自閉せよ

 

自閉せよ。

 

全ての気晴らしに憎悪を。

 

現代は殆ど自閉することが不可能になってしまったが故に、

完全な自閉へと追い込まれた。

 

画面の中にある顔は最早顔として機能せず非人称の顔が増殖する。

よって、画面の中の顔をすべて消去した。(lineを消した)

私が他者と直接かかわるのは良くないと思う。今まで殆ど私から誰かに連絡をとることはなかったが。他者のために私は自閉する。

 

今までありがとう。何よりも、幸福を祈っている。

 

自閉せよ。

 

喫茶店でベラスケスの『侍女たち』の話をしている老夫婦。

ぺルスペクティーヴェの所為で私の思考はすぐさま、フーコーの『言葉と物』を参照する。

 

自閉せよ。

 

柄谷の1985-1988講演集成を一周した。哲学に思想を結びつけるのは全く意味がない、ということだけは言っておきたい。とはいえ、柄谷が擁護する意味でのデカルトは、つまり共同存在に堕とすことなく、擁護して語ろうとするもの(自己は既に滅却されているという意味でのハイデガーポストモダン哲学(人間の死の発見という意味での)批判)は、結局のところ、ただの単純な主観性であり、柄谷が世界に回収される自己では"よくない"、ただの独我論では"よくない"というような思想を持ち込んで社会を語ることには、それこそ意味がないのである。それは柄谷が解釈しきる手前にいるデカルト、つまり擁護しようとするデカルトに背いていることに柄谷は気付いていない。柄谷の意味で超越論的主体を持ってこようとも、結局のところそれは端的に言って、純粋自我的な純粋自由意志的な主体でしかなく、主-客体の二元論を超えていることにはならない。外に立つことを批判する意識が、端的に内的な主観性でないという理由は何処にも書かれていないといってよい。また柄谷は同じ口で、外に立つべきである、というのである。そういった外に立つべきである、外に立つことを批判する意識を持つべきである、というものはただの精神論に過ぎない。仮に残されているとすればそれを「自覚すること」であるが、それを自覚する以前からこのシステムは作動しているのであって、そこに介入の余地はないのである。全てはシステムの内での出来事に過ぎないといいきらない柄谷が最後に持ってくる坂口安吾論も最早なんの意味もなしていない。柄谷は最初から哲学に向いていないのであって、彼はもともと思想者だからであり、哲学者ではないからである。故に、スピノザを語るときも、なお、そこに"この"性を見出す主体を持ってくるのも結局のところ、同じ轍を踏んでいる。柄谷が批判した"人間"はそもそも最初から「ヨーガの行者」「植物人間」なのであって、フーコーやバルトが言った、人称の死は依然、ゾンビになったわけですらない。初期フィヒテに到達することもなく、後期フィヒテに到達することもなかったそれは、「敷衍されたフッサール」に戻ることをしか意味しない。人間とは、自らが死んでいるところの幻視であるということから眼をそむけるものである。"私"が特権的な地位にいるから思想を始めるのである。

 

自閉せよ。

 

職場が4月から変わる。とはいえ、都内。寧ろ家から少しだけ近くなったのでよい。

仕事はつまらない。縦横無尽に理解できたら面白いと感ずるのだろうが、私には無理だ。もう何もしたくない。

 

自閉せよ。

 

 

『哲学はどこへ――現象学の展開』に行った。

美濃部さんのフィヒテ論がとてもよかった。

それ以外は不毛だった。

 

思考が纏まらない。

筆と紙の葛藤する空間に定位せよ。

 

自閉せよ。

 

ここ数か月ページをめくられていた本。

意味がない。

 

『論理学研究Ⅰ-Ⅳ』

『切りとれ、あの祈る手を』

柄谷行人講演集成  1985-1988 言葉と悲劇』

フッサール哲学における発生の問題』

『還元と贈与』

現象学形而上学

『存在なき神』

シュルレアリスム宣言・溶ける魚』

北園克衛全詩集』

『主体の後に誰が来るのか』

『声と現象』

論理哲学論考

『パリュウド』

『マチウ書試論・転向論』

『ムッシューテスト』

『半自叙伝』

『異境の現象学

『真理・存在・意識 フッサール『論理学研究』を読む』

『現代現象学―経験から始める哲学入門 』

 

自閉せよ。

 

 

あの子はあの頃のつもりか

僕たちを結びつける何にでも

 

纏めていく 彼も自分も

纏めていく 人も自分も

纏めていく 山も自分も

纏めていく 川も自分も

 

【ロープ / OGRE YOU ASSHOLE

 

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自閉せよ。

 

友人が『対話とは何だろうね』と尋ねた。

私は『モノローグだよ』とこたえた。伝わっているか知る由もないが、あらゆる内省も含めたコミュニケーションと呼ばれるものは文学空間のうちで非人称のまま非人称で行われている。内在的に他性が他性としゃべっているだけである。そして、全てはその空間のうちに非人称ですべては完了している。我々は何もしていないのだよ。すべて錯覚だ。ただの存在の遊戯。存在のモノローグ。

 

初めから全ては自閉している。