ロラン・バルトへ

 

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内側から見てドアが開いているとき、外から見たドアは閉まっていると見せかけて、普通に開いているものである。ところで何かを考えるには遮断する必要がある。遮断するとき人は襲撃される。なぜなら遮断されている場こそ襲撃には都合がよいからである。思考が開始するのは襲撃されるからである。したがって意思することを意識しても開始しない。cultureには斜線が引かれる。cult/ture。従ってカルトは開始される。人は宗教的なものを嫌うというよりは神秘的なものを排除する傾向にある。なぜならばかばかしいからであり、裏切られるからである。しかし、人間が神秘的なものを信ずるのも無理はないのである。なぜなら人間にとっての世界は、現在以外のすべてが世界から脱落するからである。従って、最早ほとんど何もない地点に立ち続けることを強いられている。
過去を呼び出すのも、未来を想起するのも、既に/未だないもの、"不在があること"に向かっているのである。従ってほとんどは信仰によるものである。信仰を廃棄する方法は幾つかあるだろうが、しかし、現在が現在である限り、つまりは意識が切断である限りは、信仰は存在し、人間はそのために生きているのである。信ずるには直視しないことである。我々は存在を忘却することができる。それはただ、思考しているとき、もっといえばそれに没頭しているとき、頭がない無頭人(アセファル)である。いや、法がないのだ。それはとても大事なことなのだ。何故ならば、没頭しているとき、それは憑りつかれることであり、そのとき人間は最も遠くまで歩いており、振り返ってみれば存在が消え去っていたことに気づくのだ。現代に足りないのは憑依であり信ずることによる、common senseの忘却である。ところで供儀は人目につかぬところ(遮断)された場所で行われる。

 

そんなことはさておき、


バルトについてもう少し書きたくなってきたので、もう一度書こうと思う。
『彼自身によるロラン・バルト』、原題は『Roland Barthes par Roland Barthes』である。さてこの原題を〈”彼自身”による>としたことを評価したい。最近読んでいる書物から幾つかを引用して留めておくこととする。二つだけ、言っておきたいことがある。
一つは彼の引用にある、”君”や”彼”などの人称代名詞はバルト自身を示す(厳密にはこれはもっと入り組んだ問題なのだが)、ということであり、もう一つはこの書物は精神分析的な意味での父(法)との対決であり、彼はこの書物において自らを殺人するつまり、主体の消去を目指いているのである。創造された主体の破壊。したがって、ないものを破壊する行為となる。しかし、これは循環する。つきまとう主体。生成され続ける主体の消去。当然これはロラン・バルトが生涯においてそうしてきたのである。
私はただただこれを畏敬の念で讃えたいのだ。優れた書物を読んだという感慨を受けるとき、最早存在には書くべき言葉などほとんど残されていない。

 

私は長いあいだ引き出しのなかに、この私自身の一片、料理の子羊のあばら骨に似た、ペニス状の骨を、しまっておいた。それをどうすればいいのかわからないし、私自身という人物に対する権利の侵害になりそうで気おくれし、厄介払いをするように捨て去る気にもなれなかったのだが、だからといって、そんな風にして私自身を机の中に、古い鍵、学校の成績表、真珠のような光沢のダンス・カード、私の祖母Bのばら色のタフタの名刺入れといった「貴重品」類とごたごた一緒に閉じ込めておくのも、かなり無益なことではあった。そのうちに、ある日、すべての引き出しの機能は、さまざまの品物が無用となった後それらを一種の敬虔な場所、ほこりっぽい教会堂の一種へ移して、それらの死をやわらげ、なじませてやることにあるのだと気づいた。そういう場所に置いて、それらを生きたまましまっておくという口実のもとに、それらに対してさびしく静かな死期という気高い時間を用意してやるものが引き出しなのだ、と気づいたものの、その私自身の断片を、建物の住人共用のごみ入れに捨ててしまおうとまではさすがに思い切れず、私はそのあばら骨とそのガーゼをバルコニーの上からほうり投げた。ちょうど、ロマンティックにも私自身の死骸の灰を、セルヴァンドーニ街の通り、どこかの犬が嗅ぎつけてやってくるに相違ないところへ、撒き散らしたのだとでもいうように。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

ロラン・バルト自身が、肺結核の治療の末、スイス人の医師に肋骨の一片を持ち帰らされた話である。バルトはこのことを「私の身体は私の所有に属する」と宣告されたようなものだと振り返っている。しかし、彼はこのとおり、外に投げ捨てるのである。バルトのタナトスが見えないだろうか。”死をやわらげ、なじませてやることにあるのだと気づいた。”への拒否。ここでドゥルーズを引用しよう。(孫引きだが)

