題未定_形而上学_2018_05_09

 

 ぼくが存在しているのは、何百万もの人々がぼくのまわりに存在し、かつて存在した―これからやって来ようとする者たちのことはさておき―からにすぎない。そのことは観念というようなものではない。現実の一片、現実の単なる一片なのだ。彼らにこそぼくはすべてを、文字通りすべてを負っている。ぼくの名、ぼくの住所、ぼくの鼻、ぼくの皮膚、ぼくの髪の色、ぼくの生命と最も秘かな思考、ぼくの夢、そしてぼくの死の場所と時間さえも。     

                                『物質的恍惚 』/ ル・クレジオ

 

《序》

全ては「私とはなにか」、あるいは「世界とは何か」ということについて書かれたものであり、過去の小さな堆積物を集めたものである。結論を言えば、私とは完全に他者であり、全てはただあるだけである。それは再我有化した私、再我有化された私、どちらの私も他者であるという結論である。従って、私は厳密に存在しているが存在しているように錯覚しているだけにすぎない。例えば、我有化(すること/されること)における、それは母である、などは、究極的に素粒子のとある集合(これも脱構築化される契機はある)として立ち現れた意味としての母、ということにすぎない。母の実在は従って母ではなく、実在として名前を持たない。つまり、実在は本来的に名前を持たず、意味は存在しない。同様に私も同じである。どんなものも私にとっての意味、として立ち現れる。したがって、一般的に言われている現象学はそうせざるを得ないし、それ以外の方法は存在しないという意味で正しい。更に現象学は方法論などではない。従って、これから述べるものも全て現象学の上で為されたものであり、また、或る何かによって書かれたものと考えればよい。

 

<私>というとき既に、<私そのもの>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私そのもの>というような<存在しないもの>についての問へとすり替わる。 <我>を考えるということは常にこの<我>から分裂した<存在しないもの>を立てることになるのである。母親の胎内から産まれたこの<私>という存在者は、<私自身>に根源を持つものではない。<私自身>が選べず、また親からもどんな子をというように選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける<私>。人間は生まれたときに根源を失って生まれてくる。母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、母親を失い、つまり根源<必然性>を失ってこの世に生を受けるのである。そして根源を失った存在者はまたしても、関係に支配される。<私そのもの>は常に凡ゆるものとの関係の中に支配されている。 個人の道徳観念や感情、思考、意志はすべて、これらの巨大な文化の前に押さえつけられている。この<強いられてあること>、<私は私から疎外されているという>という状況、(つまりここでは最早〈存在者そのもの〉ですら〈類〉でしかない)から<存在>を立てる。この<存在しない私>を立てることができるのは、<存在者そのもの〉が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているに過ぎない。 それどころか、それら自身が融和したものを再度受け取るようにして私は私しているといってよい。このように思うのも同様に意識が芽生えた地点からであり言語を受け渡され、五感が受け渡されてあるときからである。さて、こんなものが人間が一般的に不用意に便宜上使っている私の本来である。 つまり私そのものでしかないような私というものは最早存在し得ない。それは〈類〉である。神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。人間は根源を失った状態で関係<偶然性のように見えるもの>にひきずられている。

 

 

■偶然性と可能性の問題

人間が何故、偶然性を信ずることが、或いは自由を信ずることができるのか、或いは現象に対して何らかの意味を付与できるのか、と考えるならば、私はラプラスと同じように答えるだろう。それは知らないからである。もっと言えば、知っていたとしてもその瞬間がまだやって来ていない、という状態にあるからである。つまり、絶えず予期していることを裏切られる可能性を信ずることが可能だからである。と答えるだろう。このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。または半開的存在者。またの名を<私>という。

さて、こうして自己を否定していくことで行き着く先が死であるように、それと同じだけ世界の否定(対象のなさ)へ向かっている。死による存在の拒絶は存在”自身”の意味解除を果たすが、世界の側はその存在の意味を解除することができない。たしかに「彼はあった」と第三者は語るのである。存在の悲劇は自己の意思で生まれてきたのでないにも関わらず、死ですら正しくないということにある。死ですら全てを解除することにはならない。後悔は死後にはない、この後悔は死の直前、最後の一呼吸、それよりも短い最期の瞬間まで訪れる。しかし死そのものは決して私の存在の中”のみ”存在しない。誕生と死は世界の側にある。存在は世界と関わってしまった瞬間から、意味を互いに持ち始める。存在が重いのではなく、関係だけがブクブクと膨れあがる。「あの人はああいう人でした」(死者がどういう人間だったか)という回想がいよいよ畏まった形でなされる事態が葬式の際に発生するのは、自分を語るということに自分は出席できない、自分の終わりに間に合わない故にどうしようもなく世界の側から他者が語るのである。

存在は存在と世界の結果、変化し続ける"状態"のことである。従って、存在には既に始まりも終わりもない。意識だけが、存在と存在者を分離しうるにすぎない。果たして眼の前にある数秒前のコップは存在だろうか、存在者だろうか。

 

鞄の重さは筋力との関係の中で決定される。長い時間持ち歩き、鞄を手から離したときに起こる疲労、手の軽さ、震え。この手の震え(終わった結果発見される起こったこと)によってしか私は「重い鞄を疲労するまでに持ち続けていた。」ということを終わりの地点から発見するのである。私は重い鞄を現在持っているという時ですら、存在は現在から事象を発見することはできない。通りを走る車の現在位置から1メートル先、或いは数センチ、数ミリ等々、それは過去からアクセルを踏み続けている現在からほぼ決定されている。過去から、現在を素通りして、常に終わった現在から、現在を発見しているに過ぎない。私という存在者はいつも私に対して遅い。それはまた知らないことを常に残しながら勘違いしながら知ってしまっていくということである。これが存在者に残された可能性ということであり、延長ということである。「~をしている」、「~をする」というとき、観測者は(例え自分が今それを行っているとしても)その動詞つまり行為や意思そのものに対して遅れている。これは言語的に遅れているというより、もっといえば、そもそも人間というものが世界に対して遅れている。何処で誰のもとに産まれてそしていつ死ぬかということを決定することができない。そしてこの生きている現在、意思の存在は疑わしいものである。いつからか、何かを考えて実行することが出来るのだ、という認識にすり替わっている。人間が思考したり実行したりするということは、本来選ばれたあとに選んでいるに過ぎないのではないか。それを訓練によって或いは習慣化することで逆転しているように見せているだけではないのか。本来人間というものは、選択などしておらず、純粋な意味で人間に意思や感情など存在しないのではないか。あるのは”状態”、”行状”だけなのではないだろうか。人間の発見とは過去を、再認という形で発見し続けているにすぎない。そこにある些細なズレである最も重要な事象は、他性であり、常に理性を超えている。"全的に知ることなく経験しかできない人間"と、"経験することなく既に知っている神"は、永遠に交わることがない。故に恐らく両者ともに何かを自らの力のみで選んだことは一度もない。世界の他性。世界が他性であるならば、この世界のうちにある、この自己自身という存在者も他性であるに違いないのである。そこでむしろこの「”始原の喪失”から始まっているような形で存在している存在者」。このことにしか希望はない。”全的に知ることがなく、未だその時がやってこないというこの”半開状態”であるというこのこと。存在は他性の到来するそのときをただ待てば良いというのだろうか。仮に未だ透徹した視線が存在するならば、あまりに直観的にすぎる判断を下すならば、どんな思想もこの"前-存在論"または"非-存在論"とも呼ぶべきものを基盤としてしか現れることがなく、今のところこれ以上に遡行することができないものだと考えられる。一般的な存在論はこの基盤の上での遊戯にすぎない。しかし、何かを悲観したり、何かを楽観する必要も、最早ない。なぜならば、すべての存在者はこの遊戯が遊戯であるということを知ったところで、この遊戯から逃れることがなく、また当然、ここに記す全てもこの遊戯場で起こる遊戯に過ぎないからである。そしてともすれば存在論が世界論として現れるのかもしれない。だからこそ思想・哲学は、“これ以降“のという形で進展させようとするならば、形而下の出来事にすぎない。

 

 

