なんて言っている暇もなく、我こそは、と押し合いへし合い、片手をつり革に掴んだまま、バランスゲームさながら、身体がよじれる。駅に着くたびに一度しまったドアが開き、また閉じて、また開く。酷いときには5回繰り返された。最寄り駅に着く手前でもう限界、腰が横に曲がった状態を維持しているものだから痛くてしょうがない。あと一駅が無限のように感じる。疲労だ。駅について一息つきたいと思って喫茶店に入ったが店員さんが言う。今日は閉店とのこと。気が付かなかった。どこもかしこもおかしい。本当に疲れているときは誰もが僕だけが一番疲れていると思ってしまう。何故なら本当に疲れているからだ。東京に住んでもう20年、残りの6年も東京ではないまでも都会であることには変わりがない。そろそろ都会を出たいとも思うが、これも同様に自分が一番疲れていると感じてしまうことと同じことならば、もうどこにも住む場所はないのかもしれない。今日も仕事。そんなことはお構いなし。西部邁が死んだという。吉本の時もそうだったが、いつでも一人の思想家が死んだということはなんだか寂しいことのように感じる。こんな時間に家の窓の外から見えるのは、ビルの外から眺めていたものとは全く違ったもののように見える。僕にとって今日の雪はそんな感じだった。それは虚しくもあり羨ましくもあった。