 

欲望は死でさえも欲望する。なぜならば死の充実身体は欲望の不動の動者だからだ。ちょうど欲望が、生の諸器官が作動中の機械(working machine)であるゆえに生を欲望するように。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』

 

ナルシズム的自我と死の本能とのこの関係は、フロイトが次のように言う時に深く強調するものだ。彼は、リビドーは脱性化し、本質的にタナトスに従属しうる移動可能な中立的エネルギーを形成しない限りは、自我へと逆流しないと言う。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』


さて、これを含めたうえで、先ほどのバルトの行為は、自我への逆流の結果かということはここでは置いておくとしても、タナトス、死の欲望は死を通過する欲望である。つまりナルシズム的とは当然自我への逆流の現象であり、死の欲望と対象的であるように思われるが、全ての対象的といわれるものは自ずと増大すれば増大するほどに両者は近接し融合するものである。ところでラカン想像界を超えるもの、あなた/わたしを超えるもの、鏡像段階の契機を第三のもの、父という法に見ていたのであったのだが。
自我を流通回路へ再度返還するという動きがある。

・価値から理論への変換 Conversion de la valeur en théorie

"価値"から”理論”への変換(うっかり、私は自分のカードに記されている変換[コンヴェルシオン]を
「痙攣[コンヴュルシオン]」と読んでしまったが、それも結構)。チョムスキーをもじって言ってみようか、
すべての”価値”は≪書き換えられる≫(→)”理論”へ。この変換ーこの痙攣ーは、一種のエネルギー(≪エネルゴン≫)である。
すなわち言述は、この翻訳、この想像的転移、アリバイ創作によって産出されるのだ。価値から身をおこした理論が
(だからその理論の根拠が薄弱だということではなく)ひとつの知的対象となり、それからその対象は、
いっそう大型の流通回路に取り入れられる(それは、読者による別の≪想像界≫にめぐり会う)。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト 

 

ここにはひとつの困難がある、価値から理論への転換。それは何らかの理由付けである。理由をつけることとは一体それがどのようにあるのかを連結することである。
しかし、それは他者にわかるようにしなければならないということであるが、バルトは書き換えられるといっている。価値から理論へという流れは同時に、私にとっての価値でもあるのだからそれはある種の自我への逆流と呼んでもよい。ずらしながら"流通回路"へ再度返還するというこの"アリバイ創作"。

 

自我は同一化の堆積であり、いわば玉ねぎの皮のようなものである。ラカンの自我は、外部からやってくる。他者のイメージとしての自我。しかしその外部からやってきたイメージを受け取る能力は人間に備わっているとする。ラカンはそれをゲシュタルトという。フロイト/ユングではそれをイマーゴという。

 

ラカン入門 / 向井雅明』

 

人間は自らの外部に位置する像に自分を同一化し、疎外的に自分自身を作りあげていく。鏡はその一つの媒介にすぎない。

 

ラカン入門 / 向井雅明』

 

鏡の中のイメージは「私のものか、お前のものか」という双極的(dual)な競合の中に投げられる。そこで象徴的なもの(Le Symbolique、象徴界)に移行することが必要となる。

 

ラカン入門 / 向井雅明』

 
ところでこれらのテクストからバルトが行っているのは法の破棄である。
玉ねぎの皮としての自我の堆積は無限運動する流通回路となる。
無限に羅列を重ねることは歴史学ではなく、むしろ博物学に属する。
それは最終審級を他者に譲る供儀でもある。

・異なる弁証法


どこから見ても、彼の言述は、二項形式の一種の弁証法にもとづいて進行しているように思われる。
その両項とは、たとえば、世間の通念とその反対のもの、≪ドクサ[一般的な意見]≫とそれに対するパラドクサ[反対意見 逆説]、ステレオタイプと革新、疲れと新鮮さ、好みと嫌悪すなわち≪私は愛する≫/≪私は愛さない≫。この二分制の弁証法こそ、意味の弁証法そのもの(≪マークあり≫[有標]/≪マークなし≫[無標])であり、フロイトの遊びのそれ(≪いない≫/≪いる≫[フロイト『快楽原理の彼岸』])そのものである。つまり価値の弁証法である。しかし、本当にそうなのだろうか。彼の場合は、もうひとつ、別の弁証法が輪郭をあらわし、次第に言表されようとしている。彼の目から見ると、両項の矛盾はやがて発見される第三の項に席を譲るのではあるが、その第三項は綜合ではなく、≪方向をそらすこと[的はずれ]≫なのだ。あらゆるものは回帰する。が、"虚構"として、すなわち螺旋の上の次の周へ回帰するのである。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