■ジャン=リュック・マリオンと共に

※<私自身><前-存在者性>という概念は、<呼び求め>を発するもののことである。

ジャン=リュック・マリオンの『還元と贈与』の中で、<呼び求めるもの>ではな<呼び求め>としているのかについての感覚はここで掴めるものと思っている。また、なぜ、<前-存在者>ではなく<前-存在者”性”>なのかということについても同様である。私が何処からやってくるのかということについて。私という位相は、何故に特異な地点なのか。私が「私」というとき、名指すものがいつの間にか名指されているものになっているということであるだろうか。それは一方から他方へということが順番に行われているが故に、自己は分断し差異化するという意味で交わることがないということなのだろうか。これは言語のひいては思考の形式によるものの錯誤なのだろうか。または、自分の顔を直接に見ることが私にはできないというような意味なのだろうか。単に、分裂するという点で言えば、私といわずとも、テーブルだろうが、友人だろうが、常に現実存在そのものとして、事物そのものへ、という意味ではいつでも捉え損ねており、また過剰でもあるという点でこれらには差異がない。私が<私>というとき既に、<私自身>は<私>から一歩身を退くようにして常に隠蔽され、<私>というような対象化された<存在しないもの>についての問へとすり替わる。いつの間にか対象と化した私は、前-私的な存在者が作り上げた-私、なのだろうか。ともかく、何よりもまず、私自身というものが、<呼び求め>、である場合、その呼び求めを唯一聞きうるものとして、呼び求め、つまり私自身に、私は優位を保っているのである。呼び求めは、なおも対象ならざる対象として存している。それはゴーレムやペガサスやケンタウロスよりもなお、対象ならざる対象として存在している。そういう意味で、私自身という存在は全き他性であるようなところのものである。
“私が私を名指し得ない特異な場所に私自身が存在していることを直感しうるところの存在者“。存在者の権能は他者に対するよりも無力であり、他者よりも全く他者だという点にある。私という存在者はまずもって、私自身に、存在に、呼び声に、明け渡され任じられ、全うする以外の道がないということである。したがって、どこまで行っても世界的に存在者は受動性に塗れている。存在者の能動性は世界を十全に感知し得ない点にのみ担保されているに過ぎない。ここでの課題は、名指し得ぬ存在者を前-存在論的に存在者の前に引きずり出し、召喚することにある。そして、この<私自身>を<前-存在者性>と名付ける。どんな存在者も自分の生を私は選べず、また親からもどんな子をというようには選ぶことなく生を受けるという状態でこの世に生を受ける。母親と子を繋ぐ臍の緒<関係>が切り離される瞬間に、根源である母親を失いこの世に生を受けるのである。これは一般的にいって、私が違う国、時代で生を受けていれば、ここにいる私とは全く異なる性格を有していることと同様である。さらに、現在も未だ私を選ぶことが出来ないように外部を選ぶことができないように。そして<私自身>というものは<私>という窓と共に変更を被っている。存在者は絶えず世界からの影響を受けて生きている。それでもなお、存在者に優位があるのは、ジャンケレヴィッチの用語を借りれば、半開的存在者としてあるということにある。これは端的にいうとして、世界に対して半分開いており、半分は自己に閉じこもっているという単純な意味で、そのようにして私というものが存在しているからに他ならない。これはどんなに先のことを予知(そのときの感情さえも)できていたとしても、実際にその瞬間になるまでは(体験するまでは)それを良い意味でも悪い意味でも、知ってはいても、了解していない、ということにある。さらに、どんな存在者も知っていることと知らないことを合わせれば総体量は同じ(比率が違うだけ)ということからも半開的なのである。また、その瞬間に知覚していること、知覚していないこと、という意味でも半開的である。こんなものが私だとしたら、私はもはや私ではなく環境が作り出した、何者かであるにすぎない。前-存在者は一人称単数ではなく、むしろ、変容し続ける三人称複数として存在しているが、存在者はこれを捉えることが出来ない。これをこそ存在者の基盤の上に重くのしかかかる<前-存在者性>というべきものである。この<前-存在者性>は純粋に私と呼べるようなものではない。更に、私以外の誰それというわけでもない。マリオンは、端的に、<存在の問い>を、「蝶番のように存在している。」と記しているが、しかしこれは、この<呼び求め>、<前-存在者性>すらも、蝶番のように存在している。そこにつながれているのが対象化された<私>である。対象化された私というのは、つまり、この<呼び求め>、<前-存在者性>に対象化されているところのものである。マリオンのいう、<呼び求め>つまり、この<前-存在者性>が私に<呼び声(呼び声の不在でさえ)>を送付する。私はこの送付に対してどのような態度を取るかということを強いられている。私はここでもっとも思い切った形でこれを言わなければならない。この呼び声を送付された私の態度決定、回答は、既にして終わっているといってもよい。世界があることの知覚は既にして、物理的にいって、世界の客観的、超越的にはすでに終わっているものを人間存在は知覚している。これは世界に対して存在者が遅れを取っているということと同じである。それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。しかし、この私はこの関係性の前に於いて、疎外されている<私そのもの>が、<存在しないもの>を弾き出されながら立ててゆくことができる。それは半開の無知によって成し得ている。この様相は以下のような構成になっている。この<強いられ>という状況、<呼び求め>から<存在者>が生起する。"呼び声を聞かざるを得ない者"として生起する。この<存在しない私>を立てることができるのは、<私自身>が関係に<強いられている>こと、〈類〉によって保証されているからに過ぎない。ここで類といったのは、私そのものは単独者として、純粋に"私"ということが、できないくらいに、世界との関係に強いられているからである。つまり<私自身>でしかないような、純粋自我などのような存在者というものは最早存在し得ない。私は一人称単数であっても、<前-存在者性>は変容し続ける三人称複数によって存在している。”に対して”存在している、ということはもはやここでは意味を逸失しているだろうか。<前-存在者性>を存在者は捉えることが出来ない。それは世界を世界として捉えることが出来ないのと同じように、不可能な可能性としてのみ存在している。退屈というよりは寧ろ気分として存在している。<私自身(前-存在者性)>は便宜上、1人称単数の形をとっているが、この箱の蓋を開ければ、<三人称複数> なのである。それは非人称的な〈類〉である。恐らく、存在者が神のような絶対者を必要とするのは存在者が根源的に<類>だからである。神は根源を持ったまま関係<必然性>に引きずられている。全時空間的に存在しており、全てが成し遂げ終えているようなところのものである。故に神が存在するということは人間には認識し得ない。それどころか、神は存在者ではない。神はすべてを完了してしまっているが故に、全時空間的にあるが故に、何がしかの存在者ではない。神は驚異の念を抱くことができない。人間は根源を失った状態で関係<偶然性>にひきずられている。関係<必然>としなかったのは存在者から見て、何事もその瞬間まで<偶然>に過ぎないからである。偶然と必然の遊戯は存在者の位相を取るか、世界の位相を取るかということであるだろう。世界は超越論的には必然であるが、その時が未だや来ていないという点で存在者の認識はすべて偶然的に映るに過ぎない。過去現在未来の時制は、存在者が世界を知覚する地点にしか存在しない。過去→現在→未来のようには時間は過ぎ去っていない。存在者の優位性はすべてを現下に引きずり出す性格によって、存在者は存在している。超越的に見て、世界は何らの時制をもってはない。存在者の過去・現在・未来は次のような様態で存在している。過去が未来から現在に招来する形で現在に存在している。過去の過去性は厳密に完了していることであるが、世界は、なんら完了していないように見える形で存在者に送付されているが、すべてが完了している。ゆえに完了しているのは過去だけではなく、現在、未来、も既に完了している。これは存在者の意志ですら逃れることがない。存在者にはそうは映らないという点でのみ(未だ訪れていないという点でのみ)存在者の優位性は保証されている。このどうにもならない自由を持つ存在、これを現存在。または半開的存在者。またの名を<私>という。しかし、<前-存在者性>と<私>の区別は一体何によって成り立っているのだろうか。これは意識が区別させるものなのだろうか。この区別に何らかの意味があるのだろうか。この区別は<私>を<前-存在者性>に対するようにして存在者が存在していることの謂われであろうか。仮にこの遮蔽幕を取り払い、<前-存在者性>を<私>と同一のものと見なすならば、我々は何かを得るのだろうか。それは、私を含めて、<世界>が<状態>としてあり何の差異も存在しないということと同じであろうか。<私>が現在も尚、この<前-存在者性>より生み出されたものだとして、<私>が、<私>と言うことの権利は残っているのだろうか。反応ではなく抵抗であるという点でのみ、私は私なのだろうか。前-存在者性と私の間に存するものが私なのだろうか。それは現存在と何が違うのだろうか。そこではもはや大した区別ではないのではないだろうか。人間に体があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。しかし、確かに存在の声、呼び求められるものとして、なお依然として、存在者としてあるというこの事態。

