受動的発生/能動的発生

 

例えばデリダが『フッサール哲学における発生の問題』で提出したこのことは、

つまりデリダがいうように「フッサールを不安にさせるもの」は、いわば”発生の起源”という問題はどんなところにも及んでおり、未だ人間は"発生"というこのことがどこからやってくるのか、"それ"はいつ発生し、その発生がなんなのか、ということについて全人類が未だ解答を提出できずにいることを、再提出したのである。しかしながら、あらゆるものの再提出が悲観的に再提出ではないということだけは言っておかなければならない。デリダが提出したこの『フッサール哲学における発生の問題』というデリダ修士論文は、当然デリダの内で始まっているのではあるが、当然フッサールからこの問は始まっており、かつフッサールよりも前に幾らでもさかのぼることができる、という意味で、この論文が提出された年月を、例えば何年何月何日というように示すことには何の意味もない。例えば、桜は一般的に春に花を開くが、当然、花を開くためには既に桜の樹が植えられていなければならない。そして、悲しいことに人が"桜を見る"のは春以外にはないのだ。そして春を除く桜の樹は、美しくないと言われないまでも、誰の眼にも映らないような仕方で尚そこに常にある。更に言えば、桜の樹があるためには既に桜が存在していなければならない。これはありとあらゆる物に関していつからそれがあるのかということは、”今の姿であるのは”、というに留まる。桜が桜としてあるには、人間の意識なしにはあり得ない。人間の意識なしに存在するものは、桜として、存在していないのである。純粋世界とも呼ぶべきものは、我々が認識しているようにそれはそれとして存在しない。ただ全てがあるのである。何かがそれとしてあるには、それは絶対的に受動的発生、観念連合においてなされていなければならない。従って、全ては失敗する。意味が限定の前にしか現れないということにおいて。現象が、「現象と非現象の現象」でしかないことにおいて。『フッサール哲学における発生の問題』はすべての存在のアルケ―を巡る問いである。

 

端的に言って発生の根拠を純粋自我に落とすようなことはしない、という意味で叢書の編集長であったマリオンがデリダのこの論文を書物として刊行することを薦めた理由もがわかる気がするのだ。それはこの二人の偉大な哲学的到達において、殆ど一致している。例えば、ごく素朴なこれら本文の外に両者の相に現れていると思う。

このそれぞれの文の中に同じように相反するものがある。

 

何が巡っているのか。哲学と思想である。

 

最終的に私は説得に従うことになってしまったのだ、そのことが間違っていようが正しかろうが、冒された危険の責任のすべてを担うのは私一人であること、このことは変わらないし、これは当然のことである。

 

フッサール哲学における発生の問題』/ジャック・デリダ

 

 

以下の書物を私は単独で書いたが、一人で書いたわけではない。これらのテキストはすべて、依頼や討論会、講演の結果である。すべてその折々のものなので(de circonstance)(文字通り、他の人びとに取り囲まれていたので)、それらの統一性や客観性、そして望むらくはそれらの厳密さを周囲の人びとに負っているのである。それゆえ私は ― 依頼という仕方で ― 私に与えられたものを ― 執筆は別として ― ここで返すのだということをはっきりと自覚している。ここでもまた贈与/賜物は、存在するという事実に先立っていたのだ。.....(中略)彼らなしにはこの書物が―そしてまた他の多くのものも―日の目を見ることができなかったであろう二人の友人、ジャン・デュシェーヌとロベール・トゥッサンに敬意を表した。レミ・ブラーグは、その文献学的な誠実さのゆえに、あまりにも多くの間違いを見つけることに耐えるよりもむしろわれわれの校正刷りを直すことを選んでくれたが、その事情をわきまえた上で彼に感謝したい。至らない点についてはすべて私の責任であり、私はそのことを他の誰にもまして知っている。

 

『存在なき神』/ジャン=リュック・マリオン