かくして、一義性は存在と意味、<一>と多という二つの面を備えた「存在論的命題」ということになる。したがって「である(est)」に対するドゥルーズの批判、すなわち、「である」は形而上学の第一原理であり、これがあらゆる形而上学を塞いでしまうという批判によって、存在論の必要性が改めて疑問視されると考えてはならないだろう。確かに、一方では、多のただなかで諸関係の理論を優遇するとき、「である」[存在論]は消失してしまう。諸関係は結びついた項たちに絶えず外在するゆえに、多様体は純粋な外在性における諸関係の相対以外の何ものでもないと言えるからだ。ドゥルーズはヒュームの経験論のうちにこうした考えを求めようとする。諸原理に代えて、観念と状況の諸関係を用いること、「「である」を「と」で置きかえること」。これこそが、本当の意味での「諸原理に対する生の抗議」である。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』

 

ところで「est〔である〕」から”s”を取ると、斜線を引くとどうなるか。
「et〔と〕」である。偶然か、意図しているのかは知らないが。
これはラカンに似ているではないか。”S”とは主体である。
さて玉ねぎの皮である主体は消去されるが、しかし”と”である”の無限運動は免れない。
Sは消えては現象することを繰り返す。注意しなければならないのは主体は消去されうるとか、主体は消すべきだ。といっているのではない。なぜなら主体は鏡に反射する幻視だからである。世界無しで思考が発動することはありえない。哲学はただ単に思考から、思考においてのみ生起する。モンテベロはハイデガーに倣ってこういう。

 

しかしながら、思考とは、存在の思考のことである。言いかえれば、思考が生起するのではなく、存在が現生するかぎりで、思考が存在するということなのだ。

 

ドゥルーズ 思考のパッション / ピエール・モンテベロ』 

 

 

 ・断章がかたちづくる円環 Le cercle des fragments

 

断章によって書く。そうすると、断章の群は円周状に並ぶ小石となる。
私は、円を描きながら自分を繰りひろげて見せる、私のささやかな宇宙を粉々にくだいて。真中には、いったい何が?

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

この玉ねぎの皮の中心は一体なんだろうか。無論何もないのである。バルトはその透徹した目でディドロを引用しつつ、その中心を見る。

 

・分割された人格 La personne divisée


古典的形而上学にとって、人格を「分割する」ことには何の不都合もなかった(ラシーヌ、「私は私の中にふたりの人間をもっている」)。それどころか、ふたつの対立項をそなえたまま人格は、一個の上出来のパラディグマ(≪高い/低い≫、≪肉体/精神≫、≪天/地≫)としてまかりとおっていた。争い合う部分同士は、ある一個の意味、すなわち”人間”という意味を設立するに当たっては互いに手を組むのであった。だからこそ、今日私たちが主体の分割について語るとき、それは決して、それらの単純な矛盾やそれらの二重の公準系などを検出するためではない。目標は≪回折効果≫にあり、散乱であり、その散乱のあとにはもはや主要な核も意味構造も残らぬようにすることである。私は矛盾しているのではない、分散しているのだ。そういう矛盾の群を、君はどう説明するのか、どういうわけでそれらを許容するのか。哲学的には、君は唯物論者であるように見える(もしこの用語があまりにも古ぼけて聞こえるのでなければだが)、倫理的には、君は自分を分割している。すなわち身体に関しては君は快楽主義者で、暴力に関しては、むしろ仏教徒ということになるだろう! 君は信仰を好まない、が、儀礼についていささかのノスタルジーを抱いている、という具合だ。君はさまざまの反応[反作用]を集めた寄せ木細工だ。君の中に、いくらかでも≪独自の、最初の≫ものがあるか。

何か分類法を見ると、君は、それがどんなものであろうと、とにかくその分類表の中に自分を当てはめてみたくなる。君の位置はどこか、というわけだ。はなのうち、君はその位置を見つけたような気でいる。が、徐々に、彫像が風化するように、起伏が侵食され、平たくなり、その形をくずすように、ああるいはさらに適切な例としてハーポ・マルクスが、自分の飲んだ水の効果によってそのつけひげを失っていくように、やがて君は、もはや分類不可能なものとなる。しかもそれは、パースナリティーの過剰によるのではなく、逆に、君がスペクトルのあらゆる辺境部を遍歴するせいなのだ。すなわち君は、弁別的と称する特徴を自分の中にいっぱい集めながら、いざ集めてみるとそれらの特徴は、すでに何ひとつ識別させてはくれない。君が発見するのは、君が同時に(あるいは順ぐりに)強迫神経症的で、ヒステリー的で、偏執病的で、その上倒錯的だということ(色情的精神病には言及しないとしても)。あるいは、君がありとあらゆる頽廃的哲学、たとえばエピクロス主義、幸福主義、[誇張的でくどい]アジアニスム、[すべてを善と悪の二分制で割り切ってしまう]マニケイスム、ピュロン主義を加え合わせているということだ。