 

 

■或る問(形而上学入門/ハイデガー

 "Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?"「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」というハイデガーの問いがあり、「形而上学入門」で取り上げられている。いずれにせよ 無いことに困るのは、ある時を、既に知ってしまっているからである。そして、それが何れ、帰って来るのではないか、或いは、何れその時がやって来るのではないか、というすべての期待(予持)の中に、今まさにその問に対峙しているからである。

 

「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」.....たとえば深い絶望の中にあって、ものごとからすべての重みが消えうせようとし、あらゆる意味がぼやけてしまうとき、この問いが立ち現れる。

 

この問いが及ぶ領域は最も広範である。この問いはどんな種類の存在者に達しても停止することがない。この問いはすべての存在者を、すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する。

 

われわれはわれわれの問うことの経過の現在の段階から、さらにもう一つの別のことを見渡すことができる。われれわれはさきに、「存在」という語は、普通の考えに反して、一つの全く限界づけられた意味を持つということを明らかにした。すなわち、存在そのものは一つの特定な仕方で理解されているということである。そのように理解されたものとして、存在はわれわれにとって開けて明らかである。しかしどんな理解も、開示の根本様式の一つとして、一つの特定な視線の中で動いているはずである。この物、たとえば時計は、われわれがあらかじめ既に時間とか、時間の計算とか、時間測定とかいうようなことを知っているのでないかぎり、われわれに対してはそれがあるところのものという点では閉ざされたままである。有様の視線はあらかじめ既に敷設されていなければならない。われわれはこれを先行-視線、「ペルスペクティーヴェ」と名付ける。

 

 ここでおそらく重要と思われるのは、「すなわち最も広い意味で現在眼の前に既にあるもののみならず、かつて存在したものおよび将来存在するはずのものをも包括する」

ということと、「先行-視線(ぺルスペクティーヴェ)」であろう。過去にあった、未来に必ずそうなる、というようなことはどんなことがあっても現存在に十全に正しく通達されることは在り得ない。従って、「この問いはどんな種類の存在者に達しても停止することがない」のである。なんらかの余剰と不足、あるいは次の瞬間が消し去る。同じように眼の前にあるものを見やるとき、存在者を見るとき同じように、十全に正しく通達されることは在り得ない。この十全に正しく通達されないことが存在者に残された唯一の可能性である。現存在は現在という時間に貼り付けられている。全く目が離せないでいる。過去や未来を想像しているときですら、それは現在というその瞬間においてそうしている。ただし、規定されていることを知らずにそうしている。存在者はは"存在"によってすべてが支えられている。この存在は現存在の根拠である。何かがあることの根拠としての。無が"ある"の前で(根拠)、"無"は"ある"。存在とは殆ど無である。ニーチェが言った存在とは幻であるというのはそういったことではないだろうか。意志の手前の意志や、環世界というものが、あるいは現在欠損している全て。これらがニーチェハイデガーが言っている"存在"という言葉ではないかと思われる。

 

 存在はどうなっているのか?存在を見ることができるだろうか?われわれは存在者を、この白墨を見る。しかし、われわれは色や光や闇を見るように存在を見るだろうか?あるいは、われわれは存在を聞き、嗅ぎ、味わい、触れるだろうか?われわれはオートバイを聞く、それが大きな音をたてて通りを疾走するのを聞く。われわれは大雷鳥を、それがそびえる森をすべるように飛び越えていくのを聞く。しかしほんとうは、われわれはただモーターのバタバタという物音や、大雷鳥がたてる物音を聞くだけである。純粋な物音を記述するなどということは大変むずかしく、われわれには不慣れである。というのは、それはわれわれが普通聞いているものではないからである。われわれは〔単なる物音に比べるならば〕いつでもそれより以上を聞いている。

 

 

 

 

ファン・ゴッホの描いたあの絵、無骨な百姓靴一足のほかには何もない。この絵は本来何ものも呈示していない。にもかかわらず、これを見るや直ちに、われわれ自身が晩秋のたそがれ、じゃがいもの茎を燃やし終えて鍬を肩に野から疲れた足で家路をたどっているかのようにわれわれはこの絵にあるものとひとりで対面する。何がそこで存在的であるのか?画布か?筆触か?色彩か?

いまわれわれが列挙したもののすべての中で、一体、存在者の存在とは何なのか?こんなことさえわからないとは、一体、われわれはなんという愚かなうぬぼれと賢さとをもって、この世界の中であちこち走ったり立ち止まったりしているというのか?

 

 

端的にいって、すべてがペルスペクティーヴェそれ自体の駆動によって、世界は既に完了しているとしたらどうだろうか。たとえばそれは、現存在を必要としないペルスペクティーヴェといってもよいのではあるが。それはちょうど、今私がこのキーボードを打っている、打鍵している意志の手前の意志によって、または世界によって既に終わっていなければ可能ではないことなのである。更に例を挙げるならば、物を動かすエネルギーによってどれだけの距離を移動するかということが、世界と共に規定されている。実際に物がその距離を移動し終える前に、エネルギーを加えた瞬間に決まっている。そのようにして人間の意志を含むすべての物理法則によって動く前からすでに動いている、ちょうどピンボールのように弾き出されている。そうやってはじまりのはじまりのはじまりの...というように無限に退行してゆく。広く言われている決定論が責任の概念を回避し得るという理論はこれである。ラプラスの魔物もここに属している。これに乗っ取るのならば始まりは既に終わっている。それでもなお、現存在の自由というものがあるとすれば、未だその瞬間がまだ実際に結果していない、という現在地点においてのみ、終わっていないという地点においてのみ、担保されているのである。故に現在という時間は、現存在にとってのみ全く何者にも規定されていないのである。いや規定されているが、現存在はそれを知り得ないということに規定されている。では、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」に対する、私のこの記述に対する同意は、同じように現存在の観測者の憶測の域をでない。世界は等の昔に終わっているが故に、何も始まっていない。何かが始まっているのは勝手に存在者が誤解の上で始まっているに過ぎない。現存在は何処までも非-知、非到来性によって守られているに過ぎない。人はそれを可能性と呼んでいるに過ぎない。どんな人間もこの同じ状態にある状況で何故私は「に過ぎない」というのだろうか。  Pourquoi il y plutôt quelque chose que rien?ということしかできない現存在の全体性において。この全体性は現-存在として発することしかできないという地点において。つまり、(世界-内-存在)の全体性において。

 

 

■神話・共同体・虚構において

 

残念ながらジャン=リュック・ナンシーをこの眼で見ることは叶いませんでした。

ですが、この来日のために、書かかれたテクストをナンシーの妻である、エリーヌ・ナンシーが、読み上げました。日本語で書かれたテクストをスクリーンに投影し、それはまさに詩のような文章で書かれており、また、エリーヌ・ナンシーによって、彼のテクストが朗読され、我々の眼前にありありと、ジャン=リュック・ナンシーを蘇生させました。ナンシーの不在を埋めるような、愛のような祈りでした。

 

パロールは発話者が居なければ聞くことがない。また、聴くものがいなければ、話すこともない。そういった意味でエクリチュールよりも、パロールのほうが、限定性が高いと言える。エクリチュールは、特定のある人に宛てるでもなく、宛先なく、宛先の受領なしに、在ることができる。(parole adressée à-.)でもおそらく、一人ではないという複数性をもって書いている。今私は誰かに向かって書いている、いくつかの想定し得る人を思って書いている。さらに無名の名指し得る、未だ出会ったことのない誰かに向かって、いつでも僕は有る何か、に向かって書いている。決して、無に書くことはできない。無の有としてしか存在しない。おそらく独白は、純粋に独白として存在することができない。

