無3

信号のない十字路で、普段なら気にも留めない赤い逆三角形の『止まれ』の道路標識が視線に飛び込むと、私は歩を止めなければならなかった。右からエンジン音と共に、アスファルトを僅かに揺らしながら、バスの黒いガラスに自分の姿と一人、斜め後ろにスポーツウェアを着た女性の姿が映った。ランニングだろうか。バスが通り過ぎるのを待っていると、いつの間にかその女性が私の足と平行線を結んでいる。三十半ばくらいだろうか、私の隣から彼女が無表情のままにこちらを覗き込む。すみません、宗教なんですけど、というその妙に言い慣れた口調に少し遅れて、皺一つない顔に浅く笑顔を書いた。普通であれば少し隠そうとするような気もする。スポーツウェアと宗教勧誘のアンバランスに、道路標識のような単純明快な勧誘の言葉にあっけに取られていると、私の左手を指さしながら次に彼女が発した言葉が、ケスクセ?ケスクセ?だったものだから、何が何やらわからず、すっかり気が滅入ってしまった。呪文のようなカタカナが「Qu'est ce que c'est?」(ケスクセ?(それは何?))のことだとわかったのは、彼女の人差し指と、大学で少しだけフランス語を囓っていたからだった。しかし彼女は、どっからどう見ても日本人だった。私は左手に何も持っていなかったし、もう殆ど覚えていないフランス語を使うのもなんだか癪なので、流暢な日本語で、何がですか?と不機嫌に言葉を投げると、彼女は書いた笑顔を消してつまらなそうに俯き黙った。そうこうしているうちに、エンジン音が数台、耳を通過する。しゃべりだしそうにもない彼女を尻目に、僅か数メートル先が遠い。交差点の向こう側の景色をぼんやり眺めていると、何の咄嗟もない滑らかな現実に、全てがあざとい記号のように見えてくる。ふとガソリンの匂いがした。諦めたのか、ふと横のスポーツウェアを見ると、今度は無表情のまま、私の顔を虚ろな視線が貫いていた。スローモーションのようにゆっくりと、彼女の唇が上下に割れ、おそらく彼女の言葉がこの十字路に響くはずだった時刻を前に、赤色の爆発音が燃えた。もう彼女の姿はなかった。私はくの字に腰を曲げた『止まれ』の道路標識から導かれるように左手に視線を落とすと、真っ赤に染まった左手から微かに生臭い液体の臭いを嗅いだ。