 

「≪すべては私たちの中で生成した。というのも、私たちが私たちであり、つねに私たちでありながら、しかも一刻たりとも同一ではないからだ。≫」(ディドロ『エルヴェシウスへの反駁』)

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

中央には何者でもないものが残る。残滓、"私たち"という残像である。
また、殺人現場に流れる血、痕跡としての乾いた血、それは彼だったものの血であると同時に、私たちの血にほかならない。
つまりロラン・バルトは”彼”なのだろうかそれとも”私たち”なのだろうか。
そして、これは当然ハイデガーフッサールの諸事象なのか事象なのか la chose même/les choses mêmeに回帰する。
血は痕跡を残しつつ空間に流れている。


ところで最初に殺人といった理由(アリバイ)は以下である。

 

・私ですか、私は[自我と私] Moi,je


人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私[je]は想像界を発動し、「君[vous]」「彼[il]」は偏執病を発動する。しかしそれと同時に、読み取り手によっては、ひそかに、モアレ[微妙に反映して見える波形模様]の反射のように、すべてが逆転させられる可能性もある。「私ですか、私は」と言うとき、「私は」は「私ですか」ではない、ということがありうる。つまり「私[私は]」が「自我[私ですか]」を、いわばカーニヴァルの喧騒のうちにこわしてしまうのだ。私は、サドがやっていたように、私に向かって「君」と言うことができる。それは、私自身の内部で、エクリチュールの労働者、製作者、産出者を、作品の主体("著者")から切り離すためだ。他方では、次のような現象もある。すなわち、自身について語らないことは、≪私は、自分について語らない"者"です≫という意味になりうる。そして、「彼」と呼んで自身について語ることは、私は私の自我について≪あたかもいくぶんか死んでいるもののように≫、偏執病的強調という薄い霧の中にとらわれているものであるかのように語っている、という意味になりうるし、それはさらにまた、私は自分の演ずる登場人物に対して距離設定[異化]をしなければならないブレヒトの役者の流儀によって私の自我について語っている、という意味にもなりうる。その流儀とはつまり、登場人物を「示す」のであって、それに化身するのではなく、また、せりふの言いかたにいわば爪ではじき飛ばすような効果を与えることであり、それは、代名詞をそれが代理している名詞から、映像をその支持体から、想像界をその鏡から、引きはがす効果のためである(ブレヒトは役者に、自分の役をいっさい第三人称で考えるようにすすめていた)。偏執病と距離設定法との間には、ものがたり性という仲立ちを経ての親近性がありうる。すなわち、「彼」という語は叙事的なのだ。つまり「彼」は意地が悪いということである。それは言語の中でもっとも意地の悪い語である。それは無=人称の代名詞であり、みずからの指向対象を無力化し、おとしめる。自分の愛する人に対して、うしろめたさを感じないでこの語を適用することはできない。誰かについて「彼」と言うとき、きまって私は、ことばづかいによる一種の殺人を目のあたりに見る。そのときには豪奢に、儀式めくこともある殺人の場面は、全体≪うわさ話≫なのだ。

 

『彼自身によるロラン・バルト』 / ロラン・バルト

 

バルトが一歳のときにはすでに亡くなっている彼の父(法)は、おそらく、父がいる人間とは異なる法を生成する。この書物、 『彼自身によるロラン・バルト』、原題『Roland Barthes par Roland Barthes』は、この「彼自身による」 "par lui-même"のことである。彼は独自(彼自身)の法で彼を殺すのである。主体へと逆流する自我aに斜線を引くこと。S(a)、しかしそれでは十分ではない。Sへ斜線が引かれている。斜線を引かれた主体。欲望は死をも欲望する。欲望とは他者の欲望である。そういった意味で主体は「私のいない”私たち”」なのであって、Sに斜線が引かれているのである。そのときそれはもっとも神聖に彼(il)と言わざるをえない。無垢なAutreだけがある。誰もいない殺人の場がある。彼が彼として彼する場、最早、私たちではない(彼たち)。ただただ彼を畏敬の念で讃えたいのだ。