 

教授が言っていたように、同じテクストをジャン・リュック=ナンシー本人がここで読み上げることと、エリーヌ・ナンシーが読み上げることの何が違うのか。また、そういった意味で、ナンシー本人がいないにも関わらず、ナンシーの言葉が語られているというこの事態は一体なんなのかというこの問いは、奇しくもこの公演のタイトルである、『神話・共同体・虚構』と符合してしまった。

 

この三つはどれも人称性を欠いているのです。"宛先のない"ものであり、”発話者が存在していない"地点でもあるわけです。

つまり、これらは誰が書いてもよかったものでもあるわけです。さらに、誰が読んでもよかったものでもある、そういう風にあったわけです。

神話とは師から弟子へという伝承とは違う方法で、語り継がれている。

神話とは、ある特定の誰かに宛てられたものでは最早ない。神話自体、誰が書いてもよかったわけです。そういった神話の複数性が問題にあるわけです。ですから、神話は誤配の誤配でもあるのです。にもかかわらず、神話それ自体は、無傷のまま存在している。神話が語り継がれるのに失敗するという事態はもうとっくに終わっている。神話が記録された時点で、神話の誤配はオリジンの神話の派生としてしか存在することができない。それは別の神話にすぎないわけです。故に神話は永久に無傷のまま留まる。

 

ジョルジュ・バタイユ氏だろうか、否、ニーチェ氏に関してバタイユ自身がそう言っているように、バタイユ氏はそっとしておこう。

こと心臓に関わる限り「なになに氏」はそこにそっとしておかなければならない。

 

          ジャン=リュック・ナンシー

 

 

作品とは、ドゥルーズが書くことについて語った言葉を借りれば、「人は知っていることと知らないことの先端でしか書かない。」ということになるだろうか。最早可能性として、"祈り"として書く。これは書くことに留まることではないのです。人間の生そのものが、知っていることと知らないことの狭間で問いに付されている。もっといえば、というより寧ろ、知識ではなく、体験していない。未だやってこないということの方が本質的な事態であるように思われます。

 

このシンポジウムは、ある種の神話としてあったのだろうか。

宛先なしに、存在していたのだろうか。私は大学生であったことが一度もない。

にもかかわらず、この場は、無名の私、一般人である私に対しても開かれていた。

そうした意味でも確かにこの知は閉ざされておらず、開かれていた。当たり前のことだが、僕が居なくてもこのシンポジウムは開催されている。登壇者である教授が一人欠けようとも、開催される。何しろ、今回の主役である、ジャン=リュック・ナンシーが不在であるという事態でさえ、このシンポジウムは止まることがない。誰が居てもよかったにも関わらず。ある名指し得ぬある何かに向かって。語りつくし得ぬ不可能性の可能性へ向かって。

 

複数性。何も神話だけではないように思える。それはナンシー自身が1991年に心臓移植を受けたこの物理的な問題を待つまでもなく、「他人の心臓が私の心臓の内で...」という様相の許にある存在。

今もなおその他者の心臓で自己が作動している主体。心臓が入れ替わってなお、駆動する私という存在者。その中で主体とは何かを問われ問い続けている。一個の存在者に関してすら。僕の中に無限の存在者が流れている。他の存在者もそうなのであるならば、存在者があるということは一体、どういった相貌なのか。世界があるとは何なのか。一体、誰が語っており、誰が話しているのだろうか。世界と存在を隔てるものは果たしてなんなのか。外皮は剥がれ、むき出しの肉も剥がれ、灰となった骨、自己を差し出した先にある、複数性の呼び声、複数性の応答。誰もが産まれ終わっており、死も生の外にある、始点と終点を逸している存在者。存在。

 

あの空間にナンシーは不在の有として存在していたように思います。

確かに他者を通して、ナンシー自身が語り、他者を通して、ナンシー自身を聴いていた。それはむしろ、はっきりとした形で現れた。ナンシーの強大なエネルゲイアとして。

 

このシンポジウムのナンシーの最後のスライドは確かに普通の意味で時間軸として終わりの言葉です。しかし尚、終わり得ぬと言わんばかりに、言葉の意味はむしろスライドの最後であるという通常の時間軸に逆らうように、開かれた神話のように。

また、Adorashion(祈り)のように。

 

 

これはあの日の最後のスライドの言葉である。

何故最後にナンシーがこう言うに至ったのか、残念ながら記憶にないため、私にはわからない。

 

技術者たちは世界を変容させただけだ。

いまや不可能なものを世界に輝かせなければならないのである。

 

     ジャン=リュック・ナンシー

 

 

 

ロラン・バルト
内側から見てドアが開いているとき、外から見たドアは閉まっていると見せかけて、普通に開いているものである。
ところで何かを考えるには遮断する必要がある。遮断するとき人は襲撃される。
なぜなら遮断されている場こそ襲撃には都合がよいからである。思考が開始するのは襲撃されるからである。
したがって意思することを意識しても開始しない。cultureには斜線が引かれる。cult/ture。従ってカルトは開始される。
人は宗教的なものを嫌うというよりは神秘的なものを排除する傾向にある。なぜならばかばかしいからであり、
裏切られるからである。しかし、人間が神秘的なものを信ずるのも無理はないのである。なぜなら人間にとっての世界は、
現在以外のすべてが世界から脱落するからである。従って、最早ほとんど何もない地点に立ち続けることを強いられている。
過去を呼び出すのも、未来を想起するのも、既に/未だないもの、"不在があること"に向かっているのである。
従ってほとんどは信仰によるものである。信仰を廃棄する方法は幾つかあるだろうが、しかし、現在が現在である限り、
つまりは意識が切断である限りは、信仰は存在し、人間はそのために生きているのである。信ずるには直視しないことである。
我々は存在を忘却することができる。それはただ、思考しているとき、もっといえばそれに没頭しているとき、
頭がない無頭人(アセファル)である。いや、法がないのだ。それはとても大事なことなのだ。何故ならば、没頭しているとき、
それは憑りつかれることであり、そのとき人間は最も遠くまで歩いており、振り返ってみれば存在が消え去っていたことに気づくのだ。
現代に足りないのは憑依であり信ずることによる、common senseの忘却である。ところで供儀は人目につかぬところ(遮断)された場所で行われる。

 

そんなことはさておき、


バルトについてもう少し書きたくなってきたので、もう一度書こうと思う。
『彼自身によるロラン・バルト』、原題は『Roland Barthes par Roland Barthes』である。
さてこの原題を〈”彼自身”による>としたことを評価したい。最近読んでいる書物から幾つかを引用して留めておくこととする。
二つだけ、言っておきたいことがある。一つは彼の引用にある、
”君”や”彼”などの人称代名詞はバルト自身を示す(厳密にはこれはもっと入り組んだ問題なのだが)、ということであり、
もう一つはこの書物は精神分析的な意味での父(法)との対決であり、彼はこの書物において自らを殺人するつまり、
主体の消去を目指いているのである。創造された主体の破壊。したがって、ないものを破壊する行為となる。
しかし、これは循環する。つきまとう主体。生成され続ける主体の消去。当然これはロラン・バルトが生涯においてそうしてきたのである。
私はただただこれを畏敬の念で讃えたいのだ。優れた書物を読んだという感慨を受けるとき、最早存在には書くべき言葉などほとんど残されていない。

 

