la chose même / les choses même

マリオンは『存在者と現象』において、ハイデガーを引用してこう述べている。

 

われわれは現象学に専心しているのではない。現象学そのものが専心しているものに、専心しているのである。(ハイデガー

 

現象学の対象とは現象学ではない。それは諸事象そのもの<les choses même>である。(マリオン)

 

 

最終的には存在のみが還元を施す。あらゆる源領域(Urregion)を越えて、そして現存在をも越えて。(マリオン)

 

まさにこうした限りにおいて、そしてこうした限りにおいてのみ、われわれはなお、1927年のハイデガーのように、次のように、述べることが可能であろう。

すなわち現象学にとって「本質的なことは、哲学的な"方向"として現実的になるという点にあるのではない。なぜなら、現実性よりも、もっと高次のところに可能性はあるからだ。」

 

 

この可能性とはなんだろうか。何故、全てを越えて支配してる"存在"において、なお、"可能性"が出てくるのだろうか。ここでの可能性とは全てを凌駕した不可能性のことだと考えてよい。現象学の形式に拘わっており、それは、すべての知覚は現象学的でしかない、というこのことを免れえないことに、つまり、現実性というある客観性などというものはそれこそ存在しないのであって、客観性はむしろなんら現前に遅れており、従って客観性は遅延しているものにすぎず、すべてのあらゆる定義は人間の知覚の限界線でありなんら明瞭ではないというこのことに。そして全ては既に完了している。

 

 

小林秀雄が「美しい花がある、花の美しさというものはない」というのですら正しくない。人間の知覚の限界が世界に名前を与え、それがある、とか、それがない、とか言っているに過ぎない。従って、顕微鏡を使わなければ見えないものなども同様に、それは最終審級が人間の知覚である限り、それがそれとしてあるのである。概念も同様である。私は眼の前に見える花が概念であるかどうか判別することができない。従って実在/概念はなんら自明ではない。

 

人間において徹頭徹尾この最終審級から、最終審級としてしか問題とならないのである。つまり我々はこういわなければならない。

美しい花などない、花の美しさもない。美しい花と思ったり、美しさがあると思ったり、花がある、と思ったりすることがあるだけである。そしてこの思っているということも。

 

「問題であるものは、いつもただ、前もって与えられた対象の存在、実在的対象の存在のみである。すなわち結局はただ、考察にとっての対象存在という意味での、対象性としての存在のみが問題なのだ。(ハイデガー)」

 

 

それこそが、「まさにこうした限りにおいて、そしてこうした限りにおいてのみ、われわれはなお、」の意味である。

 

あえてマリオンの前に召喚するまでもないが、現代思想の中にオブジェクト指向存在論というものがある。これは当然のように現象学の問いであり、現象学を超えるものではない。マイノングの対象論からその弟子マリー、ブレンターノ、フッサールに引き継がれ連綿と続いてきたことを読まずに繰り返しているだけに過ぎない。というよりはスピノザで終わっている。

 

現象学-存在論の地平の踏破は全く別のところにあるか、あるいはすでにここにおいて終結している。

 

例えば現象学が扱うものが、捉ええぬもの、つまりあまりにも巨大な複数の対象、つまりありとあらゆる現在までのすべてによって、我々がようやく存在しているのであるならば、それはつまり"存在"というこの一言によってすべてを担われてきたのであるが、われわれは、それを名指すことができない。例えば世界が現象することの根源に名前が付けられたならばそれはそうであるが、しかしながら、それは"存在"となんらかわりがない。我々はこの名指すことができないものによってなりたっており、その限界として存在者/存在を分かつもの、つまり現前することがここで起っているというこのことをマリオンが指摘するように、「神、存在、他者、自己触発、そして差異のありとあらゆる形態を呼び起こしてみても、困難を名指しうるにとどまり、困難を解決することにはならない。」としたうえで、<起源の呼び声>によって<da-そこ>に召喚されるものとしての<私>を提示するが、しかしそれは結局のところ、上でマリオン自身が列挙した、「神、存在、他者、自己触発、差異」と「起源の呼び声」を対置したところで、なお依然としてかわりがない。だが、『存在者と現象』におけるマリオンはそれを越えている。何故ならばマリオン自身、"存在"を現存在すら超えた原領域を侵犯するものとして、存在者として召喚する"存在"としての"存在"を想定しているのだから。<私>はまさに徹頭徹尾与えられ(贈与)され、既に常に還元されたところにおいて現れ続けるところのものである。それはどんなときも所与として現れている状態に過ぎないと述べればいいのである。つまり現前を解体すればいいのである。我々は何もする必要がないばかりか既にすべてを終えているものの名だということだ。そのことを<私はすでに知っている>といえばいいのである。それでも現前するじゃないかという議論はばかげている。ただの作用にすぎない。

従って現象学とはそれが現象しているにも拘わらず、当のそのものを名指し得ないということ、および、すでにエンテレケイアである現前が時間と知覚により絶えずエンテレケイアとエネルゲイア(人間にはそう見えるが、おそらく世界は既に常にエンテレケイアである、それどころか誕生からすでにエンテレケイアである)であることが反復しつつ並走するように見えるという事態によって、私や他者やその他すべてのものは還元の還元という永久機関に巻き込まれているということを明かした点にこそ重点は置かれるべきであり、方法論とは何の関係もなく存在者の根本形式の限界なのであり、それこそが正しいのである。これを証明することはほとんど不可能であるが、自由意志や主体や主観や他者や意志や思考や客観や世界などのような思想をなんの疑いもなく信ずるよりはまともである。

 

la chose même / les choses mêmeという、ハイデガー/フッサールの差異は結局のところ、そういった差異に過ぎない。そこに一つの名前がつくのか、現在までのすべての諸事象の列挙なのかというその差異でしかない。それはつまり"存在"に複数形の"s"が 付くのか、というそのような問題にすぎない。それは差異ではない。

 

客観や主体などを信じている人々の方がいっそう神秘家であり幻想主義者である。

だがこれも同様に現象学の内部でのある出来事に過ぎない。すべては存在による存在の戯れである。

 

最早私は、「花がある、と思ったりすることがある。」ということも疑わしく思う。

全てが。