近状_雑記

存在から本質を引いたとき、なおもそれはそれか。
例えば、レモンは黄色い、あの形の、酸っぱい、などあるがこれらはレモンの要素であって、レモンの本質ではない。であれば、植物の分類学における定義だろうか。しかし恐らく植物学の定義も述語の集積にすぎない。であれば本質とは一体なんのことか。
おそらく本質とは意味であって、こういった述語の定義による集積などではない。
われわれはすでにレモンとオレンジを瞬時に区別しうるのであるが、
この区別、判断は、レモンではないがほとんどレモンのようなものに対して無力である。もはやレモンでないということには意味がないのである。
ところでこれらを正確に区別すべきだという声があがるだろうが、それは明らかに不便である。よって大抵人間はそこでやめるのである。ところが専門家の眼にはレモンにも様々な種類がある。このレモンの差異は、レモンはレモンであるという知よりも更に深い知に依存する。レモンであるが〇〇レモン、××レモン、というように品種が存在する。このような知によるレモンの分断は、つまりそういった色々なレモンがあるのは、人間の認識によって差異化し、個体化する。人間が見ているのは実在というよりも寧ろ観念的な意味だからということになる。同じ農園で同じ時期に収穫された二つのレモンの差異は、プロによって見分けられ得る。そこになんらかの差異を見出しうる限り人間はそれに対して、あれとそれとは異なる、というのだ。ところでプロでなくともあのレモンとこのレモンは、あのレモンとこのレモンという意味ではすでに違うレモンなのである。フッサールが形相的還元として言いたかったことは、一旦何処かで差異を消すことで、認識は学へ到達するということであって、カテゴリーとして、小さな差異は一旦置いておいて、あのレモンも、このレモンも、とりあえずレモンだということだ。レモンがある、というのは人間の認知の特性である。つまり個体化作用である。そもそも人間の認知なしに、レモンがレモンであることはあり得ない。この意味でガブリエルは正しい。レモンがレモンであるのは人間の認知の総体として、それはレモン足り得る。ここでライプニッツの個体概念は危うい。しかし、レモンがレモンとしてあるのは人間の認知によるものだとしても、当然のことながらレモンが人間の認知によって実るわけではない。人間の認知がレモンそれ自体に先行するわけではない。しかし、本質とは意味であると言ったところで何になるだろうか。とりあえずのところ述語の集積が本質に達するように思う。ここに存在者と存在の区分が見て取れる。ある何かの本質substantialは一個の何かではない。

 

ここであえて、ニーチェにおいても現象学は見られる。

ロラン・バルトが引用している。この認識は絶対的に正しい。

 

14.テクスト(の理論)

ニーチェが、ものたちの粗雑なかたちの彼方に知覚することを求めた、あの精妙な生成の学)である。「<…>われわれは、生成のおそらく絶対的というべき流れを見てとれるほど精妙ではない。不変のものが存在するのは、もっぱらわれわれの粗雑な器官のおかげにすぎない。われわれの器官はものたちを要約して一般的なレベルに還元してしまうけれども、そのようなかたちで実在するものなど何一つないのだ。木はおのおのの瞬間ごとに新しいものになる。われわれがそれをかたちだと言い切るのは、絶対的運動の精妙さをとらえていないがゆえなのである。」テクストもまたこの木である。われわれはその(かりそめの)名を口にするが、そのようなことができるのは、まさにわれわれの器官の粗雑さゆえにほかならない。

 

 

例えばドイツ、独裁者、と言ったところで、ヒトラーを想起することは容易い。

三角形の定義も同様である。
これが述語の集積が本質に達するということであるとする。
犯罪者の特定は現行犯であろうとも、このようにして特定される。
つまり、どんな逮捕も、述語の集積が証拠なのであって主語それ自体ではない。
現行犯での逮捕も、殺人の瞬間からは時空間的に隔たっているからである。
未遂で逮捕されるのは、殺人の瞬間をとらえられないからである。

 

1850年頃にフランスの都市化が進み、風景画は都市の絵も風景画として包括するようになった。VR空間も風景画になる。というよりVR空間の絵を現実の今までの絵として描くのではなく、VR空間にVR空間のミメーシスとして別のVR空間が描かれるのが現状である。


第一原因があるならば、それが神だろうが神じゃなかろうが、その第一原因の所為なので、たかだか人類に責任など存在しない。
不便なので責任があったりなかったりするだけである。つまり、自由意志への信仰である。

 

フーコーbotでこんな記述を見かけた。

 

権力の問題、政治権力の問題を統治性という問題の中に置いて考え直し、権力関係の流動的で、変更可能で、可逆的な側面に注目するならば、統治性という概念は主体という要素を理論的にも実践的にも経由せずに済ますことはできない。この場合主体は自己の自己への関係として定義される。

-主体の解釈学- ミシェル・フーコー

 

自己の自己への関係においてしか、政治的権力に対する抵抗点、第一にして窮極の抵抗点は存在しないとすれば、自己の倫理を構成することはおそらく緊急かつ根本的な課題であり、政治的にも不可欠な課題である。

-主体の解釈学- ミシェル・フーコー

 

ところで権力の維持は主体を経由するのは当然のことであるが、権力はつまり主体の欲望がシステム化したものともいえるだろう。安定した権力はシステムとなり自らを欲望する欲望として自動円環となる。例えば、企業においても例外ではない。資本主義においては貨幣が貨幣を欲望するのである。ところでこの欲望は共同体の欲望としてシステムとなるのである。従って、権力への抵抗は自己の倫理を改変することである。ということである。このようなことはガタリドゥルーズのアンチオイディプスにおいても語られていることである。

 

仮説

f:id:torus-torus:20180627173502j:image

たとえばこのような図はどうか。人間がどのような状態にあるかについての認識である。これをまとめて決定論現象学存在論と呼びたい。

人間は存在に十全に到達しないという意味で、知覚から存在への矢印は破線とする。現存在から存在者も破線にすべきだろうか。存在者は観念を含む。存在と存在者が分離し得るのは人間の知覚によるからであって、基礎的存在論がどうしても人間中心主義にならざるを得ない理由である。ここにおいてフッサールハイデガーの内部で現象学に対する解釈が揺らぐが、基礎的存在論現象学から出ない。また同時に現象学は基礎的存在論から出られない。

ここを突破するにはつまり、存在者/存在を分離することなく、認識しなければならない。つまり、世界は存在者か存在のどちらかしか存在しない。素粒子以上の個体論に陥ることなく、記述しなければならない。しかし人間の知覚が全体を記述するこが不可能であることから、フッサール/ハイデガー以降、形而上学はこのアポリアに引き裂かれている。現存在は存在に還元されているのであって、人間の知覚や思考もそれを免れるものではない。つまり、先ほどのフーコーに逆らって、現存在のこの様態がすべて素粒子などによる自動円環的なシステムであるとしたらどうだろうか。