私は長いあいだ引き出しのなかに、この私自身の一片、料理の子羊のあばら骨に似た、ペニス状の骨を、しまっておいた。
それをどうすればいいのかわからないし、私自身という人物に対する権利の侵害になりそうで気おくれし、
厄介払いをするように捨て去る気にもなれなかったのだが、だからといって、そんな風にして私自身を机の中に、
古い鍵、学校の成績表、真珠のような光沢のダンス・カード、私の祖母Bのばら色のタフタの名刺入れといった「貴重品」類とごたごた一緒に閉じ込めておくのも、
かなり無益なことではあった。
そのうちに、ある日、すべての引き出しの機能は、さまざまの品物が無用となった後それらを一種の敬虔な場所、
ほこりっぽい教会堂の一種へ移して、それらの死をやわらげ、なじませてやることにあるのだと気づいた。
そういう場所に置いて、それらを生きたまましまっておくという口実のもとに、
それらに対してさびしく静かな死期という気高い時間を用意してやるものが引き出しなのだ、と気づいたものの、
その私自身の断片を、建物の住人共用のごみ入れに捨ててしまおうとまではさすがに思い切れず、
私はそのあばら骨とそのガーゼをバルコニーの上からほうり投げた。ちょうど、ロマンティックにも私自身の死骸の灰を、
セルヴァンドーニ街の通り、どこかの犬が嗅ぎつけてやってくるに相違ないところへ、撒き散らしたのだとでもいうように。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

 

ロラン・バルト自身が、肺結核の治療の末、スイス人の医師に肋骨の一片を持ち帰らされた話である。バ
ルトはこのことを「私の身体は私の所有に属する」と宣告されたようなものだと振り返っている。しかし、
彼はこのとおり、外に投げ捨てるのである。バルトのタナトスが見えないだろうか。”死をやわらげ、なじませてやることにあるのだと気づいた。
”への拒否。ここでドゥルーズを引用しよう。(孫引きだが)

 

欲望は死でさえも欲望する。なぜならば死の充実身体は欲望の不動の動者だからだ。ちょうど欲望が、
生の諸器官が作動中の機械(working machine)であるゆえに生を欲望するように。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』

 

 

ナルシズム的自我と死の本能とのこの関係は、フロイトが次のように言う時に深く強調するものだ。
彼は、リビドーは脱性化し、本質的にタナトスに従属しうる移動可能な中立的エネルギーを形成しない限りは、
自我へと逆流しないと言う。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』

 


さて、これを含めたうえで、先ほどのバルトの行為は、自我への逆流の結果かということはここでは置いておくとしても、
タナトス、死の欲望は死を通過する欲望である。つまりナルシズム的とは当然自我への逆流の現象であり、
死の欲望と対象的であるように思われるが、全ての対象的といわれるものは自ずと増大すれば増大するほどに両者は近接し融合するものである。
ところでラカン想像界を超えるもの、あなた/わたしを超えるもの、鏡像段階の契機を第三のもの、父という法に見ていたのであったのだが。
自我を流通回路へ再度返還するという動きがある。

 

・価値から理論への変換 Conversion de la valeur en théorie

"価値"から”理論”への変換(うっかり、私は自分のカードに記されている変換[コンヴェルシオン]を
「痙攣[コンヴュルシオン]」と読んでしまったが、それも結構)。チョムスキーをもじって言ってみようか、
すべての”価値”は≪書き換えられる≫(→)”理論”へ。この変換ーこの痙攣ーは、一種のエネルギー(≪エネルゴン≫)である。
すなわち言述は、この翻訳、この想像的転移、アリバイ創作によって産出されるのだ。価値から身をおこした理論が
(だからその理論の根拠が薄弱だということではなく)ひとつの知的対象となり、それからその対象は、
いっそう大型の流通回路に取り入れられる(それは、読者による別の≪想像界≫にめぐり会う)。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

 

ここにはひとつの困難がある、価値から理論への転換。それは何らかの理由付けである。
理由をつけることとは一体それがどのようにあるのかを連結することである。
しかし、それは他者にわかるようにしなければならないということであるが、バルトは書き換えられるといっている。
値から理論へという流れは同時に、私にとっての価値でもあるのだからそれはある種の自我への逆流と呼んでもよい。
ずらしながら"流通回路"へ再度返還するというこの"アリバイ創作"。

 

自我は同一化の堆積であり、いわば玉ねぎの皮のようなものである。ラカンの自我は、外部からやってくる。
他者のイメージとしての自我。しかしその外部からやってきたイメージを受け取る能力は人間に備わっているとする。
ラカンはそれをゲシュタルトという。フロイト/ユングではそれをイマーゴという。

 

ラカン入門 / 向井雅明』

 

 

人間は自らの外部に位置する像に自分を同一化し、疎外的に自分自身を作りあげていく。鏡はその一つの媒介にすぎない。

 

ラカン入門 / 向井雅明』

 

 

鏡の中のイメージは「私のものか、お前のものか」という双極的(dual)な競合の中に投げられる。そこで象徴的なもの(Le Symbolique、象徴界)に移行することが必要となる。

 

ラカン入門 / 向井雅明』

 


ところでこれらのテクストからバルトが行っているのは法の破棄である。
玉ねぎの皮としての自我の堆積は無限運動する流通回路となる。
無限に羅列を重ねることは歴史学ではなく、むしろ博物学に属する。
それは最終審級を他者に譲る供儀でもある。

 

・異なる弁証法

どこから見ても、彼の言述は、二項形式の一種の弁証法にもとづいて進行しているように思われる。
その両項とは、たとえば、世間の通念とその反対のもの、≪ドクサ[一般的な意見]≫とそれに対するパラドクサ[反対意見 逆説]、
ステレオタイプと革新、疲れと新鮮さ、好みと嫌悪すなわち≪私は愛する≫/≪私は愛さない≫。この二分制の弁証法こそ、
意味の弁証法そのもの(≪マークあり≫[有標]/≪マークなし≫[無標])であり、フロイトの遊びのそれ(≪いない≫/≪いる≫[フロイト『快楽原理の彼岸』])そのものである。
つまり価値の弁証法である。しかし、本当にそうなのだろうか。彼の場合は、もうひとつ、別の弁証法が輪郭をあらわし、次第に言表されようとしている。
彼の目から見ると、両項の矛盾はやがて発見される第三の項に席を譲るのではあるが、その第三項は綜合ではなく、≪方向をそらすこと[的はずれ]≫なのだ。
あらゆるものは回帰する。が、"虚構"として、すなわち螺旋の上の次の周へ回帰するのである。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

 

かくして、一義性は存在と意味、<一>と多という二つの面を備えた「存在論的命題」ということになる。
したがって「である(est)」に対するドゥルーズの批判、すなわち、「である」は形而上学の第一原理であり、
これがあらゆる形而上学を塞いでしまうという批判によって、存在論の必要性が改めて疑問視されると考えてはならないだろう。
確かに、一方では、多のただなかで諸関係の理論を優遇するとき、「である」[存在論]は消失してしまう。
諸関係は結びついた項たちに絶えず外在するゆえに、多様体は純粋な外在性における諸関係の相対以外の何ものでもないと言えるからだ。
ドゥルーズはヒュームの経験論のうちにこうした考えを求めようとする。諸原理に代えて、観念と状況の諸関係を用いること、
「「である」を「と」で置きかえること」。これこそが、本当の意味での「諸原理に対する生の抗議」である。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』

 

 

ところで「est〔である〕」から”s”を取ると、斜線を引くとどうなるか。
「et〔と〕」である。偶然か、意図しているのかは知らないが。
これはラカンに似ているではないか。”S”とは主体である。
さて玉ねぎの皮である主体は消去されるが、しかし”と”である”の無限運動は免れない。
Sは消えては現象することを繰り返す。注意しなければならないのは主体は消去されうるとか、
主体は消すべきだ。といっているのではない。なぜなら主体は鏡に反射する幻視だからである。
世界無しで思考が発動することはありえない。哲学はただ単に思考から、思考においてのみ生起する。
モンテベロはハイデガーに倣ってこういう。

 

しかしながら、思考とは、存在の思考のことである。言いかえれば、思考が生起するのではなく、
存在が現生するかぎりで、思考が存在するということなのだ。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』

 

 

・断章がかたちづくる円環 Le cercle des fragments

断章によって書く。そうすると、断章の群は円周状に並ぶ小石となる。
私は、円を描きながら自分を繰りひろげて見せる、私のささやかな宇宙を粉々にくだいて。
真中には、いったい何が?

