意味1

テクストそれ自身は時間を持っているといえるだろうか。それはそれとして、例えば、こんな文章にもすでに時間がながれているのだろうか。分かりやすくいえば、小説や映画のフィルムは再生されるとき時間が現れるような意味での時間。これら小説やフィルムは、読まれずに、誰にも見られずに、すでに時間が内包されているのであるのだろうか。こうして書いているうちに既に私は時間が経過するのを感ずるし、この文章が読まれることにしても、順序を追って話すことによって、文そのものの中に時間の流れができあがってゆくとでもいうのだろうか。世界の到るところで起きている全ての出来事に思いを馳せるならば、私なしでその時間は体験されている。いろいろな時間がある、といった場合、端的にいって、独立したたくさんあり、時間が世界に散らばっているということではない、というようにとらえられている。つまりそれはベルグソンのいう意味で時間を空間化(事象化/体験化)したときにおこるということに過ぎない。さて、文章は上から下へ、左から右へあるいは左から右へというように順に読まれていくことによって時間が顕在化しているのは確かである。意味が流れるとき時間は流れうる。作品とは、普通の意味で世界に流れている時間とは別の時間を、人間の内部に表象するもののことである。作品は反復されうる。つまり読み返したり、思い出したりして、反復される。つまりそれは間違っているか正しいかということを抜きにして。そうであれば、作品と言わずとも、われわれは、各々さまざまな体験をし、それが思い出し得る限りで記憶となり、反復しうることがある。ところで今というものが今現在という点だとすると、われわれは現在を意識することなく現在している。われわれは間断なく(少なくとも私が認識しうる限りで)未来へ移行している。しかし何らかのある認識は、現在が切り落とされた地点で、過去と未来へ接続し、ある幅をもって現れる。通常「ある」ということに限るならば、点のような現在以外は常に世界から消え去り、世界から脱落している。われわれの認識は絶対的に世界の事象から遅れている。何かが「ある」という場合、若干の過去と未来を連接し「ある」だろうものを、「ある」といっている。ところで点のような今現在をこうして被っているのではあるが、人間が抵抗しうるのはこのような働きのためではあるといえるだろうか。人間の自由意志を認めるというのはこの現在のやり直しに対して認めている自由意志論者と、やりなおしそのものが自由に変更できる(つまり、思考がそれに自力で逆らうことができるという意味での自由意志論者がいる。)ところで後者に対し、あまりにも短絡過ぎると昔から言っているのである。まぁ現在に対してはあまりにも無力なので言葉もないのだが。ところで時間があるとはいったいどういうことなのだろうか。時間それ自身に対して私には何もわからない。何かが分かる、何かを知っている、というのは事象の周辺知識のことでしかない。まぁ知識がそもそもそのものの周辺のことを指しているのではあるが。