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 


この玉ねぎの皮の中心は一体なんだろうか。無論何もないのである。
バルトはその透徹した目でディドロを引用しつつ、その中心を見る。

 

・分割された人格 La personne divisée

古典的形而上学にとって、人格を「分割する」ことには何の不都合もなかった(ラシーヌ、「私は私の中にふたりの人間をもっている」)。
それどころか、ふたつの対立項をそなえたまま人格は、一個の上出来のパラディグマ(≪高い/低い≫、≪肉体/精神≫、≪天/地≫)としてまかりとおっていた。
争い合う部分同士は、ある一個の意味、すなわち”人間”という意味を設立するに当たっては互いに手を組むのであった。
だからこそ、今日私たちが主体の分割について語るとき、それは決して、それらの単純な矛盾やそれらの二重の公準系などを検出するためではない。
目標は≪回折効果≫にあり、散乱であり、その散乱のあとにはもはや主要な核も意味構造も残らぬようにすることである。
私は矛盾しているのではない、分散しているのだ。そういう矛盾の群を、君はどう説明するのか、どういうわけでそれらを許容するのか。
哲学的には、君は唯物論者であるように見える(もしこの用語があまりにも古ぼけて聞こえるのでなければだが)、
倫理的には、君は自分を分割している。すなわち身体に関しては君は快楽主義者で、暴力に関しては、むしろ仏教徒ということになるだろう!
君は信仰を好まない、が、儀礼についていささかのノスタルジーを抱いている、という具合だ。君はさまざまの反応[反作用]を集めた寄せ木細工だ。
君の中に、いくらかでも≪独自の、最初の≫ものがあるか。

何か分類法を見ると、君は、それがどんなものであろうと、とにかくその分類表の中に自分を当てはめてみたくなる。
君の位置はどこか、というわけだ。はなのうち、君はその位置を見つけたような気でいる。
が、徐々に、彫像が風化するように、起伏が侵食され、平たくなり、その形をくずすように、
ああるいはさらに適切な例としてハーポ・マルクスが、自分の飲んだ水の効果によってそのつけひげを失っていくように、
やがて君は、もはや分類不可能なものとなる。しかもそれは、パースナリティーの過剰によるのではなく、逆に、君がスペクトルのあらゆる辺境部を遍歴するせいなのだ。
すなわち君は、弁別的と称する特徴を自分の中にいっぱい集めながら、いざ集めてみるとそれらの特徴は、
すでに何ひとつ識別させてはくれない。君が発見するのは、君が同時に(あるいは順ぐりに)強迫神経症的で、
ヒステリー的で、偏執病的で、その上倒錯的だということ(色情的精神病には言及しないとしても)。
あるいは、君がありとあらゆる頽廃的哲学、たとえばエピクロス主義、幸福主義、[誇張的でくどい]アジアニスム、
[すべてを善と悪の二分制で割り切ってしまう]マニケイスム、ピュロン主義を加え合わせているということだ。


「≪すべては私たちの中で生成した。というのも、私たちが私たちであり、つねに私たちでありながら、
しかも一刻たりとも同一ではないからだ。≫」(ディドロ『エルヴェシウスへの反駁』)

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

 

中央には何者でもないものが残る。残滓、"私たち"という残像である。
また、殺人現場に流れる血、痕跡としての乾いた血、それは彼だったものの血であると同時に、私たちの血にほかならない。
つまりロラン・バルトは”彼”なのだろうかそれとも”私たち”なのだろうか。
そして、これは当然ハイデガーフッサールの諸事象なのか事象なのか la chose même/les choses mêmeに回帰する。
血は痕跡を残しつつ空間に流れている。


ところで最初に殺人といった理由(アリバイ)は以下である。

 

・私ですか、私は[自我と私] Moi,je

人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。
「私[je]は想像界を発動し、「君[vous]」「彼[il]」は偏執病を発動する。しかしそれと同時に、
読み取り手によっては、ひそかに、モアレ[微妙に反映して見える波形模様]の反射のように、すべてが逆転させられる可能性もある。
「私ですか、私は」と言うとき、「私は」は「私ですか」ではない、ということがありうる。つまり「私[私は]」が「自我[私ですか]」を、
いわばカーニヴァルの喧騒のうちにこわしてしまうのだ。私は、サドがやっていたように、私に向かって「君」と言うことができる。
それは、私自身の内部で、エクリチュールの労働者、製作者、産出者を、作品の主体("著者")から切り離すためだ。他方では、次のような現象もある。
すなわち、自身について語らないことは、≪私は、自分について語らない"者"です≫という意味になりうる。そして、「彼」と呼んで自身について語ることは、
私は私の自我について≪あたかもいくぶんか死んでいるもののように≫、偏執病的強調という薄い霧の中にとらわれているものであるかのように語っている、
という意味になりうるし、それはさらにまた、私は自分の演ずる登場人物に対して距離設定[異化]をしなければならないブレヒトの役者の流儀によって私の自我について語っている、
という意味にもなりうる。その流儀とはつまり、登場人物を「示す」のであって、それに化身するのではなく、
また、せりふの言いかたにいわば爪ではじき飛ばすような効果を与えることであり、それは、代名詞をそれが代理している名詞から、
映像をその支持体から、想像界をその鏡から、引きはがす効果のためである(ブレヒトは役者に、自分の役をいっさい第三人称で考えるようにすすめていた)。
偏執病と距離設定法との間には、ものがたり性という仲立ちを経ての親近性がありうる。すなわち、「彼」という語は叙事的なのだ。つまり「彼」は意地が悪いということである。
それは言語の中でもっとも意地の悪い語である。それは無=人称の代名詞であり、みずからの指向対象を無力化し、おとしめる。
自分の愛する人に対して、うしろめたさを感じないでこの語を適用することはできない。
誰かについて「彼」と言うとき、きまって私は、ことばづかいによる一種の殺人を目のあたりに見る。
そのときには豪奢に、儀式めくこともある殺人の場面は、全体≪うわさ話≫なのだ。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

バルトが一歳のときにはすでに亡くなっている彼の父(法)は、おそらく、父がいる人間とは異なる法を生成する。
この書物、 『彼自身によるロラン・バルト』、原題『Roland Barthes par Roland Barthes』は、
この「彼自身による」 "par lui-même"のことである。彼は独自(彼自身)の法で彼を殺すのである。
主体へと逆流する自我aに斜線を引くこと。S(a)、しかしそれでは十分ではない。Sへ斜線が引かれている。
斜線を引かれた主体。欲望は死をも欲望する。欲望とは他者の欲望である。
そういった意味で主体は「私のいない”私たち”」なのであって、Sに斜線が引かれているのである。
そのときそれはもっとも神聖に彼(il)と言わざるをえない。無垢なAutreだけがある。誰もいない殺人の場がある。
彼が彼として彼する場、最早、私たちではない(彼たち)。ただただ彼を畏敬の念で讃えたいのだ。

 

 

 

ブランショヴェイユ

神は予め世界から退去していなければならない。


ブランショの『終わりなき対話Ⅱ』において、語られるシモーヌ・ヴェイユは『重力と恩寵』からの引用は殆どなく、『カイエ4』、『神を待ち望む』が大半を占めている。ブランショヴェイユを語るのは、この『終わりなき対話II』の『4.断片(欲望・不幸)』にあるように、キリスト教的解釈、または宗教的解釈から、神秘的なものから、引きはがすことを目的としている。つまり、宗教でもなく思想でもない、世界そのもの、存在そのもの様相が語られていると考えてよい。それはこの二人(ブランショヴェイユ)がどんなに神の名、または宗教的用語を使って語ろうともそれはそうなのである。


「この瞬間から神はもう何もする必要がない。私たちも同じだ。ただ待つこと以外に。」というヴェイユのこの言葉について、ブランショは「ここですら、シモーヌ・ヴェイユが可能なかぎり神の特別な介入をなくすようにしていることが見て取れる。神への不可能な接近を可能にするために、神の影響をなしで済ませようとしていた。それは人間の力に過度の信頼を寄せていたからではない。正反対である。」といっている。ブランショは続けて「機械的必然性が支配し絶対的に神を欠いている世界が、この空虚自体の純粋さによって神の本質にもっとも近いものであるのと同じように、私たちのなかで自然であるものは、私たちがその重みに耐えることに同意するかぎり、超自然に反転する準備がいつでもできている。」ここでブランショが用いている”機械的必然性”という言葉は、ヴェイユに沿って、"神の介入なしで”世界の様相、存在者の様相つまり存在それ自身を語ること、因果性について語っている。ここで私は『重力と恩寵』における、冒頭を引用したいと思う。


たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外されている。
重力と恩寵 / シモーヌ・ヴェイユ

 

”恩寵だけが、そこから除外される”と言っているときのヴェイユは多分存在者の側から話している。その上の「たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている」は世界そのものの既決定性から話されている。この重力の既決定性の上でなお、恩寵があり得るのは、というのも変な言い方ではあるが、未だ到来していないという、予持の現在の未達・誤配、予持がいつまでも作動し続けるためである。また、ブランショが『13.時代の変化について』の中で、ニーチェを引用し、「私は未来についての”不確実性”を愛する。」「私は未来についての無知を愛する。」「最高度の欠如の力へと差し出された来たるべきもの《l’à-venir》があるのだから。」の現在における非到来性に見ることもできる。次の現在への予感が存在者に既にある。それは、「無知へのこうした欲望にとって、無知は自らを欲望とする。この欲望は忘却が迎え入れる期待であり、期待がそのなかに入り込むところの忘却である。永遠の円環[annulus æternitatis]「<すべて>が回帰する」ことへの欲望は、それだけで、始まりも終わりもなしに、欲望を回帰させる。」

『6.ニヒリズムについての考察』の中で、”不確実性”を正しく解釈しなければならない。「偶然に左右される予測不可能なもの[alétoire](ただし、偶発的なもの[fortuit]ではないもの)」の[alétoire]として読むべきである。重力の上でなお存在者は未だ恩寵の到来[alétoire]がある。この世界にあるものは [alétoire]であり、[fortuit]ではない。ヴェイユの「重力 ― 一般的に言って、わたしたちが他人に期待するものは、わたしたちの中に動く重力の借用によって決められる。また、わたしたちが他人から受けるのは、他人の中に働く重力の作用によって決められる。ときにはこれが(偶然に)一致することがあるが、多くの場合一致しない。」における”偶然”は、[alétoire]の意味においてある。9.限界-経験において、ブランショバタイユを参照し、終わっていることの”可能性”が論じられるのは[alétoire]のうちでの出来事である。粒子への解体とでもいうべきバタイユの存在者の棄却。バタイユが限界に向かって思考するとき、ヴェイユと出会うのはこの点である。このときヴェイユのなかで何によって駆動しているのか。”多くの場合一致しない”によってである。バタイユが非-知によって駆動するのと同じくヴェイユも同様に、この欠如によって駆動する。何故この欠如があるのか。

 

神は神としてのその全能を放棄したし、自らを空にした。私たち人間のささやかな力を放棄することによって、私たちは空虚のなかで神と等しくなる。

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

 

神は一個の存在者であることを放棄したのである。ここでヴェイユの神の概念について、ヴェイユを引用しつつ、イツハク・ルリア(イサク・ルリア)の神の世界からの退去を語っているとブランショは言う。「事実、十六世紀の聖人かつ深遠な思想家であるイツハク・ルリア(その影響は大であったと誰もが知っている)こそが、昔のカバラの考え(「ツィムツーム」)を解釈しながら、創造に神の捨て去る行為を認めたのである。…神は創造しながら何かよけいなものを置くのではなく、まずは何かを不足させるのだ。無限の<存在>は必然的に全体である。世界が存在するためには、無限の<存在>は全体であることをやめて、世界に場所をあけなければならない。それは後退や退却の動きを通してであり、「いわば自身の内側のひとつの領域、一種の神秘的な空間を捨て去ることによってである。」言いかえれば、創造の本質的問題は、無の問題なのだ。…..それは犠牲、収縮、制限によるものであり、自分である全体から退去すること、消失するとは言わないまでも自分を消し去り、不在のものとすることについての、神秘的な同意によるものなのだ。(まるで世界の創造や世界の存在が神から神を立ち退かせ、神を神の欠如にし、それゆえ派生したものとして一種の存在論的な無神論が生じるかのようである。この無神論は世界それ自体とともにしか廃棄されることはできないであろう。世界があるところでは、痛ましくも神の欠如があるのだ。)」


仮に”この世界”に神があるとすれば、それは存在の全体性<必然>にしかないだろうと思われる。これはアリストテレスのいう”不動の動者”に近い。歴史の中で”不動の動者”は”存在”という語に置き換えられた。神の外としての”外立”、”実存”(エクゼステンティア)を成すものとしての”存在”として。よってそれはただ”ある”のである。この地点で存在それ自身は最早肯定するとか否定するとかいう次元にあるのではない。ブランショが13.時代の変化について-回帰の要請-で語ったことは、このような存在者の状況になおも「唯一のひび割れである。”けっして”」に既に投じられ続けているという状況にある。この切断。無が射し込むこと、時間の切断、としての幻影が現れる。そして存在者はこの幻影から出ることがない。例えば、それが幻影だと知ったところで、その幻影を排除することができないように。病気の原因がわかっても病気が完治することとは遠く隔たっているように。神は不動の動者として世界として臨在しているのであって、神自らの退去によってもたらされた空間を埋める。神はなんらかの存在者であること、一個の人格を断念したが故に神なのである。その神の欠如は人間における神の不可視性によって保たれる、あるいは神と人間の断絶において、存在者の未だ到来しないものとしての来るべきものとして、神が現象するのである。ここで私はマリオンが存在に先行するものとしての「呼び求め」を提出したときと殆ど同じものを見ているだろうか。声を聴くもの、「不意を突かれる者」として。私はすでに呼び求めによって私を”「“私を”の地位に任命されている者」としての存在者である。存在を可能にするものとしての「呼び求め」を聞く者。存在者とは存在の出口(Sortie de l’existence)に召喚されたものに他ならない。つまり、出口の途中に介入できないもの。声の中に戻ることを禁止されているものとして人間とは非力なのである。そしてこの存在と存在者の隔たりの中に意味が介入するのである。なぜか。存在とは”無“ではない。存在の上に”無”というベールが被さっているがゆえに”不可視に既に在るもの”はつまり、欠如として既に到来している。


存在者と存在を自明のように区別しているが一体何が自明なのだろうか。これは長い間、「存在論的差異」と呼ばれるているものである。そしてこれらは一貫して現在に至るまで「存在の問い」から放たれている矢である。何かがある。であれば、何かがあることの原因がなければならない。それが”存在”というただ一言で受け継がれてきたことである。存在者。これは現在において、何かがあるというときそれは名指しによって存在者として任命される。しかし、名指される前からそれは在るのである。例えば、眼の前にあるコップがある。このコップは3秒前もコップである。無論、このコップが作られたときから変わらずに(傷などの損傷はおいておくとして)コップである。さらに3秒前のコップ(存在者)は、現在のコップにとっての存在の一要素であるだろう。であるならば、コップは存在者でありつつ、存在でなければならない。コップでありつつ、既にコップであるにも関わらず、コップにならなければいけないもの。つまり、時間概念の導入によって、というよりは認識によってのみ、存在と存在者とは区別され得るだけである。「"コップ(存在者)"が"ある(存在)"」の”ある”が存在であるならばそれは名指すこと(留めること)で、つまり名指すことが存在から存在者を区別するのではないだろうか。物体だからわかりやすいという意味でそうしているだけであり、コップからそれを区別するものなどそもそも存在しないのではないのか。“存在”が、それがそうであるようにしている全てのこと、であるならば、その全てを”存在者”、ということも可能であるはずである。しかし、我々はそれを一個の何かとして保存することが出来ない。というよりは挙げるときりがない存在の存在性たちは、現在においてすら、その存在者と、何は関係があって、何が関係がないのか、の判断(裁断)は殆ど不可能であり、そうしたその都度の命名(すべてを命名すること)はすべてを差異化することで、全くの非-意味的な記号にすぎないからである。つまり存在者の前に存在があるということを一旦おいておくとしても、存在/存在者の区分というものが在り得るのは現存在の規定によるものではないのだろうか。つまり認識が現在に依存せざるを得ないのと同様に、認識とは存在者を任命するための亀裂を入れるための道具であるように。従って、全てはどちらかである。存在しかこの世界に存在しないか、それとも存在者しか存在しないのか、である。そしてこれはどちらも同じことを指しているに過ぎない。おそらく断言しなければならない。世界にあるものは、時間と空間による生成変化だけであり、それをその都度捉えて、何らかの意味を介入させ、なんらかの法則を見出し、愛という言葉で語られるそれらは、全て、存在なき存在の戯れであると。そして人間だけがそこに何等かの意味を見出す(してしまう)のだと。神が消し去ったものがあるとするならば、人間において、病にでもかからないかぎり、意味が消えうせることが絶対にないということである。それは死はこの生の中にない。という意味で、死が特権的な地位をもたないものである。我々は終わりなき駆動する記憶である。


「存在の出口(Sortie de l’existence)に召喚されたもの」としての存在者は一体誰に、召喚されたのか。先ほどのコップの例を取るならば、その都度召喚しているのはこの私に他ならない。そして、現存在は誰によって、呼び出されているのか。これも同様に私、ということになるだろうか。そうではない。私は私自身、何ものかによって呼び出されているのである。全てはそう名指すように既に呼び出されているのである。その時この呼び求めは最も高貴な神性として現れる。この声は一体誰の声か。

マリオンが存在/存在者に先行するものを見たものと同じものを見たと言ってもよいだろうか。贈与。愛。存在に先行する「呼び求め」。或いは、


ヴェイユに戻ることにしよう。

ブランショが引用した、ヴェイユの言葉とその先の少し。

 

「完全に神を欠いたものとしての世界は、神自身である」

重力と恩寵 /シモーヌ・ヴェイユ

 

 

 

「捨て去ることで神は私たちと別れるのだが、この捨て去りは私たちを愛撫する神のやり方である。私たちの唯一の悲惨である時間は、神の手からなる接触そのものである。それは神が私たちを存在させる放棄である。」

【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

 

 

神はわたしを存在の外見をまとった非存在として創造した。自分の存在だと思いこんでいるものを愛によって放棄し、わたしが虚無から抜けでることができるためである。
そのとき、もはや「わたし」はない。「わたし」は虚無に属している。しかしそのことを知る権利はわたしにはない。もしわたしが知っているなら、放棄する意味すらなくなるだろうからだ。わたしはついぞ知ることはないだろう。
他のひとびともまたかれら自身にとっては存在の幻影でしかない。


【カイエ4 / シモーヌ・ヴェイユ

 

 

■仮説-存在論的差異による人間の状況

現在または事象とは過去の堆積として未来から将来する形で現前する。事象は事象する前から既に事象へのエネルゲイアを備えている。 過去及び未来が“表象=代理”として、意識にルプレザンタシオン(再=現前化)する。それは物理的にも人間の認識の構造的にもそうなのであり、現在はルプレザンタシオンとしての現在でしかない。事象の経験は"私"は"私"を一度貫通することで”私”は経験する。※後者の”私”はルプレザンタシオン=表象=代理としての”私”のことではない※前者の”私”は世界(環境世界)を含んでいる。後者は主語としての”私”である。※”私”は環境世界を完全に度外視することはできない。意識において純粋な自由(矛盾)がないのと同じように。つまり、どちらにせよ、"私"はむしろ環境世界に従属している。安部公房の言った「他者との関係の回復はあり得るのか。」は世界との和解と言っても差し支えない。私と何かが関係するというこのことは、私の誕生が既に関係を破壊している。彼がいっているのはつまり完全な球体への不可能な修復の意志である。他者とは私の中に形成されてゆく他者である。 待つということは或る完了、其の地点までの不明瞭な時間であり、同時に待つということは期待するという事を含んでいるように思われる。その完了までには幾つかの可能性が存在している。可能性其のものが、未だ完了していないものが、確かに存在している。非存在の存在である。或は未存在と云ってもよいのかもしれない。私はこの非存在の存在を私の中に既に構築しているのである。欠如態。私は十全な意味でのあなた(最早そんなものはありはしないのではないか)、または主語としての他者と会話することは不可能である。客体的存在を解体し、再構築したものと会話しているのである。つまり話せば話すほど私は再構築したものと話すことになる。最早原型を留めていない他者である。他者との交流とは本来的他者から遠ざかるものでしかない。結局のところ現在のみが私の意志の通用する範囲であるが、先程述べたようにこの私の意志というのは、私が過去に受けてきたすべての経験と遺伝子を含む環世界、現在または未来の非到来、非知によるものでしかない。厳密に私は突如、意志することなどできない。それはそう見えるだけである。環境世界であり過去という既に終わったものがそれを決定しているに過ぎない。人間の意志とはそういう様相なのである。世界は可能性が現在に可能し続け終えている。可能が進行している。この可能性というのは過去が未来から将来する形で現在している。過去が将来する形で現在するとはどういうことか。車が走っているということは既にその前方の空間を占拠するというエネルギーを備えつつ走行している。その前方の空間は車が通過するということを既に許している。車とこの空間、そして時間は常にお互いを許し、開示し存在している。


私の能動性は他者としての私が一つの集合地点として意思しているに過ぎない。従って意志や思考は全て終わっており当然のように現在、瞬間、においても全く無力である。

差異がなければ類は在り得ず個もありえない。従って集合論は人間のための論理でしかない。一体どこから認識の差異は始まるのだろうか。これを認識するのは不可能である。我々はただ川の流れに身を委ねることしかできない。ラプラスの悪魔。裁きうるものが存在するとすればそれは神であるが、その裁かれるものとは神自身である。何故ならば神が作ったからである。全知全能は誕生した瞬間に死ぬ。よって少なくともこの世界に神という”ある存在者”は存在しない。完了する瞬間までは無限が横たわっているが、完了した瞬間にはその無限が収束を迎え現在するからである。ラプラスの悪魔は誕生した瞬間に死ぬ。これは無限であり全知全能な存在をもってしても、ある瞬間に到達するまでにあらゆるものを常に同時に選択することはできず、常に無限の非選択の決定が行われ完了するからである。人間は知らないということによって、非到来性によって欠如体であるがために、生きていることができる。 象徴(シンボル)とは関係のことである。何故ならば、一人でに何かがシンボルたることは不可能だからである。関係の絶対性。我々の思考は常に他者或いはこの他者との関係の中に決定づけられているようにして存在している。或いは私は既に一つの関係である。関係の内部法則はほぼ無限に近いものが横たわっているので、これらを汲み取ろうとすると手からこぼれ落ちる。結局、関係の内部は人間にとって完全な意味での必然として扱うことはできない。しかし関係それ自身はつねに十全である。全てであることと、無であることは殆ど区別がつかない。全時間・空間的な内部・外部合わせた全てを統合したある何かを、あるいは発生の始原を人は神と呼んでそれに祈っていたのである。今人類が行使していることは神からその座を奪うということである。仮に人間が必然へ至ったとしても、停止せざるを得ない。少なくともフーコーの「言葉と物」の上に新しい人間が築かれるだろう。内部は外部に規定され続けている。自己は既に他者であり、他者とは既に自己である。内部ができることは外と内の境界を内部から見つめ区別することだけである。従って、現象学の中に実在と現象の区別を持ち込むことになってしまう、というのは不毛な問である。すべて人間の知覚は現象である。常に問題は関係を作るということではなく、既に関係してしまったものとの関係の回復である。関係の理想は関係しないということと殆ど等しい。この境界の発見は既に外部との接触であり、この時点で完全な未知ではなくなる。これに出会った時点で区別され分断されてしまう。常に問題は関係を作るということではなく、既に関係してしまったものとの関係の回復である。しかし、関係とは人間の内的現象の内部で出会うものに過ぎない。世界や私や他者、全てはただあるだけであり、何も始めることができずただそれは終わり続ける。


人間に身体があり、意識があるのは純粋な私が存在しないからであり、虚無の虚栄心による虚像である。